木洩れ日抄 84 ぼくのオーディオ遍歴 その7(最終回)── CDの出現と衰退と、そして…
2022.1.20
結局のところ、良きにつけ悪しきにつけ、CDの出現が大きかったなあと思う。
初めてCDを見たのは、上大岡駅の京急ストア(その頃はまだ、京急百貨店がなかった)のレコード店だったように思うのだが、レジの脇に、変な機械が置いてあって、その中で垂直にセットされた銀色の円盤がすごいスピードでまわっていた。どうやらこれがレコードに変わっていくらしいが、この小さい円盤を、どうやって店頭に並べるのかなあとそれが心配だった。
CDが出る前の段階で、レコードでも、デジタル録音というのがやはり出していた。DENONのPCM録音とかいうのが有名だったはずだ。ぼくがレコードで初めてデジタル録音を聞いたのは、たしか、ロンドンレコードから出た、ウイーンフィルのニューイヤーコンサートだったと思う。それを聞いて一番驚いたのは、「拍手」の音だった。一人一人の掌、いや一本一本の指が目に見えるようなクリアな音だった。写真でいえば、非常に解像度が高いという表現になるが、とにかく、不自然なほど、解像度が高かった。
ぼくは、音でも映像でも、解像度が高い、シャープなものが好きだが、しかし、この初めてのデジタル録音は、その「不自然さ」ばかりが目立ち、音楽に集中できなかったように思う。「自然さ」は何においても大事なのだ。
CDになっても、その解像度のよさは、変わることなく追究されていったのだろうが、それがスタンダードになると、もうLPには戻れなくなっていったのは当然である。
なにしろ、LPレコードには苦労した。すぐに傷がつく。傷がつけば、パチパチと雑音が入る。埃はたまるし、カビも生える。その埃やカビを取ろうとして、クリーナーを使うと、それがレコードの溝に溜まったりする。どうしても、そういったゴミがとれないと、乱暴な人は水で丸ごと洗ったりするという涙ぐましい努力が繰り返された。とにかく、ぼくも、「雑音との戦い」には、疲れ果て、うんざりしたものだ。
それがCDになったとたん、すっかり消えた。これほどの朗報はなかった。これで、あの面倒なメンテナンスから解放されたと思うと天にも昇る思いだった。
気がつけば、レコード店から、LPレコードは姿を消した。店頭にCDがずらりと並ぶ姿は、そうか、こうするのかと、以前の「心配」もばからしくなった。そして、ぼくの部屋にはCDがあふれかえることとなり、LPレコードは、数枚を除いてすべて売却してしまった。
ところがである。その後にやってきたのが、アップルのiTunesである。(他のサービスもあったが、ぼくはアップルしか使ってこなかったので)そこから音楽を曲単位で買えるようになった。初めは何のこっちゃと思ったし、日本の演歌なんぞは、ほとんどリストになかったから、たいしたことだとは思わなかった。演歌では、大石円という駆け出しの女性歌手が、リストにあった、カバーソングだったがチューリップの「サボテンの花」なんかを買ったりした。(ちなみに、この大石円──今は「大石まどか」──は、今ではかなり活躍している。)
それと同時に、iTunesを使えば、CDをパソコンに取り込める(リッピング)ことが分かった。本棚に溢れるCDがだんだん邪魔になってきていたので、しばらくそれに熱中して、2000枚(いや3000枚か?)ほどあったクラシックやジャズのCDをリッピングして、本体のCDはみんな売却してしまった。
そして、今、ぼくの部屋には、50枚ほどのCDと、数枚のLPレコード(そのうちの1枚は、南沙織の「南沙織ポップスを歌う」であることはいうまでもない。)だけを残すのみとなった。
肝心のオーディオ機器といえば、JBLの巨大スピーカー事件以来、まあ、何種類かの機器を買い換えたけれど、本格的な趣味とはならずに、テレビのサラウンド用に買ったDENONのセットをオーディオ用として使ってすでに15年以上になる。そして、音楽は、主として、Apple Musicか、リッピングいた音源を、MacからDENONのセットのほうへ飛ばして聞いている。
こうした経緯を振り返ってみると、つくづく感じるのは、かつて「音楽鑑賞」とか「レコード鑑賞」とかいっていた行為が、日常化して、特別感を失ったということだ。現に、ぼくなどは、ジャズでもクラシックでも演歌でも、スピーカーの前に座ってビクターの犬みたいにじっくり耳を傾けるということはここ数年まったくない。いつも、「ながら」聞きだ。
だからこその「LP復活」なのだろうと思う。レコードジャケットからレコードを取り出して、レコードプレーヤーのターンテーブルにのっけて、針を落として、といった一連の動作が、愛おしくなるのだろう。そして、かつてはあれほど耳障りだった「雑音」すら、懐かしさを誘う「いい音」となるのだろう。そしてさらには、「LPレコードの方がCDより音がいい」「LPの音のほうが柔らかい」といった言説が、あたかも疑いない事実であるかのように拡散していくのだろう。
ぼくは、基本的に「懐古主義」は好まないから、「昔はよかった」的な言説には、常に警戒心をもっている。しかし、「LPレコードのほうが音がいい」という説には、懐疑的だが、自分で今確かめてはいないから、「ひょっとしてそうかもしれない」程度の認識だ。しかし、今、Mac経由で、スピーカーから流れてくる音が、かつてのデジタル録音初期の、「不自然な解像度」を感じさせるものではなくて、ずっと進化していることは間違いないのだ。
LPレコードであっても、CDであっても、配信であっても、「機械」から流れてくる音であることに変わりはない。どっちが「いい音」かという判断は、あくまで「好み」の問題だろう。とすれば、最終的には、「録音」か「生」かということになるわけだが、それすらも、「好み」の問題であって、「絶対に生がいい」ということにはならないだろう。
「録音」は、「生音の再現」だから、「生」のほうがいいに決まってるじゃないかという人もいるだろうが、「録音」を「再現」とはとらえずに、「表現」と考えれば、そんな議論もふっとんでしまう。
こんなふうに今までの「オーディオ生活」(ぜんぜんたいしたもんじゃないけど)を振り返ってみると、音源が「録音」であれ、「生」であれ、そこにあった「音楽体験」こそが大事だったのだという、当たり前の結論になる。
ぼくがまだ20代のころだっただろうか。神奈川県立音楽堂に、当時人気だった、フランスの「パイヤール室内管弦楽団」がやってきたのを聞きにいったことがある。そのとき、バッハの「バイオリン協奏曲」をジェラール・ジャリのソロでやったときの体全体が宙に浮き立つような感動を今も鮮明に思い出す。そうした「音楽体験」は、他にもいくつも思い当たるわけだが、それらのほとんどが「生」であることを思うと、やっぱり生の演奏こそが、他の何ものにも代えがたい貴重なものなのだということは言えそうである。