木洩れ日抄 97 最後の道楽 【課題エッセイ 4 釣】
2023.1.10
暮れに、ご近所から釣ったばかりのタチウオを2匹いただいた。なんでも、親戚の子がさっき大量に釣ってきたからお裾分けだということだった。6、70センチはあろうという立派なタチウオで、さっそくその晩、焼いて食べたのだが、実に旨かった。
魚というのは、新鮮ならいいというわけのものでもないだろうし、新鮮だからといって生で食べるとアニサキスにやられたりするから油断はならないが、このタチウオの焼いたやつはスーパーで買ってくるのとは雲泥の違いで、日本酒を飲みつつ、じっくり味わった。ほんとに旨かった。
新鮮な魚で旨かったという思い出は、もう一つある。30年以上も前のことだが、まだ小学生だった二人の息子たちを連れて、母の郷里の糸魚川(旧青海町)へ遊びに行ったときのことだ。
家のすぐ近くの浜で息子たちが石を投げたりして遊んでいたところ、近くに置いてあったボートがスッと出ていった。そして、ものの30分もしないうちに戻ってきた。ボートから下りたオジサンが、息子たちに、ぼうやこれあげるよ、と言って魚をくれた。見ると、まだ生きているタラである。40センチほどだったろうか。息子がそれを腕に抱えると、まるで、温泉のCMのようにタラは腕のなかでピチピチと跳ねた。
家に持ち帰ると、叔母だったか、祖母だったかが、さっそく煮付けにしてくれた。これが旨かった。実に旨かった。
それまで、タラという魚は、鍋ものに入れてしか食べたことがなかったが、たいして味もなく、そのうえ、パサついて、旨くもなんともなかった。それが、このタラの煮付けは、しっとりと柔らかく、しっかりとした風味もあった。その時、日本酒も飲んだかどうか覚えていないが、とにかく、後にも先にも、こんなに旨いタラは食べたことがない。
そういえば、ぼくが中高生のころにも、よく糸魚川の家には行ったものだが、そのとき、隣の魚屋から買ってきたという、カレイの刺身とか、タイの刺身とか、名前は忘れたが白身魚の刺身がお皿いっぱいに出たものだ。そのころは、もちろん酒など飲まないから、そんな刺身にそれほど感動もせず、それほど旨いとも思わずに食べたものだが、今思えば、もったいないことをしたものである。
まあ、そんなわけで、タチウオにしてもタラにしても、釣った直後に、釣った人からもらって食べたという経験は、そうたくさんはないが、いずれも忘れがたい印象を残している。
件のタチウオは、どこで釣ったのか分からないが、おそらく三浦半島のどこかだろう。京急には、クーラーボックスと釣り竿を持ったオジサンがよく乗っている。金沢八景なんぞ界隈は、その昔、映画「釣りバカ日誌」のロケ地としてもおなじみなくらいで、その金沢八景まで電車で15分とかからない上大岡に住んでいるぼくなんぞは、釣り好きからすれば、いいところに住んでますなあということになるのだろうが、これがまたどうしたことか、ぼくは、釣りをしたことがないのである。
一度もない、ということでもなさそうなのだが、記憶が曖昧だ。たしか次男が釣りをしたいというので、本牧の方へ車で連れていったことがある。その時、次男は、ギンポとかいう小さな魚を1匹釣っただけだったが、ぼくは見ていただけで、釣り竿を垂れた覚えがない。
丹沢にあった中高の山小屋近くに、ニジマスの養魚場に釣り堀があって、そこで遊んだこともあるが、その時、釣りをしたかどうかの記憶がない。
わずかな釣りの記憶が、せいぜいそんなことしかないということは、「釣りをしたことがない」と言ってもいいということだろう。
チャンスはいくらでもあったのに、親戚にも渓流釣りに凝ってる者もいて、その凝りぶりを身近に見てきたのに、どうして自ら釣りをしてみようと思わなかったのだろうか。
思い当たることがひとつだけある。それは「釣りは最後の道楽だ。」という言葉だ。誰の言葉かしらないが、いやたぶん、誰の言葉というほどのものではなくて、よく言われること、ぐらいのところなんだろうが、これが、学生時代から頭に片隅にいつもあった。「最後の道楽」なら、今やっちゃいけない。最後までとっておかなくちゃいけない、と、どうも思い込んでしまったらしい。あらゆる道楽をし尽くして、行き着いた果てにある道楽、それが釣りだ、と。
なんで釣りが「最後の道楽」なのか。ぼくが勝手に想像したのは、次の二点だ。一つは、ものすごく金がかかるということ。そしてもう一つはものすごく高尚であるということ。しかし、いずれも、妄想の域をでない。それでも、そう思い込んでしまった。
確かに、釣りはそれなりの金がかかるだろう。けれども、道具もそれほど凝らず、近場の海とか渓流とかで、チマチマ釣っている限りでは、身上を潰すほどのことはないだろう。他に金のかかる道楽はいくらでもある。素人目には金のかかりそうもない書道だって、それで身上を潰す人だっている。要は、どう金を使うかだ。
もう一つの「高尚」ということ。これはもう、ほとんど現実離れした妄想でしかない。しかし、実にまた文化的な妄想なのだ。つまりは、中国の「山水画」の世界での話だ。
柳宗元の「江雪」という詩が有名だ。
千山鳥飛絶
万径人蹤滅
孤舟蓑笠翁
独釣寒江雪
千山鳥飛ぶこと絶え
万径(ばんけい)人蹤(じんしょう)滅す
孤舟(こしゅう)蓑笠(さりゅう)の翁(おう)
独り釣る寒江(かんこう)の雪
雪の降りしきる川で、たったひとりで釣りをするジイサン。これが、山水画の重要な題材となっているのだ。
山水画というのは、山や川や海の景色を描いたものではない。いや描いているのだが、実景ではない。いや、たとえ実景であっても、描こうとしているのは、そこにあるリアルな風景ではなくて、ひとつの「理想郷」なのだ。
俗世間を遠く離れた理想郷では、人は、家の中で、碁をやっていたり、琴を弾いていたり、橋の上であたりの景色を眺めていたり、舟に乗って釣りをしたりしている。その誰もが、こころの中に得も言われぬ充足を感じている。何の欲望も、何の不安も焦燥もない、「無の充足」を感じている。そして、中でも、舟で釣りをする人こそ、その充実の完全な姿なのだろうと思われるのだ。
釣りが「最後の道楽」だというのは、ほんとうはもっと別の意味なのかもしれないが、ぼくはなぜかそう信じてきて、そうか、まだまだ道楽が足りない、釣りは最後までとっておこうと思っているうちに、「途中の道楽」にかまけてばかりで、なかなか「最後の道楽」に辿りつけないのである。たぶんもう間に合わない。ぼくは、山水画の中に、釣り人のこころを求めるしかないようだ。