詩歌の森へ (10) 佐藤春夫『少年の日』
2018.6.10
少年の日
1
野ゆき山ゆき海辺ゆき
真ひるの丘べ花を敷き
つぶら瞳の君ゆゑに
うれひは青し海よりも。
2
影おほき林をたどり
夢ふかきみ瞳を恋ひ
あたたかき真昼の丘べ
花を敷き、あはれ若き日。
3
君が瞳はつぶらにて
君が心は知りがたし。
君をはなれて唯ひとり
月夜の海に石を投ぐ。
4
君は夜な夜な毛糸編む
銀の編み棒に編む糸は
かぐろなる糸あかき糸
そのラムプ敷き誰(た)がものぞ。
佐藤春夫というと、『秋刀魚の歌』が有名で、それ以外の詩はあんまり読まれていない。というか、それも昔の話で、佐藤春夫という詩人・小説家自体が、ほとんど忘れられているような気もする。『秋刀魚の歌』だって、昨今では、ほとんど引用されることがない。その挙げ句、サンマの不漁が続いていて、だんだん庶民の食べ物ではなくなりつつあるから、「サンマ苦いかしょっぱいか」なんてフレーズも、やがてはさっぱり現実感のないものになっていくのかもしれない。
何を言っても老人の繰り言になる。「平成」となってから既に30年。そして、その「平成」も終わってしまう。そんな時代に、佐藤春夫がどうだこうだと言ってみてもはじまらない。しかし、はじまろうが、はじまらなかろうが、そんなことは知ったことではない。老人の繰り言だろうが、なんだろうが、いいものは、いい。ただ、それだけのことだ。なんて力むこもないけど。。
この『少年の日』の第1連の素晴らしさは、筆舌に尽くしがたい。何がいいか? リズムである。日本の近代詩で「リズム」といえば、五七調や、七五調がその代表。この詩も七五調と五七調なのだが、第1連の第1行に、強烈なインパクトがある。「野ゆき山ゆき海辺ゆき」は「野ゆき山ゆき・海辺ゆき」と区切れば7・5だが、その7の部分が「野ゆき・山ゆき」と更に切れていることで、「3→4→5」と、クレッシェンドするようなリズムを生み出している。このリズムは、この少年の心の高ぶりそのものといってよく、この絶妙なリズムによって、初恋の少女を思いながら、自然の中をさまよい、駆け抜ける少年の姿が象徴的に表現されているのである。
「少年・少女」というものは、人間の中でも独特な存在で、体や精神の一部に「自然」を色濃く蔵している。いわゆる「大人」は、この体内の「自然性」を失うことで、その「大人」たる資格を持つようになる。だから、「少年・少女」は、「自然」の中にいてこそ、その独自な輝きを増すのではなかろうか。
と、ここまで書いて、そうだ、あの詩も、実はこの詩に触発されて書いたのではなかったかと思い出した詩がある。佐藤春夫と並べるのは、実に畏れ多いことだが、ぼくが高校3年の時に書いた詩だ。
走る少年
少年は
森の中を走る
朝露にぬれた下草を
そのやわらかい足でふんで走る
するどい朝の光線と
キンキンひびくミソサザイの歌を
背に受けて
全身の力を手と足にこめて走る
七色にかがやくしずくが
少年の額からとびちっていく
少年はなおも走る
静かな森に
少年の足音だけがこだまする
少年は走らずにはいられない
走って、走って、走りつづけて
深い、深い森の、いちばん奥に
すいこまれること
ただそれだけを夢見て
少年は
走る
拙い詩だが、これを高3の受験勉強の真っ只中に書いて、旺文社の「蛍雪時代」に投稿したら、入選してしまった。これが、ぼくの詩が雑誌に載った最初で最後である。選者は歌人の木俣修だったと記憶する。(つい最近まで切り抜きを大事に保管していたのに、今探したら、ない。ま、いいや。)
この詩においても、「少年」は、自然の中に溶け込んでいる。そして、その中を「走って」いる。こうした感覚を、大人になると、いつの間にか失ってしまうものだ。
もう一つ、この佐藤春夫の詩を読むたびに思い出すのは、万葉集の額田王の「あかねさす紫野ゆき標野(しめの)ゆき野守は見ずや君が袖振る」という歌だ。佐藤春夫も、きっとこの歌があるから、このフレーズを思いついたのではなかろうか。「紫野ゆき標野ゆき」における「ゆき」のリフレーンは、この詩の中にも響いている。
さて、第2連。ここで、急に五七調になる。七五調と五七調ではどう違うのかという問題は、なかなか理屈では説明出来ない問題で、感じるしかないのだが、一般的に言われているのは、七五調は、流麗で、五七調は、荘重ということだ。声に出して読めばすぐに分かるが、第1連の流れるような軽快なリズムは、第2連では、急に速度を落として、重くなる。
「影おほき林をたどり/夢ふかきみ瞳を恋ひ」で、歩調はぐっと遅くなり、思いはぐっと瞑想的になる。この転換・転調が素晴らしい。「影おほき林」は、少年のほの暗い内面であり、その暗さが、「夢ふかきみ瞳」への「恋」となる。この「瞳」の「深さ」は、第1連の「つぶら瞳の君ゆゑに/うれひは青し海よりも」と見事に呼応する。
第3連、第4連は、やや通俗に流れたが、それも仕方ないだろう。全部が全部、完璧とはいかないし、それでは息がつまる。
佐藤春夫の詩が、額田王の歌につながり(春夫が意識したかどうかは別にして)、それが、末端のぼくの詩につながり、なんてことを考えると、なんだか楽しい。「言葉」は共有物であるために、つながりを意識しやすい。「パクリ」だとか言わないで、「つながり」だと思いたいものである。