ウクライナのゼレンスキー大統領は9日演説し、「ロシアの侵略はウクライナだけにとどまらず、欧州全域が標的だと指摘、西側諸国にロシア産エネルギーの完全輸入禁止とウクライナへの武器供与拡大を求めた」[キーウ・10日・ロイター] といいます。でも、”欧州全域が標的だ”という根拠は何も示されていません。私は、根拠のない妄言だろうと思います。
また、ゼレンスキー大統領は「厳しい戦いになるだろう。われわれがこの戦いに勝つと信じている。戦うと同時に、この戦争を終結させるため、外交的な手段も模索する用意がある」と述べたともいいます。でも、その外交的な手段を模索しようとする具体的な論述はありません。ロシアが屈服するまで、戦争を続けるつもりなのではないかと思います。
それは、ウクライナ側の交渉官であるポドリャク大統領府顧問が「東部でロシアが敗北するまでロシアとの首脳会談は行われない」と述べたことからも察せられます。基本的には、ロシアが屈服し、弱体化がはっきりするまで、話し合いはしないということだろうと思います。
こうしたウクライナの指導者の発言は、アメリカと一体となっていなければ、できるものではないだろうと思います。アメリカやNATO諸国の支援がなければ、ロシアに対して軍事的に圧倒的に不利だからです。
また、バイデン大統領は、6日の演説で、「彼らには自身のお金に指一本触れさせやしない。ビジネスもこの国では一切やらせない」と、追加制裁の狙いを声を張り上げてアピールしたと言います。ロシアに対する攻撃的な姿勢があらわれており、停戦する気のないことがわかります。
さらに、ブリュッセルで開かれたNATOの外相会議では、NATOの事務総長が、「戦争は即座に終わらせねばならないが、現実を直視すれば、何ヶ月も、何年も続くかもしれない」と語ったようです。
その会議でウクライナのクレバ外相は「私のテーマは三つある。兵器、兵器、兵器だ。戦いに勝つが、十分な兵器の供給がなければ甚大な犠牲が出る。供給が早ければ早いほど、数多くの命が救える」と語っています。十分な兵器がないにもかかわらず、”戦いに勝つ”というようなことがどうして言えるのでしょうか。何かが約束されていなければ、ウクライナの外相ができる発言ではないように思います。
また、そうした発言を受けて、NATO各国は自爆型ドローンや、その他高性能兵器の提供をすると見られています。
米国のブリンケン国務長官も、「ブチャで起きたことは、ならず者部隊による行き当たりばったりの行為ではない」「殺害、拷問、レイプなどの残虐な行為は意図的な作戦だ」と語っています。でも、この発言でも、具体的なそうした作戦の根拠は示されていません。ロシアに対する攻撃的な姿勢から生まれる憶測だろうと思います。本来、こうした発言には、客観的な証拠が必要なのです。
ロシアのプーチン大統領が、アレクサンドル・ドゥボルニコフ将軍を総司令官に任命したという報道には、彼が”内戦下のシリアで軍事作戦を指揮し、市街地への爆撃などで多くの民間人を虐殺したとされる人物だ”とつけ加えられています。西側諸国の恐怖感を煽っているように思えます。アメリカが重ねてきた戦争で、どれほどの民間人が亡くなったのかを踏まえれば、簡単にできる発言ではないと思うのです。
決定的なのは、米ロ首脳会談についてバイデン大統領が「両首脳の接触に対してはオープンだが、それは現在の危機に有益な結果をもたらし、意味をなすと考えられる場合のみだ」と言ったり、「ロシアの軍事行動が今にも起こりそうな状況で開催を約束することはできない」とか「今は、話し合うときではない」などと言ったりしていることです。
悲しいことですが、アメリカやウクライナの政権は、極めて攻撃的であり、ロシアをつぶしにかかっているので、停戦は期待できないような気がします。そして、悲惨な戦いが続き、犠牲者が増え続けて、相互に憎しみが拡大していくような気がします。
ウクライナがNATOに加盟せず、中立の立場を保持すれば、戦争が避けられたのに、アメリカやウクライナは、なぜ「その要求を受け入れることはできない」などと拒否したのか、そして、なぜ、過剰としか思えないようなプーチン非難やロシア非難をくり返すのか、また、なぜ民間人に武器を持たせて、ロシアと戦わせようとするのかを考えるのですが、私は、他国がアメリカの利益を損なうようなかたちで発展することや、影響力を拡大させることを、アメリカが受け入れないという側面と、さらに、伝統的な「反共思想」が影響している側面があるように思います。
下記は、「我々はなぜ戦争をしたのか 米国・ベトナム 敵との対話」東大作(岩波書店)から抜萃したのですが、ベトナム戦当時のアメリカ国防長官、ロバート・マクナマラがベトナムとの非公開討議(1997年6月、ハノイ対話)で語ったものです。
第二次世界大戦後も、アメリカは戦争をくり返してきました。そしてそれは、テロとの戦いのみならず、「反共思想」に基づく戦争であったと思います。下記の文章は、そのことを示していると思います。
「もしインドシナ半島が倒れれば、その他の東南アジア諸国もまるでドミノが倒れるように共産化するであろう。そしてその損失が自由主義社会に与えるダメージは、はかり知れないものになる」
アメリカのバイデン政権は ベトナム戦争当時と同じように、ロシアのヨーロッパ諸国に対する影響力の拡大が、アメリカの利益を損なうのみならず、自由主義社会に取り返しのつかないダメージを与えると受けとめ、ロシアをつぶしにかかっているように思います。
だから私は、ベトナム戦争を思い出してほしいのです。
ベトナム戦争でアメリカは、南ベトナムの独裁者、ゴ・ディン・ジェムを支援しました。ゴ・ディン・ジェムは、ジュネーヴ協定に基づく南北統一総選挙を拒否し、ベトナム民主共和国(北ベトナム)と対決しようとする反共主義者で、秘密警察や軍特殊部隊つかって反政府勢力を弾圧する独裁者でした。ゴ・ディン・ジェムが国民から乖離した存在であることは、アメリカの関係者も把握していたにもかかわらず支援したのです。アメリカが掲げる民主主義や自由主義に反するものであったと思います。
だからそれが、「反共思想」に基づいていたことは、はっきりしていると思います。そして、ゲリラ戦を仕掛ける南ベトナム解放民族戦線を壊滅させるため、クラスター爆弾やナパーム弾などによる激しい攻撃と、ジャングルを破壊する「枯葉剤」による攻撃をくり返したのです。南ベトナム解放民族戦線が北ベトナムに支援を求めると、猛烈な絨毯爆撃といわれる北爆をくり返しました。使われた弾薬は、第二次世界大戦の量を超えたと言われています。そして、無差別爆撃によって、300万人をこえるといわれるベトナム人を殺したのです。
アメリカのバイデン大統領に、プーチン大統領を「虐殺者」、「真の悪党」「戦争犯罪人」「人殺しの独裁者」などと言って非難する資格があるでしょうか。それとも、ウクライナ人は「人」だけれども、ベトナム人は「人」ではなかった、とでもいうのでしょうか。
バイデン大統領は、そうした人命軽視の過去の過ちを踏まえ、即刻、米ロ首脳会談をすべきだと思います。
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第二章 戦争目的は何だったのか
すれ違う「どこで戦争を回避できたのか」
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では次に、けさの議題であるマインドセット、つまり双方の指導者が戦争を決定するに到った際の、相手についての認識、情勢判断について議論したいと思います。
この問題について「まず申上げておきたいことは、もし私が、ケネディが大統領に就任した1961年においてベトナムの共産主義者であったなら、当時あなた方が判断したように、私もまたアメリカの東南アジアにおける目標は、ハノイ政府やその同盟者であるNFL(南ベトナム解放戦線)を破壊、消滅させることであり、よってアメリカはベトナムの宿命的な敵だと判断したであろうということです。
その理由は、
① 1945年にホー・チ・ミンからトルーマン大統領に向けて送られた、有効的な関係を望んだ手紙をアメリカが無視したこと、
② 1950年代を通して、フランスの植民地支配のための戦争に、アメリカが支援を続けていたこと、
③ ベトナム全土での総選挙を定めた1954年のジュネーブ協定に調印することを、アメリカが拒んだこと、
などからです。しかし、もしあなた方ベトナム共産党の幹部が、上のような理由からアメリカの目標はハノイ政府そのものの破壊であると考えたとすれば、それは全くの過ちです。私たちケネディ政権には、そのような考えは毛頭ありませんでした。逆に我々自由主義社会が、統一的な意志のもとに組織された共産主義勢力によって、世界中で脅威にさらされていると感じていたのです。
つまり簡単に言えば、我々の当時の情勢判断を支配していたものは、いわゆる「ドミノ倒し」の恐怖だったのです。
ケネディ、ジョンソン両政権を通じて我々は、南ベトナムを北ベトナムに譲り渡すのは、東南アジア全体を共産主義者に与えることになると考えていました。そして東南アジア全体を失うことは、アメリカ合衆国やその他の自由主義社会の安全保障体制を大きく揺るがすと判断していたのです。
多くのアメリカ人と同様、我々も共産主義を一枚岩的なものと感じていました。中国とソ連は手を携えて、覇権を拡大しようとしていると考えていたのです。いま知るところによれば、1950年代後半から両国の間には深い亀裂があったのですが、当時はそんな風には考えていませんでした。逆に、共産主義勢力がその足場を広げているように思えたのです。毛沢東は朝鮮半島において西側諸国と戦闘を交え、ニキータ・フルシチョフは、第三世界における解放戦線によって西側諸国を崩壊させると公言していました。そして実際にキューバのカストロは、キューバを西半球におけるソ連の最前線基地にしたのです。そして中国に支援されたホー・チ・ミンが、フランスからインドシナを解放しました。
ゆえに我々は、ベトナムにおける共産主義運動は、50年代にビルマ、マレーシア、フィリピンで活発化した共産主義勢力と互いに手を携えた、統一的な運動だと判断していました。いま思えば、それは極めて民族主義的なものであったかも知れませんが、当時はすべてが西側への脅威に感じられたのです。
これはケネディ政権だけでなく、トルーマンそしてアイゼンハワー大統領の情勢判断でもありました。1954年に「ドミノ倒し」という言葉を使ったのは、まさにアイゼンハワー大統領だったのです。彼は「もしインドシナ半島が倒れれば、その他の東南アジア諸国もまるでドミノが倒れるように共産化するであろう。そしてその損失が自由主義社会に与えるダメージは、はかり知れないものになる」と明言しています。1961年1月19日、アイゼンハワーが大統領府を去るまさにその日、彼は我々ケネディ政権のスタッフに向って、もしラオス──これはベトナムをも示唆していましたが──を失えば、長期的に我々は東南アジアすべてを失うことになるであろう、と述べたのです。そして北ベトナムに関して言えば、北ベトナム政府が、中国やソ連と一体となって共産主義の拡張を目的としているのは明らかなように思えました。
つまりこれが、私たちの情勢判断でした。誤まった判断だったかも知れません。しかし私は、ここにいる皆さんに、なぜ我々が誤った判断をするに到ったのか、その原因を理解してもらうことから、この対話を始めたいと思っているわけです。
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