真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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大久野島 毒ガス工場へ「青紙」の徴用令状

2011年02月22日 | 国際・政治
 毒ガスが制式化(軍が兵器として正式に採用を決定)されると、大久野島の毒ガス工場は大量生産体制に入る。
 制式化された毒ガスは、その種類によって「きい1号」(イペリット)「きい2号」(ルイサイト)「あか1号」(ジフェニール・シアンアルシン)「ちゃ1号」(青酸ガス)「みどり1号」(塩化アセトフェノン)などの秘匿名でよばれ、砲弾などにもこれらの色の帯をつけて、その内容物が識別できるようになっていた。
 イペリットは「毒ガスの王様」として知られ、ベルギーのイーペルでドイツ軍が最初に使用したためこの名がついたという。からしのようなにおいがあることからマスタードガスの別名をもつものである。
 ルイサイトは第1次大戦中にアメリカで開発され、研究にあたったルイス大佐の名をとってルイサイトと呼ばれるようになったが、「死の露」と恐れられた毒ガスである。
 「ちゃ」の青酸ガスは日本軍が、後期に最も研究に重点を置いた毒ガスで、対戦車用にガラス容器に入れて使われた。それは「ちゃ」を入れた「瓶」の「ちゃ瓶」を縮めて「ちび」と呼ばた。
 「あか」はくしゃみ性ないし嘔吐性の毒ガスで中国の戦場で多用されたものである。
 「みどり」は現在もデモ隊などに対して使われる催涙ガスである。
 ここでは「毒ガス島からの告発ー隠されてきたヒロシマ」辰巳知司(日本評論社)から、「青紙」の徴用令状を受けり、毒ガスのにおいが漂う大久野島の工場の中で危険な作業に取り組んだ徴用工の証言の部分を抜粋する。
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Ⅰ 大久野島

 第2章 毒ガス工場最盛期

 青紙の青春

 24時間態勢で毒ガスの生産が続いた大久野島で、工員らはどんな思いで生産に従事し、人生にどう影響したのか、希望入所ではなく国家総動員法の徴用令状により、ほとんどが16-17歳という未成年のまま、強制的に大久野島行かされた徴用者。「赤紙」といわれた軍隊への召集令状に相応する徴用令状「青紙」を受けとり、大久野島行きを命令されたことに対する恨みは、後遺症の進行とともに深まる。「徴用工は大久野島では消耗品同然だった」「徴用名簿をつくった人間がわかれば、いまでも告訴してやりたい」元徴用者からは、こうした怒りの言葉が飛び出す。元徴用者3人に、大久野島での青春とその後を聞いた。


▽上田春海さん(69)=広島市安佐北区=

 ・・・(略)

▽小野政男さん(70)=広島市中区十日市町=

 「大久野島での徴用期間となった1年半の間、ずっとルイサイト工場で働いた。工場から屋外に出たら、からし臭とも何とも表現しがたいルイサイト特有のにおいがしたため、調べてみると、工場内で帽子にルイサイトがわずかに付着したことがわかったことがある。すぐに医務室に行ったが、『手当はできない。手当ができるようでは兵器ではない』と軍医にいわれた。2時間後、頭痛がはじまり、三日三晩にわたり七転八倒した。かなづちで頭を殴られ続けているような痛みだった。綿の帽子に浸透したルイサイトが、ほんのちょっとだけ頭に触れただけなのに、こんな激しい痛みに襲われ、初めて自分がつくっている毒ガスの恐ろしさを知った。
 当時、悪いものをつくっているんだな、という意識はあった。毒ガスが国際法違反ということも知っていた。
 私たち徴用工だけでなく、希望して入った一般工員も自由に辞めることができなかった。半強制的な労働だったと思う。徴用工は寮生活だったが、一般工員も長く休むと憲兵が家を訪ねることもあった。
 大久野島で働いた後、軍隊に行ったが、とにかく体が疲れやすくなっていた。戦後、気管支や臓器もやられ、坂をのぼるのもしんどかった。そこで無理をした人間は大勢、死んでしまった。体は言えんぐらい悪い。
 戦中、写真屋で働いていた際に徴用され、戦後も写真館の仕事を続けた。」


▽山崎一男さん(69)=広島市南区北大河町=

 「入所して1週間、軍事訓練を受けた後、『あか筒』に配属され、箱詰め作業をした。作業部屋に入っただけでも目やのどが痛んだ。
 徴用者のなかに一人だけ妻帯者がいた。この人がある日、故意に裁断機で小指を切り落とした。軍法会議にかけられたまま消息はわからずいまでも気がかりだ。
 あの頃は、命ぜられるまま国のために毒ガスをつくった。日本軍を勝利に導くものと信じていた。いまから思うと、一枚の青紙で人生がすっかり変わってしまった。
 当時、楽しみといえば、仕事帰りに忠海にあったうどん屋で食べること。育ちざかりだったので、与えられた食事だけでは足りなかった。軍事将棋に『毒ガス』と書かれた駒があったね。」


 こうして大久野島でつくられた毒ガスは、砲弾類以外の「あか筒」「みどり筒」「みどり棒」などは島内で充てん作業が行われた後、戦地へ送られ、弾丸などへのてん実が必要な「きい」などの砲弾類用の毒ガスは、てん実工場の福岡県・曽根兵器製造所へ50キロ、100キロの鉄製専用容器などを使って運ばれた後、戦地へ送られた。また「きい」「ちゃ」などの毒ガスが、原液のまま直接中国へ送られることもあり、輸送には鉄道と船が使われた。


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