真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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満州・葛根廟事件

2016年08月09日 | 国際・政治

 「満州の風」(集英社)の著者・藤原作弥氏は、劇団四季がミュージカル化したノンフィクション『李香蘭 私の半生』の著者としてよく知られているのではないかと思います。そして、その「李香蘭」は、戦前アジア銀幕のスターとして活躍し、戦後は本名に戻って日本映画でも活躍、さらには政治家として国政にも関わった山口淑子氏ですが、藤原氏は彼女から直接「私の"他伝"を書いてくれませんか」と声をかけられ、二年がかりで『李香蘭 私の半生』を書き上げたといいます。

 山口淑子氏は、『李香蘭 私の半生』を”スターの物語”としてではなく、”自分がなぜ日本軍の対中国・満洲政策に利用されたのか”ということ、さらに戦後、平和を願う政治家として”外交にどう関わってきたのか”ということを明らかにするために、世に出したいという強い思いを持っていたといいます。
 依頼のきっかけは、藤原氏の『満州、少国民の戦記』社会思想社・教養文庫(1995年12月)であったようです。藤原氏には、たった一日の違いで、葛根廟事件に巻き込まれることをまぬがれ、興安街を脱出した過去の記憶があります。だから、自身の満州生活を思い起こしつつ『満州、少国民の戦記』を書いたようですが、それが満英女優であった李香蘭=山口氏の目にとまり、個人と国家のアイデンティティー追求をテーマとした『李香蘭 私の半生』の発行につながっていったということです。

 下記は「満州の風」藤原作弥(集英社)から、「葛根廟事件」に関わる部分を抜粋したものですが、「私の満州体験と五百羅漢寺-まえがきに代えて」のなかで、著者は「…さまざまな満州体験を聞き進めていくうちに、個人としての満州体験にとどまらず、国家としての満州体験 ―――― 、つまり中国大陸を舞台とした日本の昭和史に思いをいたすようになった。国家としての満州体験とはもちろん、葛根廟のような被害者としての体験だけではない。加害者としての反省や教訓をも踏まえた歴史的追体験である」と書いています。そして、「葛根廟事件と私」のなかでは、さらに踏み込んで「その私も侵略者の子だったのだろう」と書いていることに、私は注目しないわけにはいきません。
 また、戦争によって、日本から遠く離れた満州の地で、千人をこえる婦女子を中心とした避難途上の日本の民間人が、ソ連戦車軍団によって、まるで虫けらのように殺された事実を忘れてはならないと思います。戦争中の事件とはいえ、不問に付されてよい事件ではないと、私は思います。
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                    Ⅰ 満州・葛根廟事件
                       殺戮の草原
□…葛根廟事件と私
 旧満州(現・中国東北部)の興安街(中国名・王爺廟、現・鳥蘭浩特:ウランホト)時代を語るには、終戦直前、同市郊外のラマ寺院・葛根廟の草原で起きたソ連戦車軍団による日本人避難民に対する大虐殺事件を避けて通るわけにはいかない。
 私たち一家は幸いソ連軍侵攻の前日に興安街を脱出することができたが、逃げ遅れた大勢の人々がホロコースト(大量虐殺事件)の犠牲になった。その中には学友の多くが含まれている。残留孤児になった学友もいる。
 生き残った私には絶えず後ろめたさがつきまとった。戦後、三度に渡りウランホトを訪れたのも、単なる懐旧旅行ではなく、葛根廟事件の現場で慰霊の法要を執り行いたかったからである。
 ・・・

□…事件の概況
葛根廟事件を伝える貴重な資料の一つに佐村恵利著『ああホロンバイル - 元満州国興安総省在留邦人終戦史録』(以下、「終戦史録」と略)がある。
 同書や関係者の証言によれば、ソ連参戦後の興安街在住邦人の疎開対策(俗称、興蒙対策)は、全邦人を北方の音徳爾(オンドル)にひとまず避難、集結させることを目的としていた。もちろん、この「興蒙対策」は関東軍や陸軍興安軍官学校学生隊による護衛を前提条件としていたが、興安地区在留邦人が唯一の頼りにしていた関東軍第四十四軍三個師団は、新京司令部の命令により8月10日いちはやく、しかも秘密裡に新京、奉天方面に撤退してしまったのである。
 満蒙からの引揚げ者たちが、いまだに関東軍を恨んでいるのは、在留邦人の保護、救出もせずに敵前逃亡したことと、それにより民間の日本人が随所で大惨劇に遭遇したことが、最大の理由となっている。もう一つの頼みの綱だった軍官学校学生隊は、ソ連侵攻とともにモンゴル兵士の反乱を起こし、逃亡した。
 
 興蒙対策は疎開団を、居住地域や職場所在地別に三班に分けた。第一班=興安街西半部「高綱行動隊」(総省公署関係者が居住する興亜区。千二百名。総指揮者、高綱信次郎協和会総省副本部長)。
第二班=興安街東半部「浅野行動隊」(建国区、大同区、康徳区、合作社関係者および電信電話局職員。千三百人。総指揮者浅野良三旗公署参事官)。第三班=東京荏原開拓団および仁義仏立開拓団 - の三班である。このうち葛根廟事件の犠牲になったのは、第二班、興安街東半部の浅野行動隊千三百名だった。私たち一家も、もし8月10日のあの貨物列車に乗れず、11日以降に興蒙対策にもとづく集団避難に加わったとすれば、官舎・興安荘が興安街の東半部に属していたので、その「浅野隊」の隊員として確実に葛根廟事件に遭遇していただろう。
 その一日違いの事実だけからも、私自身も殺されていたかもしれないと言い得るし、また十分の一(千三百人中百数十人が生還)の確率で生存したとしても、残留孤児になっていた可能性がじゅうぶんある。

 西の「高綱隊」は8月10日午後1時から避難を開始した。私たち軍官学校職員家族避難団百五十名も、同日午後3時の貨車で脱出した。このように興安街の邦人脱出は10日から始まったのだが、東の「浅野隊」のみ行動が一日遅れて11日午後からとなったのが不運の始まりだった。全員が集結地のウラハタ畜産試験場に顔をそろえ、点呼が終わったのは12日朝のことである。
 「浅野隊」はなぜ遅れたのか。興蒙対策にもとづいてかねてから用意していたはずのトラックや馬車を、いちはやく遁走した関東軍に徴発されてしまい、「足」がなくなったからである。ようやく馬車が一台見つかったので10歳以下の幼児と老人と病人を乗せ、若干の食糧を積み込むことにした。
 総指揮者の浅野良三参事官は千三百名の婦女子を徒歩で音徳爾まで誘導するのは困難と判断し、計画を変更した。興安駅の隣の葛根廟駅に出て、そこから汽車に乗り新京方面に脱出することにしたのである。そのため列車を葛根廟駅に回すよう配車要請すべく白城子駅に騎馬伝令隊を派遣した。だが、その伝令は帰ってこなかった。浅野参事官は待つのももどかしく、とにかく歩き始めなければならないと決断し、14日早朝、行軍を開始した。
 千三百名の疎開団を七中隊に編成し、それぞれに中隊長を任命した。中隊長には守田電話局長、小山国民学校長ら興安街の要人を据え、それぞれの中隊に小銃を持った成人男子10名程度を護衛として配置した。浅野参事官は七中隊の「七」にちなんで「七生報国隊」と命名した。「葛根廟駅ないし白城子駅からは汽車にのる。それまではつらいだろうが歩かなければならない。七生報国隊の同胞諸君、全員頑張って日本目指そう。出発!」
 『終戦史録』の「遭難の細部状況」は次のように伝えている。

 <8月14日未明に出発したが、給養の不良と睡眠不足のため難民の大部分は心身ともに疲労し、逐次隊伍も乱れ、行動は遅々として進まず、幹部各中隊長は隊員掌握に苦慮しつつ前進を続けた。葛根廟裏の丘陵地帯に到着した時は、すでに行動長径は5キロ以上も延び、中隊の建制も乱れ、全般の掌握も不可能に近い状態であった。ここにおいて改めて態勢を整えるため、先頭を葛根廟西側峡谷地に停止せしめ、後続者収容の措置を講じた。
 満州国内におけるラマ教三大廟の一つ葛根廟は明清時代の建立、モンゴル民族崇敬の的で、広大な敷地を有していた。興安街から直線距離35キロの地点、浅野隊が遭難した盆地の西寄りに廟の寺院群が駆逐艦のような巨体を大草原に横たえていた。葛根廟とは、広寿寺、広覚寺、梵通寺、慧通寺、霊廟、本殿、活仏の庵居などの総称である。
 前日の雨があがり、夏の太陽が強く照りつけていた草原の夏草からは陽炎が立ちのぼり、人々はその中を暑さにあえぎ、ゆらゆらと移動していくかのようだ。盆地の中は粟畑になっている。


 『終戦史録』の記述は続く。
 <当時、移動群の大部分は、葛根廟丘陵地頂上部の低地内にあり、四周の展望は不可能であった。また敵機は常時上空に飛来していたが、特に攻撃を加えることもなく、且つ、地上の敵軍についての情報は皆無であったため、特別な警戒処置も講ぜず、もっらぱ落伍者防止に専念していた。かくの如き状況下、不意に敵軍の攻撃を受けたもので、瞬時にして山頂部は収容すべからざる大混乱に陥った。時に8月14日午前11時40分。
 敵軍は十数輌よりなるソ連戦車軍団で、その攻撃はきわめて烈しいものであった。避難隊中の男子が護衛のため銃器を携行していたため或いは日本軍と誤認したのではないかと判断されるほど激烈なものであった。このため浅野参事官は、先ず敵の猛攻の的となり戦死、続いて戦闘力のある男子は次々に倒れ、次いで敵戦車は、混乱その極に達した婦女子の集団に対し約1時間にわたり反復攻撃を加え、更に我に抵抗意思なしと見るや、車輌より下車し、逃ぐるを追い白刃をふるい或いは重傷に倒れた者を刺殺する等徹底した殺戮を行った。ために戦場より一旦離脱した者の中にも負傷等で爾後の脱出不可能と判断し自決して、相果てた者も多数に及んだ>

□…大櫛少年の記録
 ・・・
 大櫛氏は当時17歳。昭和18年満州電信電話学校を卒業して大連中央電報局に勤務、19年9月に興安電報電話局に転勤になった。千三百名の大部分は婦女子だったが、重要な連絡網を最後まで守り、ついに放棄せざるを得なかった守田局長以下50名の電話局員は数少ない成人男子で、小銃で武装し七つの中隊の護衛の役を引き受けていた。
 大櫛少年ら四名は志願して七つの中隊の先発隊を務めていた。たるみきった糸のような集団の後続隊が追いついてくるのを待って先発隊が一休みしている時である。
 
<黄塵の列が後の方から蜘蛛の子を散らすように乱れはじめ、それが徐々に手前まで拡がってきた。「何だ。何だ」。考える間もなく「敵襲だ。見ろ。戦車じゃないか。戦車がやってきたぞ」。破れんばかりに眼をむき出した山田の指さした丘の稜線を見た。と、山田の怒鳴る声がまだ終わらないうちにダッダッダ、ババーンと烈しい機銃の音が聞こえてきた。丘の稜線ににょっきり現れた戦車は単なる黒い塊のように見えた。機銃の音にはじかれたように後続の戦車の群が丘の斜面を散っていく>
 
 大櫛少年は最初、この戦車群を満州国軍のモンゴル人兵士の反乱と勘違いしたらしい。そして、銃を構えて戦車の方に突進していった。しかし、稜線には後から後から、次から次へと戦車が現れてくるのを見て戦慄に体が揺れた、。
 <もう先頭の戦車は百メートルほどの近さになっていた。それは今までに見たことのないような馬鹿でかい大砲を、角のように長く突き出していた。鉄の塊は機関車のようだった。砲塔の上に積んである機銃や砲の下の機銃から凄まじい音と閃光を吐き出しながら猛牛のように迫ってくる。丘の斜面一帯は機銃のけたたましい音。機銃弾のうなり声、戦車のエンジンの轟音とキャタピラの軋む音にまじって、逃げ迷う人々の悲鳴と泣き声、その光景は滅茶苦茶な修羅の巷と化していた。不意に真っ黒な戦車が小山のように眼の前にのしかかってきた。戦車の掩蓋から身を乗り出すように構えた敵兵の顔が見えた。眼と眼が電光のようにかち合ったと思った>
 ・・・

□…二人目の目撃者
 実は、浅野隊の遭難者ではなく、この惨劇を遠くから目撃していた日本人が17名いた。旧陸軍二百九部隊の斥候隊員14名と、旧百七師団七十八連隊所属の3名の伝令兵である。
 斥候隊員の根本俊男さん(埼玉県行田市、医師)の目撃談によれば、<ソ連戦車軍団は、山道を一列縦隊で進軍し、丘の頂上でいっせいに横列に展開しました。そのままトボトボと歩く避難民をやり過ごすかに見えたのですが、その瞬間、戦車軍団はなだれのように全速力で襲いかかったのです。子供も女も関係なく、押しつぶしました。助けたくても軽機関銃と手榴弾だけでは、どうしようもありませんでした。犠牲者の冥福を祈るばかりです>
 また、別の場所から同事件を目撃した伝令兵、菅忠行さん(奈良市、著述業)は、次のように述べた。
 <中国人姿に変装したわれわれ3名の伝令は、原っぱを歩く危険を避けるために、丘陵寄りの方向に進路を変えて東進しました。やがて緩やかな丘の稜線に出た時です。突然、一人のソ連兵が現れて、われわれに手を振りました。われわれが蒙古人だと思ったのでしょう。その素振りは「去れ、去れ」と言っているかのようです。武器を持たない若い兵士でしたが、こちらには伝令任務がありますので、抗戦しませんでした。指先で示された稜線を少し逆戻りして、そばにあった灌木の陰に身を潜めてから改めて振り返ってみてびっくりしました。ソ連の戦車が、稜線の内側に一定間隔を置いて並んでいるのです。数えると14台。
 この日は、前日13日の夜中の豪雨とはうってかわって快晴でした。草原には陽炎が立ちのぼっていました。太陽の影から判断して、時刻は正午に近かったと思います。興安街から白城子に通ずる鉄道と併行して東行している道路の上に、黒い点の長い行列が、まさに点々と続いていました。黒い点は次第に大きくなり人間とわかりましたが、遠方でもあり、逆光の関係でしたので顔形ははっきりしません。われわれが潜んでいた灌木から、千五百メートルぐらいの距離だったと思います。その黒い長蛇の列は、草原を東西に分ける線を引きながら、丘陵を下り、盆地の中央部にさしかかっていました。
 ちょうどその時、われわれ3名に最も近い位置にとまっていた戦車から銃声が一発聞こえました。と、まるでそれを合図のようにして、反対側にいた戦車がぞろぞろと動き出したではありませんか。戦車隊が追いすがったのは、難民の行列の最後列部のあたりです。機銃を発射しながら14台の戦車が次から次へと、鎌首のような戦車砲を振り上げ、振り下ろし、斜面を下っていくのです。銃撃と圧殺。はるかに銃声や轟音が聞こえてきますが距離がありますので、そんなに大きくはない。まるで無声映画を見ているようです。戦車同士は、無線で連絡し合っているのでしょう。順繰りに難民の列を目がけて稜線を下り、いったん反転してまた登り下りしながら銃撃しているのです。
 やがて路上の点々は、動かない塊になってしまいました。その塊が道路の幅からはみ出して両側の草原に拡がっています。銃声すら遠くにしか聞こえないのですから、殺される恐怖の叫びも、憤怒の声も、助けを求める声も聞こえてこない距離なのです。われわれ3名は息をひそめて見つめていました。傾斜面を下ってきた戦車の後方の空中に、マッチ棒のような黒いものが宙を舞い、ほうり出されました。キャタピラが死体を引っかけたのでしょう。よく見ますと、戦車は互いに連絡を取りながら、ある形を描いて動いているようです。あたかもマスゲームのように順序正しく整然と銃撃を加え、また反転して丘を登り、次の自分の出番を待っているのです。止まった戦車の掩蓋から数人の兵士が現れましたが、それも黒い点の形のように見えます。機関銃の銃火光が続けざまに三角形にはじけるのが、はっきりと分かりました。
われわれの灌木から最も近い地点に止まっていた戦車の天蓋が開いて、拳銃をを手にした兵士が上半身を乗り出して、空中に向け三発撃ちました。それが合図だったのでしょうか。銃撃の音はピタリとやみました。戦車は現在位置にそのまま止まっています。最も近くに止まっていた戦車がエンジンの轟音を響かせて斜面を下りていくと、止まっていた13台の戦車がいっせいに動き出し、難民たちが進んできた興安街の方向に斜面を横切っていきます。よく見ると、戦車の大きさも大小さまざま。あれは中型戦車と小型戦車の二種類だったと思います。戦車軍団も黒い点となって丘の稜線へ消えていきました。一本道とその両側に散らばっている黒い点々は、全然動きません。
 「どうしよう」三人の目が合って、無言のうちに尋ね合っていました。三人とも一時間半の間、ほとんど無言でした。私は判断しました。千数百の死体を三名の伝令でどうできるわけもない。われわれは与えられた伝令任務がある。「白城子に行こう」。私たちは、黒い点々に合掌すると、その場を去りました。

 35年後、大櫛戌辰氏宛に興安街の残留孤児から来た手紙の中に、「事件から10年あまりの間、現地の人々は葛根廟の丘陵を、”魔の丘の白い道”と呼んで近づきませんでした」とあった。八・一五(中国人は終戦のことをそう呼ぶ)の時、興安街から避難してきた大勢の日本人がソ連の戦車に射殺され轢き殺され、その白骨が白い長い道となっていた。、という”白骨伝説”である。

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