葛根廟事件とは、ノモンハン事件の戦場に近い興安街(現内蒙古自治区鳥蘭浩徳<ウランホト>)の南東約50キロにある葛根廟近くの丘で、婦女子を中心とする千数百人の邦人が、ソ連軍戦車隊に襲われ、千人以上が惨殺された事件のことです。
その葛根廟事件の生存者の一人、大櫛戌辰(ツチヤ)さんの働きかけで、昭和60年の夏、関係者が訪中団を結成し、鳥蘭浩徳<ウランホト>を訪ねています。訪中団のメンバ-は、10人が事件をくぐり抜け生き延びた人と遺族、6人が当時の行政官ら、2人が義勇隊員、残り4人が当時の小学生、それに同行の記者2人と旅行会社の人が1人の、合わせて25人だったといいます。そして、その訪中の様子や関係者の体験および事件前後の証言などが一冊の本にまとめられました。「新聞記者が語りつぐ戦争5 葛根廟」読売新聞大阪社会部(新風書房)です。
下記は、同書の中から、大島肇さんの証言部分のみを抜粋したものです。大島肇さんは、ソ連参戦後の興安街在住邦人疎開対策によって分けられた疎開団第二班、浅野良三旗公署参事官が率いる「浅野行動隊」に属し避難を開始した一人ですが、同書には、大島さん(妻のくめさんが数え3つのわが子の首を絞めて殺しています)や「子どもを残しては死ねない」とわが子を殺めて自決を試みた人の証言など、地獄の苦しみを味わった人たちの証言がいくつもあります。
それにしても、婦女子が9割以上といわれる邦人避難民の集団を、ソ連軍戦車隊が襲い、皆殺し作戦とも言える非道な攻撃をするとはどういうことでしょうか。戦争によって恨みが募っていたのでしょうか。あるいは、残酷な攻撃のほうが敵の戦意を削ぐ効果があると考えられたのでしょうか。葛根廟事件は、あたかも国際法など存在しない野蛮な時代の事件のように思えます。
また、大島さんが属する浅野行動隊の避難が遅れたのは、疎開の準備で用意されていたトラックや馬車を関東軍に徴発されてしまい、「足」がなくなったことが原因しているといいます。トラックや馬車を徴発した関東軍が、浅野行動隊を置き去りにして、秘密裏に撤退してしまったことも、忘れられてはならないことではないかと思います。日本軍の海外出兵は、当初、「居留民の保護」という名目でくり返されました。それが、いつの間にか「居留民の保護」が考慮されることのない作戦の展開に変わってしまっていたようですが、戦争を繰り返さないために、そうした事実も合わせて継承していく必要があるのではないかと思います。
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惨劇の丘
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大島肇さんも、当時、興安在満国民学校の5年生だった長男宏生君と一緒にキビ畑の中にいた。
「小休止の後、みんなについて歩いていたら、子供が『さっき休んだところにリュックサックを忘れてきた』と取りに戻ったので、私は待っていたんです。その間に、家内とほかの3人の子供は列について先に進んでいました。『行ってきたよ』と言いながら子供が私のところに駆け寄ったとたん、バババーッときた」
二人はとっさに、その場に伏せた。たまたま窪みだったので、弾はビュッ、ビュッと頭の上を飛び去った。
「私の見た勘定では、戦車は十何台かいた。それぞれに番号がついていて、私は手帳に書き取ったんですが、その手帳を逃げる途中、どこかに落としてしまいました。番号は連番だったのを覚えています。そのうち、戦車が近づいてきましてね。押しつぶされるかと思いましたが、膝と肘ではう匍匐(ホフク)前進の訓練をしていたんで、子供にも同じような姿勢をとらせ、やっと5メートルほどわきに逃げたんです」
しかし、そこにじっとしているわけにはいかない。いつまた次ぎの戦車が来るかも知れない。大島さん父子はさらに匍匐前進し、キビ畑に逃げこんだ。
「三八銃が、邪魔になって邪魔になって仕方がありませんでした。でお辛抱してはって行くと、キビ畑にもキャタピラの跡がついていましたねえ。そこを避けて、二人で伏せとったんです」
時々、首を伸ばしてキビの間から様子をうかがうと、戦車の左右には6人ずつの兵がいて、自動小銃でバリバリバリッと撃っていた。
「戦車の後に、兵を満載したトラックが20台以上やって来てですね。降りた兵隊が倒れている人たちを撃って…。それと、窪みにはまった荷車には私が見た限り、子供や病人5、6人が乗っていたようですが、これも目標にされたんです。」
引っぱっていた馬にも弾は当たったようで暴れ出してねえ…」
戦車が去った後、「一緒に逃げよう」と声をかけてくれる人もいたが、大島さんは「家内と子供がまだどこかにいるはずだ。死んだのなら死んだであきらめもつくけど、ここを立ち去るわけにはいかない」と断って、丘を歩き始めた。
人工喉頭「タピアの笛」をのど元に押し当てて、大島肇さんは、戦車が去ったあと目にした、葛根廟の丘の惨状へと話を進めた。
「家内やほかの子供3人はどうなっているだろう、そう思ってキビ畑を出てみると、丘一面に沢山の人が倒れていましてねえ…」
ひろげた指で地面を引っかくようにしている者、肩から腕ごと吹っ飛ばされた者、腹がぱっくりと開いた者、顔面を撃ち抜かれて抱き合ったまま転がっている母と子。目を見開いたままの婦人。どこを撃たれたのか、眠ったように死んでいる老人…。
大島さんは踏みつけないようにして、一人ひとりの顔をのぞき込み、確認しながら歩いた。息のある人は、大島さんが近づくと、「水を…水をください」とひきつった声で懇願した。大島さんも焼け付くような渇きを覚えていたのだが、水筒はもうずいぶん前から空っぽだった。
「わかった、すぐに持ってくるからね、それまで頑張りなさい、と励ましてはみるんだけれど、実際はどうしようもないんだよねえ。それで、また家内たちを探して歩いていたら、偶然、雨水がたまった窪みを見つけたんです」
窪みの周囲にも、何人かの人が死んでいた。たぶん深手を負った人たちが、水を求めて、一人、また一人と集まり、ひと口、ふた口飲んでこと切れたのだろうと、大島さんは推測している。
「窪みの水は血で真っ赤になっていましたが、飲んだ時のうまかったこと。その水を水筒に入れて、さっき『水を下さい』と言った人のところまで戻ってね。『けがをしてるんだから、一度にあまり飲まん方がいいですよ』と言って、水筒を差し出したんですが、その人は水筒にしがみついて離そうとせず、ごくごく、ごくごく飲んで。『もうやめた方がいい。危ないですよ』。そしたら、『あとはどうなってもいいんです』と言ったきり、バッタリ倒れて、そのままでしたね。呼んでも返事をしない…」
倒れた人たちの間を再び、歩き始めた大島さんは、興安電報電話局の守田近局長と奥さんの死体を見つけた。
「奥さんは胸のあたりを滅茶滅茶(メチャメチャ)に撃たれてました。近くには、やはり胸がハチの巣のようになった男の子がいて、抱き起こすと地面にべっとりと血のりがついていてね。赤ちゃんも泣いてました。あやすと泣き止むだろうとは思いましたが、家内たちのことが気になっていたので、涙をのんでそこへ置きっ放しにしてきたんです。後になって知ったことですが、この女の赤ちゃんは守田局長の子供さんでね。助かったお兄ちゃん、といっても当時興安在満国民学校の一年生だったと思いますが、その子が見つけ、抱きかかえて避難する途中で、中国の人に預けたそうです」
お兄ちゃんの守田隆一君は窪みにはまった荷車に、有吉きよ子さんの長男和夫君らと一緒に乗っていた。ソ連軍戦車隊の銃撃で、荷車をひっぱっていた馬が尻に弾を受けて暴走。子供たちは次々に振り落とされていき、隆一君が気がついた時は弟の耕也君と小さな男の子の3人だけで広野にいたという。のち、隆一君らは別々の中国人養育されるが、隆一君は50年に叔母がいる秋田県鹿男市に一人、永住帰国する。
泣き叫ぶ赤子に、うしろ髪をひかれながらも、その場を去って、大島さんはどれくらい歩いただろうか。ふと丘を見上げると、妻くめさんの姿が目に映った。
「近づくと『あっ、あなた、助かったのね』と言うんです。二男の満吉も三男の潔も元気に飛び出してきましたが、一番下の当時三つだった美津子の姿が見えないんです」
屍におおわれた丘で大島さんは、妻くめさんらに出会うことができた。だが、妻の背中にいるはずの末っ子、美津子ちゃんの姿がない…。問いかけようとすると同時に、くめさんは言った。
「私が手にかけました。あなたや私が死んで、この小さな子が、こんなところで生き残ったとしても不憫だと…それで手にかけたんです」
母自らの手で、首を絞めたのだという。
「数えで三つ。かたことで話す、かわいいさかりだったんですけど…」
大島さんは、そこで言葉を切った。列車の弱々しい明かりの下での話だった。しかし、表情は変わらなかった。いったんはずした人工喉頭をすぐにまたのど元に当てて、淡々とした口調で続けた。
「いつまでも、そこにじいっとしているわけにもいかんので、家内に『かわいそうなことをしたなァ。でも仕方ないよ』と。『逃げようと思えば逃げられるから、とにかくいっしょに逃げよう』と言うたんです。ところが、家内は『逃げてもだめ。きっとどこかでやられてしまう。それより自決した方がましだ』と言ってね。子供が死んだ場所を離れたくなかったんですよねえ、家内は…」
大島さんは三男で五つだった潔君の手をとり、妻と他の二人の男の子をうながした。くめさんはよろよろと歩き始めた。
大島さんが、くめさんと出会う少し前から、丘のあちこちで集団自決が始まっていた。
私は現認していませんが、鉄砲で撃ったりしたのが多かったんじゃないでしょうか。パーン、パーンという音をかなり聞きましたから。ところが心臓や頭になかなか命中しない。肩や腰に当たって、苦しむ人も多かったようです。中には、女たちに合掌させ、『殺すのはいやだが、この場合は仕方がない。許してください』と言いながら日本刀で次々に首を刺していった、とこれは家内の話です」
歩く途中、屍に囲まれて座り、ポケットやリュックサックの底から取り出した紙幣を燃やし続ける男を見かけた。家族と死に別れ、自らは足に重傷を負った人だった。お金を燃やしながら、実は自分の過去を焼いているのだろうと大島さんはふとそう思った。
「いっしょに逃げよう」と声をかけたが、男は「どうやって逃げていいかわからないし、足を撃たれて歩く自信がない。あんた、逃げるのなら、これを持っていきませんか」と、燃やす前のお札をくれた。
「札は血でべとべとしていましたが、私のズボンのポケットに入るだけ入れてくれてですねえ。
『無事に日本に帰ることが出来たら、この事件のことを一人でも多くの人に伝えてください。頼みます』と言ったですよ」
「旗(県)公署の副参事官にも会いましたが、『こうなった以上、公署としては指揮するわけにはいかないし、出来もしない。自由にしてください』と言うだけだった…」
にわか編成の避難群団、興安七生報国隊はわずか三日で、あまりにも悲惨な結末を迎えてしまった。あとは、個人の判断と意志、体力に頼るほかない。
大島さんは、その晩、家族と肩を寄せ合って草原に寝た。翌8月15日、戸数十戸ほどの蒙古人集落にたどり着いた。
「ちょっと休ませて下さい。それと食べるものがあったら分けてくれませんかと頼むと、子供たちを気の毒そうな顔で見てね。あたたかいご飯を食べさせてくれたんですよ」
その集落に2、3時間いて、大島さんらは南へ、鉄道線路の走る方角へ向かって歩いた。終戦など知るよしもなかった。
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