1931年、日本が満洲事変を契機に満洲全域を占領し、翌年には清朝最後の皇帝・溥儀を元首とする満洲国を建国して、事実上日本の支配下においたことはよく知られています。
しかしながら、その後、国策として多くの日本人を満蒙開拓移民として強引に満州に送り込んだ事実や、それによって引き起こされた悲劇の数々は、それほど知られているとは思えません。
昭和7年10月、関東軍は「満州における移民に関する要綱」を決定していますが、そこには「日本人移民は、日本の現実的勢力を満州国内に扶植し、日満両国の国防の充実、満州国の治安維持ならびに日本民族の指導による極東文化の大成をはかるをもって主眼とす」とあるといいます。ところが、満網開拓移民は、それだけではなく、昭和恐慌で疲弊する内地農村を移民により救済し、日本国内の農村問題や人口問題を解決するとともに、対ソ戦兵站地を形成するという目的も合わせ持っていたようです。
満州事変以降、1936年(昭和11年)まで5年間の「試験的移民期」には、平均すると年間およそ3000人の移民が渡満したといいます。そして、試験移民が軌道に乗ると、関東軍は、新京で「移民会議」の開催を働きかけ、「100万戸500百万人移民計画」という大量移民計画を諮問して、移民事業を主導したのです。
そこで注目すべきは、移民1戸あたりの土地の広さとその用地確保の仕方です。集団移民は1戸当たり耕地10町歩、採草放牧地10町歩合わせて20町歩で、自由移民は1戸当たり集団移民の半分の10町歩というのです。日本国内では考えられない広さではないかと思います。そして、その用地確保に軍が動いていたという事実です。
下記文中の「土竜山事件」は、軍が軍事力を背景に強引に移民用地の確保を進めたために発生した事件だと思います。移民用地の確保は、軍による一方的で理不尽な既耕地や可耕地などの強制買収であったばかりでなく、匪賊から自らを守るために、農民が以前から持っていた銃器類をも、治安維持を名目に没収するというものでした。
土地を奪われ、家を奪われ、銃器類をも没収されるという現実に、農民が反発して決起したことには、何の不思議もないと思います。したがって、日本人は「土竜山事件」を、国策としての満網開拓移民実施がもたらした事件として、忘れてはならないのではないかと思います。
下記は、「鉄道自警村-私説・満州移民史-」筒井五郎(日本図書刊行会)から抜粋しました。
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第6章 日本人の満州移民
§ 試験移民期の移民と移民政策
第一回試験移民は、直ちに募集が開始されたが、早くも9月5日にはそれを締め切っている。そして同月10日には選択を完了し、9月28日まで、茨城県にある加藤完治の国民高等学校はじめ岩手県と山形県の県立青年道場で一通りの移民教育を施した。そのあと数日間はそれぞれ帰郷して、出発支度をし、10月3日には入植者423名が渡満のため、東京の日本青年会館に集合を終えた。
そして、その日、夕刻東京を出発、5日に神戸港出帆、8日大連着、ここで関東軍が移民団を引き受け、東宮大尉が責任指揮官となる。そのあと、途中奉天で、北大営移民訓練所在所中の幹部要員69名が加わり、総員492名となって、ハルピンから松花江を水車船で下り、10月14日に佳木斯(ジャムス)に着港した。
ここで上陸する手筈であったが、抗日ゲリラの襲撃の危険があったので足止めとなり、翌15日上陸した。しかし、治安は極悪状態だったので、差当り吉林軍に編入され、そのまま佳木斯市街に越冬して、附近の警備にあたりながら入植の準備を進めた。そして、やっと翌春になって、三江省樺川県の目的地永豊鎮に入植したのである。
このように、この移民団は現地到着早々から想像を絶する波瀾と苦難に満ちた歴史を辿るのであるが、これが、日本人集団移民の先駆「弥栄村」である。
さて、こうして第一回試験移民は入植したが、これと相前後して関東軍は昭和7年10月初め、かねて特務部で立案していた「満州における移民に関する要綱」を決定した。この要綱では「日本人移民は、日本の現実的勢力を満州国内に扶植し、日満両国国防の充実、満州国の治安維持ならびに日本民族の指導による極東文化の大成をはかるをもって主眼とす」となっていて、日本人移民が、国防的政治的役割を担うものであることを明確にしたわけであるが、これは満州建国後次第に反満抗日勢力が各地に武装闘争となって表面化してきたという背景があったからである。
このあと、年を越えて昭和8年4月、関東軍は「日本人移民実施要綱」を決定した。これはさきに特務部で作成した「満州における移民に関する要綱」をさらに細説したものであるが、それには、(1)満州国が移民用地を確保すること、(2)移民用地保有管理機関として「満州拓殖会社」を設立すること、(3)移民の経営形態は、自給自足本位、自作農主義、農牧混同型、共同経営本位を確立すること、を主唱し、(4)移民の入植戸数を普通移民は15カ年に10万戸、特別移民即ち屯田制移民は5カ年に1万戸と計画してある。
なお、同じ4月に関東軍は、日本人移民送出機関として「満州移住協会設立要綱案」を作成し、中央関係方面に提出した。
恰度この頃、昭和8年3月に通遼県銭家店近くに自由移民として「天照園」移民団51戸が入植した。これは東京深川の失業者更正施設「天照園」の出身者である。
この同じ3月には、拓務省の第2試験移民500戸案が第64議会を通過した。この第2次移民団は同年7月494戸が三江省樺川県七虎力に入植した。これが「千振村」である。
拓務省ではさきの第2次試験移民の承認を得たあと昭和8年5月に「満州移民実行に関する件」と称する長期移民計画案を作成した。これは、その1ヶ月前に関東軍で決定した「日本人移民実施要綱」の複写同然のものであり、したがってその内容は関東軍案と全く同じ15カ年11万戸送出計画と、満州移民協会の設立、満州に移民会社二種を創設するというのが主要点であった。
しかし、これは閣議で承認される空気ではなかったので、思案の挙句至極簡単なものに後退した。即ち、(1)当分毎年相当数の移民を送る。(2)中国人や朝鮮人との関係を円満にするように措置する。(3)移民は集団として相当の自衛力を保持せしめる。(4)移民機関として差し当たりは東亜勧業を利用する。(5)現地に移民用地を確保するための法人を日満合弁で創り、満州国から国有地を出資せしめる。というのであった。
こうして昭和8年は過ぎるが、越えて昭和9年2月には、かねて牡丹江省西南端の鏡泊湖畔に東京国士館高等拓殖学校理事山田悌一が建設した「鏡泊学園」に学園生90人が入植した。ここは一般とは異なる特殊移民地であるが入植間もなくの5月に抗日ゲリラに攻撃され、山田園長は戦死した。そして翌昭和10年には「度々の匪襲により遂に経営不能になる」という悲惨な記録も一部には見える。しかし、その後持ち直したようである。
この昭和9年という年は、次つぎと匪賊事件に見舞われたが、中でも移民史に忘れることのできない重大事件が起きる。「土竜山事件」である。すでに正月過ぎから第一次、第二次各移民団が別の抗日ゲリラの襲撃にあっているが、ゲリラのうちはまだ小手先の防衛で何とか切り抜けられた。それが何千という大軍によって包囲攻撃されたのが、この土竜山事件である。
この事件は、一般に言う日本の満州侵略に対する民族的反感からだけの蜂起ではない。もっと中国人の生活に直に根ざした問題から出ていたのである。話は少し長くなるが、その顛末を見ておきたい。
この事件は、昭和9年3月5日からほぼ2ヶ月にわたって、三江省依蘭県土竜山に本部を置く謝文東指揮下の農民蜂起軍6000人が第一次、第二次両移民団を襲撃し、移民団は勿論、守備にあたった関東軍将兵に重大な損害を与え、治安はもとより、移民政策の上にも大きな影響を及ぼしたのである。
事の起こりは、関東軍が移民団用地を確保するため、軍刀と銃の圧力をもって中国人の耕地を強制買収する暴挙に出たことからである。土地買収の地域は依蘭県、樺川県など三江省の沃地数県にもわたり、およそ可耕地の6割をその予定地域にあてていたという。すでに第一次移民団用地としてその3割にもなる熟地を取られ、また第二次移民団用地はさらに7割もの既耕地を無理矢理に買収されたのである。
中には、それに抗して地券を出し渋る農家もいたが、兵隊たちは農家の壁を銃床で叩き壊して地券を探したという。このように土地を奪われ、家を追われた農民が日本の移民のやり方に怨みをもつのはあたりまえである。
一方、これとならんで関東軍は治安維持の立場から、農民が自衛のために所持する銃器類を没収した。刀狩りである。当時は、まだ満州には数万を超える、いわゆる匪賊が跳梁していたので、農村では自衛団を組織していた。殊に北満では警備網も手薄であり、身を守るためにはどうしても武器が必要であるのにそれを取り上げられるのであるから、農民にとっては生命と財産の保証が失くなるのである。これも大きな怨みの原因となった。
さらに、これは笑い話みたいな話であるが、天然痘の予防接種がその頃一斉に施されたのを一部の無知な農民たちのある者は、てっきりこれは、中国人を絶やすために行われる断種注射だと騒ぎ出して一層抗日意識を煽ることになったと言われる。
こうした怨嗟に満ちた農民大衆が、土竜山の東方八虎力屯の大地主で、自衛団の団長をしていた謝文東を頭首に推して、武装蜂起したのである。
謝文東は正義感が強く、立派な人物で、住民の信望も厚く、この地方の中心的存在だったが、かねてから関東軍のやり方や、移民団の一部不良分子の略奪暴行を見ては、堪忍できる極限に達したので、同志と謀り、数百の農民を糾合して、自ら総司令となり、東北民衆軍を編成した。この情報はたちまち依蘭県内外に広く飛んで、各地の農民は手に手に武器をとって続々と彼のもとに集まり、総数6700名の大軍となったのである。
その昔、南中国の農民、朱元璋が蒙古帝国元の圧政に堪えかねて、民衆を率いて起ち上がり遂に明国を建てた故事が頭に浮かんでくるが、謝文東もそれと全く同じである。
こうして猛りたった農民軍に包囲された移民団は、少々の銃器を持っているくらいでは手も足もでなかった。警察は物の数ではなく、農民軍によっていち早く武装解除されてしまった。依蘭駐屯の歩兵第63連隊が駆けつけたけれども、飯塚連隊長以下19名の将兵が戦死するという惨敗に終わった。そこで日本軍側は、そのあとつぎつぎと新たな援軍を出したので、さしもの農民軍も多数の死傷者を出して退散するいたった。開戦以来75日目である。
かくて、事件はやっと終熄したのであるが、移民団の被害も少なくなかった。戦死2名、負傷者12名と比較的人的被害は軽かったが、農場作業は全く休止で、その間接被害も大きかったし、それにも増して、第二次移民団ではこの事件のために100名にも及ぶ退団者が出、その前からの脱退者もあって、最初の入植者494名は300名余りに減少してしまったのである。
一方、首領謝文東は多数の同志を失いながらも、なお5年の間抗日連軍の軍長として日満軍警を悩ましたが昭和14年3月関東軍の帰順工作によって遂に帰順するにいたった。
この大騒ぎの最中に、拓務省は「昭和9年度満州自衛移民実施要綱」を決定し、第三次移民団を送出するのであるが、今次からは、募集地域を、東北、北陸、関東の寒冷地に限定せずに、全国にその範囲を広げるとともに、その資格も、前二回までは既教育在郷軍人でなければならなかったのを今回から、在郷軍人でなくてもよいことになった。また、入植形態も集団の規模を検証する意味から、従来の500名一集団方式から、500名程度の一群が数地区に分散入植する形をとった。
こうして募集された移民団298名が、この年の10月に、北安省綏稜県北大満に入植した。これが、瑞穂村である。当初の計画地区は吉林省大石頭であったが、治安状況不良との理由から急拠変更になったものである。
昭和9年はこのほかに、特異な移民団が入植している。ひとつは「饒河少年隊」とも通称された「大和北進寮」である。筆者らはここを「饒河少年移民」と呼んでいた。その頃、ソ連ではビオニールという共産少年団をシベリアの何処かに移民として入植を試みているという話が、拓殖関係者の間では話題になったことがあるが、その話からこの饒河のことを少年移民と言い習わしていた。これは昭和10年代のことである。
この饒河の少年移民は、東宮鉄男が満州移民の夢を少年に托して、加藤完治の国民高等学校や僧大谷光瑞の周水子少年訓練所の協力を得て、それぞれ修行中の少年を集め、東安省の東辺、ソ満国境ウスリー江沿いの饒河の地に建設した一種の移民道場である。
開設当初彼らは13歳から20歳までの青少年で、東北、関東、東海、近畿の12県から集まっていた。この少年移民が9月に日本を出発して現地に入植している。彼らが果たしてどんな未来に生きたかは知る由もないが、東宮鉄男の信条「建設の礎石たる修養をなせ。高位顕官を夢みるより卒伍の闘士たれ。豪農紳商たる前にまず優秀なる農夫、正直なる小僧たれ」によって国土的農民教育をうけながら青春の一時期を氷雪の国境で送ったことは、かれらの体内にたぎる若き血潮を燃焼させるに不足はなかった。
この東宮の少年移民の試みは、青少年たちに生きる活路を求めさす機会を与えたが、それにも増して、移民政策の上にこそ活路を開かせることになったのである。
即ち、昭和13年満州開拓青年義勇隊の創設となって東宮のこの試みが花開くのである。東宮は、彼の現地体験から、満州移民は人選が何より大切で、在郷軍人よりも「国民高等学校出身者、貧困者にして活路を満州に求めんとして渡満せる者、純真なる年少者」が移民の適格者であると主張し、関係当局に意見を出したのであるが、これが拓務省や農林省を動かし、成人移民から少年移民へと、政策の方向は変わってゆくのである。その意味でこの饒河少年移民は、町道場的ではあったけれども移民政策に大きな役割を演ずることになったと言いうる。
しかし、何ごとも量が多くなれば質は低下する。移民の場合とて例外ではない。その上満州移民の場合は、国防という国策が移民の生活に優先していたので、移民が目的でなく手段視されて、数を揃えるのに汲々としていたところに問題があった。この饒河少年移民の場合でも、粒選りの少年の集まりであるうちは質的に高いものを保有しているが、それが大量の義勇隊移民となって発展すると必ずしも目的どおりのものは生まれない。筆者はそう言う意味で、数だけを集めた青年義勇隊移民を今でも苦々しく思っている。
それはともかくとして、他のひとつは天理村である。これは奈良に本部のある天理教の信徒移民で、信者43戸155名がハルピン郊外にこの年入植した。ある資料によれば、すでに昭和7年には建設をはじめている。筆者がハルピンにいる頃、この天理村が特産物として奈良漬けを大量に生産し、ハルピン市内で販売していることを知り、これに啓発されて、筆者が携わっていた鉄道自警村にも、奈良漬けを奨励し、その見本を持ってハルピン市内の百貨店や病院を廻り歩いて販路開拓の世話をしたことが懐かしく思い出される。
この年の終わりに近い昭和9年11月、関東軍は、新京に第一回移民会議を招集し、土竜山事件の反省を含めて、移民政策全般にわたって検討を行った。期間は11月26日から12月6日までの11日間の長期に及び、参集範囲も関東軍、拓務省、大使館、満州国政府、朝鮮総督府、満鉄経済調査会それに学者合わせて50名という大がかりなものであった。この移民会議の結果をふまえて、関東軍は、同年12月大量移民の実施にかかわる厖大な計画案を作成し、これを中央関係当局に提言した。その主たるものは、移民の入植数と農業規模についてである。
まず入植数については、10カ年10万戸と計画されているが、これは従来関東軍が計画していた15カ年11万戸に比べるとかなり入植数が増加している。これはおそらく過去3年の入植経験からある程度の自信を得たのと、ともかく早い時期に多くの移民を入植せしめるという決意のあらわれであるとされる。
つぎに移民の農業規模については、「北満における移民農業経営案」として、一戸あたり耕地10町歩(水田2町、畑8町)と採草放牧地10町歩合わせて20町歩を標準案としているが、大体この線がその後の移民地農業経営の基準として考えられようになった。
明けて昭和10年、すでに曲がりなりにも三次にわたる試験移民の入植を見、またあちこちに自由移民が渡満し出すし、さらにひと頃より満州の治安状況も好転してきたことから移民に対する気運も何となく調子に乗ってきたのがこの時期である。
拓務省は、関東軍の提案もあり、この年の5月「満州農業移民根本方策に関する件」という満州移民計画の根本方針を樹立した。この方針は極めて常識的ながら、満州移民の目的を、日本の人口問題と農村問題の解決のひとつとして行うものであるというふうに、満州移民の必要性を国内的要因から力説するもので、国防的任務については、ここでは触れていなかった。
そして、移民の数については、昭和11年度以降の15カ年間に10万戸を送出することを基本計画にしている。この送出計画は、昭和9年12月関東軍の提案した10カ年10戸よりも少ない。
この送出計画は、第68議会でずっと削られ5カ年2万戸に落ちついたが、ともかく従来の何百戸程度からみればかなり多い計画が政府決定を見るにいたった。そしてその初年分つまり昭和11年度分通算第五次計画1000戸移民案もこの議会で同時に決定した。
一方、拓務省は同じく昭和10年5月「第四次満州農業移民募集要綱」を発表し沖縄を除く全府県に広く移民の募集を行った。
この募集で、最も特徴的なことは、移民に貸与される土地面積を最小限10町歩ということを明示したことである。これは、さきに関東軍が提案した標準20町歩案からその最低限を見込んだものと察せられるが、土地不足に追いつめられている全国の農民にとっては正に垂涎の的であって移民送出に大きな刺戟となって作用したと思われる。
こうして募集に応じた第四次移民団496名は、昭和10年6月、東安省密山県哈達河、鶏西の2地区と吉林省舒蘇県城子河の合わせて3地区に入植した。
この昭和10年は、かねて満鉄が計画していた鉄道自警村移民が小規模ながらも実現したのである。満鉄はすでに触れたように会社創立当初に逸早く移民会社を設けて移民の誘致を手がけながらもその成績はあまり上がらなかったが、今回は会社の直営で移民を扱ったのである。その詳細は第7章に譲るが、この昭和10年4月には、その第一次6ケ村66戸が全満の鉄道沿線6カ所に分散入植した。
同じこの年天理教第二次移民団26戸が、前年入植のハルピン郊外の地に入植した。
また、興安北省三河地方に三河共同農村12戸も入植した。ここは有名な三河ロシア人大村落の直ぐ近くである。
このほか鏡泊学園にも63戸が入植した。
さらに、吉林省蛟河県に新潟村61戸が入植している。
ところで、その頃ジャーナリズムを賑わせて世間に明るい風を送ったものに大陸花嫁の渡満がある。拓務省は第二次移民団の要望に応えるものとして花嫁を募集したところ130名が応募し、その全員が話がまとまって集団渡航したのである。筆者もそのその光景をニュース映画で見たが、それはたしか新潟から船で北鮮の清津港に上陸するときのものであったと記憶している。戦後昭和55年頃だったかNHKの特集テレビ番組でその中の何人かが出てきて、往時を述懐して「何が何だか分からなかったけれど、当時は、何かこう、お国のためだという一種の使命感みたいなものがあって、無我夢中のうちに満州に行ってしまいました」と笑い話のように語っているのが強く印象に残っている。
こうして移民ラッシュの昭和10年が明るく過ぎようとする年末になって二つの移民機関が設立された。「満州移住協会」と「満州拓殖株式会社」である。
移住協会は、かねて関東軍の要請にもとづき拓務省で計画を進めてきた公益団体で、昭和10年11月に設立された。移民事業の促進と後援がその仕事である。拓務大臣を会長に、理事には政界、財界、学界のいわゆる名士が多数その名を連ねていた。なお、この協会は昭和12年4月に財団法人に改組され、移民の募集斡旋をはじめ広い範囲にわたる事業を扱うようになる。
満州拓殖株式会社は、これ以前から関東軍の提案した在満移民機関であり、陸軍省と拓務省の共同提議により、昭和10年12月に設立された。新京に本社を置き資本金1500万円で発足した。この資本金は、満州国政府500万円、満鉄500万円、三井250万円、三菱250万円という出資である。この満拓は昭和12年8月「満州拓殖公社」に改組される。
さて、昭和11年に入ると、移民団の渡満が次第に増えてくる。
まず、拓務省の第五次集団移民団、これは四次までの試験移民本期を一応過ぎて、その仕上げというべきものであって、過ぐる第68議会を通過した5カ年2万戸の初年分にあたるのである。この年7月に、1014戸が、東安省密山県に永安屯村280戸、朝陽屯村201戸、黒台村226戸、信濃村307戸の4カ村として入植した。
自由移民は、先に触れた鉄道自警村の第二次7カ村108戸が鉄道沿線各地に入植したのをはじめ、吉林省盤石県に大黒村20戸、牡丹江省寧安県に仙洞村136戸、間島省汪清県に秋栄村37戸、同省和竜県新秋田村42戸、東安省林口県に古城鎮村145戸、それに三江省鶴立県に肥後村127戸がそれぞれ新しい村を開いた。
以上が試験移民期といわれた昭和7年から同11年までの移民政策の要略と移民の入植状況であるが、ここではその移民の入植数を一応総括しておきたい。別表(略)のとおりである。
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