下記の資料1は、インドネシアの元「慰安婦」の証言ですが、こうした証言があるからこそ、インドネシアでも副大統領が、安倍首相に戦争被害者への謝罪を呼びかけたのだと思います。2015年08月の報道ですが、インドネシアのユスフ・カラ副大統領は、日本の安倍晋三首相に対して、第2次大戦の被害者に謝罪するよう呼びかけたといいます。また、それに先立って「日本が大戦の被害者に謝罪するのか、それとも遺憾を表明するだけなのか、それを決めるのは安倍首相だ」とも発言したと伝えられています。「安倍首相が被害者に謝罪することができれば、戦時中に日本から被害を受けた人々の感情はずいぶんと改善される」との考えに基づくのだというのです。
また2015年には、マレーシアでも、マレーシア人元「慰安婦」に対する日本政府の謝罪を求める声があがったといいます。日本の戦争責任や戦後補償の内容が、今なお、問われ続けているのだと思います。
資料2の台湾の女性の証言は、通常の慰安所における「慰安婦」の証言とは、少し様子が違いますが、くり返し性行為を強要されており、「慰安婦」とかわりはないと思います。体制が整っていなかったために、十四歳で流産さえ経験することになってしまったのだと思います。
戦時中、台湾は日本軍の兵站基地として重要な役割を担ったようですが、台湾軍が日本軍に供給していたのは軍需品ばかりではなく、特殊な人材「慰安婦」も軍需品同様であったといいます。「台湾総督府と慰安婦」朱徳蘭(明石書店)によると、南方軍の慰安婦募集に台湾軍が協力していた事実は、1942年3月12日に当時の台湾司令官・安藤利吉が陸軍大臣東条英機に宛てた秘密電報「南方派遣渡航者ニ関スル件」で明らかだといいます。
”陸密電第六三号(寺内寿一)南方総軍の要求である慰安土人五十名をボルネオへ派遣する件について、陸密電六ニ三号により、すでに憲兵の調査を経て以下の(慰安所)経営者三名を選出した、これらの渡航許可を申請する。
下記
愛媛県越智波方村一二三六番地 台北州基隆市日新町二丁目六番地
村瀬近市、年齢四十二歳
朝鮮全羅南道済州島斡林面挟方里十番地 台北州基隆市義重町四丁目十五番地
豊川晃吉 年齢三十五歳
高知県長岡郡介良村三七〇番地 高雄州潮州街二六七番地
浜田ウノ、年齢五十一歳”
そして、この慰安婦ボルネオ派遣申請に対して、阿南惟幾陸軍省次官が陸軍大臣命令に基づく許可の返答をしているということですが、その後、さらに樋口敬七郎台湾軍参謀長から阿南次官の後任の木村兵太郎陸軍次官へ次のような電報があったのです。
本年三月台電第六〇二号申請陸亜密電第一八八号認可ニ依ル「ボルネオ」ニ派遣セル特種慰安婦五十名ニ関スル現地着後ノ実況人員不足シ稼業ニ堪ヘザル者等ヲ生ズル為尚二十名増加ノ要アリトシ左記引率岡部隊発給ノ呼寄認可証ヲ携行帰台セリ事実止ムヲ得ザルモノト認メラルルニ付慰安婦二十名増派諒承相成度
尚将来此ノ種少数ノ補充交代増員等必要ヲ生スル場合ニハ右ノ如ク適宜処理シ度予メ諒承アリ度
左記
基隆市日新町ニノ六 村瀬近一(原文ママ)
軍人の需要に応えるため、さらに二十名の慰安婦の増派と、そうしたことを見越して、渡航手続きの簡素化を求める内容です。
また、見逃せないのが、慰安所経営者は軍が選定しており、 村瀬近一なる人物の職業欄には「憲兵伍長」とあり、のちに「代書人」へ変更されているということです。かつて「憲兵伍長」であったからこそ、軍慰安所の経営者に選定されたということだと思います。
こうした資料は、戦時中「慰安所」の設置や「慰安婦」の募集が、軍主導で行われたことを物語っているのであり、「『従軍』慰安婦はいない、商行為として行われた」とか「民間の業者がそうした方々を軍とともに連れて歩いていた」とかいうような主張は、通用しないと思います。慰安婦の証言やこうした文書を、いつまでも無視してはならないと思います。
下記資料1は 『私は「慰安婦」ではない』戦争犠牲者を心に刻む会編(東方出版)からの抜粋で、資料2は「台湾総督府と慰安婦」朱徳蘭(明石書店)からの抜粋です。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
<証言──インドネシア>
十三歳の少女に課せられた「仕事」
マルディエム
皆さん、こんにちは。私はジョグジャカルタから来ましたマルディエムといいます。ここで私の体験を手短にお話ししたいと思います。それは1942年のことでした。そのとき私は十三歳でした。
私が生まれたのは、1929年2月7日です。わたしはジョグジャカルタで育ったのですが、十三歳の時に、そこからカリマンタン(旧ボルネオ)のバンジャルマシンという場所に連れて行かれました。何故そこへ行ったかというと、日本人が労働力を集めるためジョグジャカルタに募集にやってきたとの説明が、日本人市長からあったからです。そして私には、演劇の仕事があるから来ないか、という話がされました。ジョグジャカルタからスラバヤ、そしてバンジャルマシンまでは船で移動しました。船の名前は「みき丸」だったと思います。
私は、バンジャルマシンに着くまで、演劇といっても、いったいどういう仕事をするのか、全く教えられませんでした。そしてテラワンという地域に連れて行かれました。私といっしょに連れて行かれた少女たちは、全部で二十四人でした。
到着すると、私は部屋番号が十一番と記された部屋に案内され、ここが、これからあなたの宿舎なのだと言われました。そして私には、不思議なことに「ももえ」という名前が与えられました。私と同じ十三、四歳の少女は四人いて、「あきこ」「みねこ」などの名前がつけられました。
その後、私は健康診断を受けるように言われ、医師によって健康診断がなされました。そしてその結果健康であることが証明され、軍の病院から帰ると部屋の前にはもうすでに大勢の兵士が待っていて、私はその病院で助手をしていたあごひげの男に最初に強姦されたのをはじめとして、いきなり六人の「客」の相手をさせられました。
想像できますでしょうか。私はたった十三歳です。まだ私には初潮もありませんでした。それなのに私は、六人の兵隊の性の相手をさせられたのです。私の下腹部からは、ひどい出血がありました。あまりにも出血が激しかったので、私には三日間の休養が与えられました。けれども三日後、とりあえず身体が回復すると、早速、私には最初の日と同じような苦しい「仕事」が待っていました。
一日「仕事」をするということは、こういうことでした。
平均して一日十五人の男たちが、私の部屋に入ってきました。朝十一時三十分から昼間の午後三時頃までは、兵士たちの相手をしなければなりませんでした。それには、二円五十銭という値段がつけられていました。そしてその後夕方五時から夜中の十二時までは、軍属の相手をしなければなりませんでした。それは、三円五十銭という値段がつけられていました。もし、夜中の十二時から明け方まで、私のベッドに寝る「客」がある時は、十二円五十銭という値段でした。中には一人で四、五時間分のチケットを購入してくれて私を休ませてくれる兵隊もいましたが、もっとも多い時には一日で二十人もの相手をさせられたのです。私にとってそれは余りに過酷な「労働」で、肉体的にも精神的にもとてもつらいものでした。
そのような値段が表示してありましたが、私がその金額を受け取ったことは一度もありません。「客」から私に与えられたのは、コンドーム二つと券のようなものだけでした。「支払われたお金は貯金してあるから、戻る時に渡す」との説明を受けていました。その後、東ジャワとジャカルタから三十五人の女性が送られてきました。私といっしょに来た二十四人の内、五人は体をこわしてジョグジャカルタに帰されていたので、「仕事」がとてもきつくなっていたのです。
1943年、十四歳になっていた私は妊娠しました。その妊娠がわかると、私は呼び出され、麻酔もなしに強制的に堕胎させられました。それは過酷なもので想像を絶する痛みでした。お腹をものすごい力で押さえ付けられて流産させられたのです。無理矢理押し出されてきた子どもは、そのときまだ生きていました。ほんとうに小さな子でしたけれども、私は、私の名前からとった「マルディ」に日本人の子なので「ヤマ」をつけて、その子にマルディヤマという名前をつけました。
1944年には、バリクパパンからさらに八人の女性が連れてこられました。
そのようなつらい過酷な経験をしたために、その後の生活において私は、セックスに対して正しい対応をするのが難しくなりました。
私の今日までの様々な後遺症を含めて、日本政府は責任があると思います。私は、日本政府に正式な謝罪と賠償を要求したいと思います。なぜなら、(日本の一部の人たちが言うように)私たちが「売春婦」であったり、そのようにしたことはないからです。私たちは強制されて連れて来らた者たちなのです。プロの売春婦は一人もいません。イスラムの色の強い地域では考えられないことです。日本の国会議員の発言は決して許せません。彼らは、たった十三歳の少女がプロを志したというのでしょうか。
あまりにもつらすぎる体験のために、私の肉体も精神も、健康状態を失ってしまったのです。
私には夫がいました。夫はインドネシア国軍兵士でした。夫はすでに他界し、私は今は夫の年金で生活しています。男性を愛することはできなかったけれど、ただ私を守ってくれる人がほしかったのです。
同僚だったサルミーさんは「慰安婦」だったことを名乗って、その六か月後に、補償金が出るのなら家族に届くようにしてほしいと遺言を残して亡くなりました。私は当時、一番若かったので、記憶が確かなのです。教育は受けなかったけれど、どこに慰安所があったかもはっきり覚えています。忘れてしまいたいけれど、亡くなった友人たちとのことを考えると話さずにはいられません。時間がないので、私の証言はこれで終わりたいと思いますが、もし、皆さんの中に、私の話によって心を傷つけられた人がいるとしたら、お許しを乞いたいと思います。
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
第六章 台湾軍の慰安所事業への参与
第四節 台湾慰安婦の台湾兵站での状況
三、 ノブコの場合
ノブコは1931年に台中州能高郡タウツア社(南投県仁愛郷)で生まれたタロコ族で、春陽蕃所学校(小学校六年間)を卒業した。母親は生まれながらの小児麻痺で歩けなかった。1930年10月、母親がノブコを妊娠していたとき霧社事件が起き、参加していた父親は日本人に殺された。イブコが五歳になった1936年、母親が二番目の父と結婚した。継父もタロコ族の人だった。母親は継父との間に三人の子供を生んだ。継父は口が利けなかった。山でサトイモやサツマイモ、粟などを植えて生活を支えていた。いつも食料不足で、とても貧しかった。1943年末、継父が病気で他界した。母親は立てないため家事ができず、ノブコが家事をしなくてはならなかった。継父が死んだ後は弟や妹の面倒もみなくてはいけなくなった。1944年に二番目の妹が生まれたが夭逝した。その後母は心配のあまり体を壊し、他界してしまった。当時の警察は家に来たことがあり、両親がおらず、とても貧しいことを知っているはずだったが、何も補助がなかった。
1945年初頭、ノブコは叔母の家に移り住んだ。叔母は農業をしている人と結婚していて、とても貧しかった。叔母が男の人を紹介してくれて、ノブコはその人と結婚を約束した。ノブコの婚約者は高砂義勇隊として徴兵され、高雄から船で南洋のほうに出発した。婚約者が徴兵されるとき、ノブコはすでに婚約者の家に移り住んでいた。ある朝、サクラ派出所のツバキという日本人の警官が友人と一緒に家に来て、ノブコに話しがあるというので警察に会いに行った。このときツバキは四人原住民の女性を呼び出していた。呼び出されたほかの人はノブコより年上で、中には結婚して子供がいる人もいた。一番年下で十四歳未満はノブコだけだった。そこで警察からオオヤマ部隊へ行って仕事をするようにいわれた。仕事の内容は掃除やお湯を沸かしたり、お茶を入れたり、洗濯をするなどの雑用だといわれた。月給は十五円で、仕事時間は朝八時から午後五時まで、昼食は部隊が出してくれるといわれた。ノブコの婚約者は家族が多く、生活は貧しかったので、お金のために仕事を引き受けることにした。
三ヶ月ほど過ぎたある朝、ノブコたちの管理員をしていたニシムラという軍人が「今日は十時まで仕事をするように」といった。昼食も夕食も部隊が出してくれたが、残業代はくれなかった。夕食を食べ終わるとニシムラに連れられて休憩所のようなところへ行った。大体七時くらいになったとき、ニシムラに呼ばれて洞窟に連れて行かれた。洞窟の入り口には見張りの兵隊がいて洞窟の奥のほうからかすかな光がみえた。ニシムラにいわれるままに中に入って初めて洞窟の中にみたことのない兵隊がいるのに気付いた。明かりは薄暗くて、その人がどんな顔をしているのかはよくみえなかった。ニシムラはもう洞窟にいなくて、ノブコと兵隊の二人だけだった。急に兵隊がノブコに抱きついてきたのでとても恐ろしかったが、体の小さいノブコは逃げられなかった。叫びながら泣いていたが、その人に服を脱がされ強姦された。
その後、ニシムラに連れられて休憩所に戻った後、ほかの四人の原住民も洞窟へ連れていかれ、次々に強姦された。四人は毎晩七時くらいから順番に山の洞窟に連れていかれ日本兵に強姦された。毎晩ニ、三人の兵隊の相手をさせられた。毎日暗くなるととても怖くて緊張した。毎日夜十時くらいにならないと家に帰してもらえなかった。家に帰っても誰にもいえなかった。ただ、隠れてずっと泣いていた。よく泣きすぎで目がはれていた。毎日毎日、過ごすのがとてもつらかった。
オオヤマ部隊にはだいたい500人くらいの人がいた。軍医による身体検査は受けたことがなかった。1945年の六、七月ごろ妊娠してすぐ流産した。その年の八月中旬、いつものように仕事に出かけてみると日本人兵がすべていなくなっていた。後になって日本軍が戦争に負けて花蓮から撤退して帰国したことを知った。1947年に婚約者が海外から花蓮へ帰ってきた。夫は徴兵されたが、台湾に帰ってきた後、日本政府から何の保証金ももらっていない。その年の12月に結婚した。誰にも言えない苦しみを償うために、結婚後、夫と一緒にキリスト教会へ通うようになった。神様に過去の罪を拭い去ってくださいとお祈りした。信仰を持ってから心が落ち着いて、精神的なストレスが少し減り楽になった。ノブコ夫婦は二人とも敬虔なキリスト教徒だった。1992年に夫が病気でもう長くないと知ったとき、夫に心の秘密を打ち明けて、夫に許してくれるように頼んだ。夫は話を聞いた後、「間違いを犯したことのない人はいない。あのときは戦争でめちゃくちゃだった。私は徴兵されてそばにいてあげられなかった。君一人の責任ではない」といってくれた。
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