真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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知事の定例会見と「慰安婦」の証言

2019年08月28日 | 国際・政治

 愛知県で開催中の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で中止に追い込まれた企画展「表現の不自由展・その後」に関し、また、新たな報道がありました。神奈川県の黒岩祐治知事が、27日の定例会見で「(展示内容が)表現の自由から逸脱している。もし同じことが神奈川県であったとしたら、私は開催を認めない」と述べた、というのです。
 その定例会見で、黒岩知事は「私もメディア出身。表現の自由は非常に大事だが、何でも許されるわけではない」と指摘し、「あれは表現の自由ではなく、極めて明確な政治的メッセージ。県の税金を使って後押しすることになり、県民の理解は得られない。絶対に(開催を)認めない」と強調したとのことです。
 神奈川新聞によると、元従軍慰安婦の女性を象徴した「平和の少女像」については「事実を歪曲(わいきょく)したような政治的メッセージ」と指摘。「慰安婦を強制連行したというのは韓国側の一方的な主張だ」との持論を述べつつも、記者がさらに質問を続けようとすると遮り、「そういう問題について深く踏み込む話じゃない」といら立った様子を見せた、といいます。
 地方行政のトップが、こんなことでよいのか、と暗澹たる思いがします。
 憲法第二十一条には、”集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。”とあります。その表現の自由が、”政治的メッセージ”が込められているという理由で制限できるのでしょうか。自分が感じる”政治的メッセージ”を、日本人みんなが感じる”政治的メッセージ”と決めつけ、表現の自由を逸脱しているとして制限できるというのでしょうか。
 また、そうした表現の自由に関わる問題以前に、「慰安婦を強制連行したというのは韓国側の一方的な主張だ」という主張は、正しいでしょうか。” 記者がさらに質問を続けようとすると遮り、「そういう問題について深く踏み込む話じゃない」といら立った様子を見せた”とあるのですが、なぜ、深く踏み込んではいけないのでしょうか。

 いわゆる「従軍慰安婦」問題に関し、韓国に批判的な主張をする人は、判で押したように、強制連行の証拠がないことを問題にします。でも、韓国に限らず、中国、台湾、フィリピン、インドネシア、オランダなどの元慰安婦の証言があるのです。また、大事なことは、この問題は強制連行の問題だけではないということです。本人の意志を無視して「慰安婦」とし、自由を束縛して、くり返し性行為を強要したことを含め、慰安婦制度全体が問題なのです。そして、それは国際社会で「性奴隷」制度として受け止められているのであって、”韓国側の一方的な主張”などではないのです。下記に抜粋した証言には”管理していた日本人から和服を着るようにいわれ、仕事時間は朝八時から夜九時まで、仕事は日本軍人の夜の相手をすること、月経のとき以外は休みはないこと、毎週一回身体検査を受けること、外出は禁止であることなどを聞かされた”とか毎日十数名の相手をさせられ、軍人はサックを付けていた。抵抗すると経営者から暴力を振るわれた”とあります。

 2015年に日本政府に届けられたという、米の日本研究者ら187人による”日本の歴史家を支持する声明”には、
”下記に署名した日本研究者は、日本の多くの勇気ある歴史家が、アジアでの第2次世界大戦に対する正確で公正な歴史を求めていることに対し、心からの賛意を表明するものであります。私たちの多くにとって、日本は研究の対象であるのみならず、第二の故郷でもあります。この声明は、日本と東アジアの歴史をいかに研究し、いかに記憶していくべきなのかについて、われわれが共有する関心から発せられたものです。

 また、この声明は戦後70年という重要な記念の年にあたり、日本とその隣国のあいだに70年間守られてきた平和を祝うためのものでもあります。戦後日本が守ってきた民主主義、自衛隊への文民統制、警察権の節度ある運用と、政治的な寛容さは、日本が科学に貢献し他国に寛大な援助を行ってきたことと合わせ、全てが世界の祝福に値するものです。

 しかし、これらの成果が世界から祝福を受けるにあたっては、障害となるものがあることを認めざるをえません。それは歴史解釈の問題であります。その中でも、争いごとの原因となっている最も深刻な問題のひとつに、いわゆる「慰安婦」制度の問題があります。この問題は、日本だけでなく、韓国と中国の民族主義的な暴言によっても、あまりにゆがめられてきました。そのために、政治家やジャーナリストのみならず、多くの研究者もまた、歴史学的な考察の究極の目的であるべき、人間と社会を支える基本的な条件を理解し、その向上にたえず努めるということを見失ってしまっているかのようです。

 元「慰安婦」の被害者としての苦しみがその国の民族主義的な目的のために利用されるとすれば、それは問題の国際的解決をより難しくするのみならず、被害者自身の尊厳をさらに侮辱することにもなります。しかし、同時に、彼女たちの身に起こったことを否定したり、過小なものとして無視したりすることも、また受け入れることはできません。20世紀に繰り広げられた数々の戦時における性的暴力と軍隊にまつわる売春のなかでも、「慰安婦」制度はその規模の大きさと、軍隊による組織的な管理が行われたという点において、そして日本の植民地と占領地から、貧しく弱い立場にいた若い女性を搾取したという点において、特筆すべきものであります。

 「正しい歴史」への簡単な道はありません。日本帝国の軍関係資料のかなりの部分は破棄されましたし、各地から女性を調達した業者の行動はそもそも記録されていなかったかもしれません。しかし、女性の移送と「慰安所」の管理に対する日本軍の関与を明らかにする資料は歴史家によって相当発掘されていますし、被害者の証言にも重要な証拠が含まれています。確かに彼女たちの証言はさまざまで、記憶もそれ自体は一貫性をもっていません。しかしその証言は全体として心に訴えるものであり、また元兵士その他の証言だけでなく、公的資料によっても裏付けられています。

 「慰安婦」の正確な数について、歴史家の意見は分かれていますが、恐らく、永久に正確な数字が確定されることはないでしょう。確かに、信用できる被害者数を見積もることも重要です。しかし、最終的に何万人であろうと何十万人であろうと、いかなる数にその判断が落ち着こうとも、日本帝国とその戦場となった地域において、女性たちがその尊厳を奪われたという歴史の事実を変えることはできません。

 歴史家の中には、日本軍が直接関与していた度合いについて、女性が「強制的」に「慰安婦」になったのかどうかという問題について、異論を唱える方もいます。しかし、大勢の女性が自己の意思に反して拘束され、恐ろしい暴力にさらされたことは、既に資料と証言が明らかにしている通りです。特定の用語に焦点をあてて狭い法律的議論を重ねることや、被害者の証言に反論するためにきわめて限定された資料にこだわることは、被害者が被った残忍な行為から目を背け、彼女たちを搾取した非人道的制度を取り巻く、より広い文脈を無視することにほかなりません。

 日本の研究者・同僚と同じように、私たちも過去のすべての痕跡を慎重に天秤に掛けて、歴史的文脈の中でそれに評価を下すことのみが、公正な歴史を生むと信じています。この種の作業は、民族やジェンダーによる偏見に染められてはならず、政府による操作や検閲、そして個人的脅迫からも自由でなければなりません。私たちは歴史研究の自由を守ります。そして、すべての国の政府がそれを尊重するよう呼びかけます。・・・(以下略)

とあります。日本の将来を心配する187人もの日本の研究者によるこの声明は、無視されてはならないのではないでしょうか。

 

 国際社会の信頼を得て、近隣諸国との友好的な関係を深めていくために、客観的事実を冷静に受け止めることが求められていると思います。不都合な事実をなかったことにして、誇りを取り戻そうというような姿勢では、国際社会で受け入れられず、私たちの将来世代も批判を受け続けることになるのではないかと思います。”私たちの子や孫、その先の世代の子供たちに謝罪し続ける宿命を背負わせるわけにはいかない”ということであれば、きちんと当事者に向きあい、できれば、

日本に勧告を発した、国連人権委員会や国際法律家委員会、ILO(国際労働機関)条約勧告適用専門家委員会などの国際機関の代表者も交えた席で、謝罪をし、賠償の約束をすることによって、根本的解決をすべきではないかと思います。慰安婦問題日韓合意が、公式な文書を交わさず、両国外相が共同記者会見を開いて合意内容を発表するというようなかたちでおこなわれたということですが、なぜなのかと思います。日本政府は、”日韓外相会談で日韓間の慰安婦問題の最終的かつ不可逆的な解決を確認した”というのですが、日韓の政治家同士が合意しても、それは”最終的かつ不可逆的な解決”などにはならないと思います。

 下記は、「台湾総督府と慰安婦」朱徳蘭(明石書店)から抜粋した台湾人元「慰安婦」へのインタビューに基づく記述ですが、いわゆる「従軍慰安婦」の実態の一端を示していると思います。「平和の少女像」が「事実を歪曲」しているかどうかの判断には、こうした証言が重要だと思います。
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                      第七章 台湾慰安婦の傷跡

                    第二節 台湾慰安婦のインタビュー

ニ、台湾慰安婦口述歴史の具体例

2、広東、ビルマへ渡ったタカコの場合
 1937年、日中戦争勃発後、占領地の拡大を調整しようとしていた日本軍はゲリラ戦の泥沼にはまっていた。南方への拡張政策をとることで現状を打破しようと試みた日本軍は、まず中国の物資供給ラインを断絶した。南方への拡張政策として1938年に広東を占領した日本軍は、1939年海南島、1941年には香港を占領し、同年さらにはタイへ侵略を開始した。首都バンコクの占領に続き、タイ北部とビルマの国境へと前進していった。翌年3月8日にはラングーン、6月10日にはビルマ全土を占領しアメリカおよびイギリスによる中国への物資供給ラインおよび連合軍と極東をつなぐ交通ラインを封鎖し、戦略上優位に立った。
 1943年8月末、中米英印連合軍による東南アジア統帥部が設立され、中国とビルマの交通ラインを復旧させるため、ビルマへの攻撃態勢を整えていた。1944年初め、中国軍はラシオへの攻撃を始め、アメリカ軍もミチナへの攻撃を開始した。日本軍は連合軍をけん制するためにインドのインパール、コヒマへの攻撃を開始した。こうした日本の攻撃に対し、イギリス軍も空軍の支援を得て反撃にでた。軍需物資の補給の不足から困難な状況へと陥った日本軍はビルマ西部、東部へと撤退せざるをえなかった。1944年8月、中米軍によるビルマでのゲリラ隊はミチナを占領し、続けてビルマ中部へと進撃した。日本軍はこうした連合軍の攻勢から占領地を守りきれずビルマ北部、中部へと撤退した。1945年3月、ビルマ進撃にあたっていたインド軍はマンダレーを占領した。5月には連合軍が南部、北部から首都ラングーンへの攻撃を開始した。こうした攻撃を日本軍は撃退しきれずビルマとタイの国境へまで撤退を余儀なくされた。8月末、連合運はビルマ全土の日本軍を撃退し、さらにはビルマとタイの国境へと進撃した。
 こうした状況の下、1941年から1945年にわたる五年間、広東、ラシオ、ラングーンの日本軍占領地で慰安婦をしていた台湾人女性五人のうち、ここではタカコについて述べてみたい。
 1923年新竹県湖口の農村に生まれたタカコは幼少のときに父親と死別し、母親は再婚していた。公学校(初等教育)には通っていたが卒業はしておらず、十八歳のときに継父から強制的に子持ちの漁師へ嫁がされた。相手が気に入らなかったタカコは逃げ出したが相手の母親と三人の男性に捕まり、台北太平町へ連れていかれ、日本人が開いた料理屋に一円で売り飛ばされた。店では女中兼売春婦として働かされた。タカコのほかにも同じような年の女が三人働いていたが経営者はいつも見張っており、日本人や台湾人の酒の相手や売春を強制された。タカコたちが抵抗すると経営者から暴力を振るわれた。
 約半年ほどその店ではたらいていたタカコは、経営者によって台湾女性へと売り渡され、広東へ連れていかれた。広東で何をするかは事前に知らされていなかった。タカコを買い取った台湾女性はタカコのほかにも五、六人の少女を同行し基隆から軍艦で出発した。タカコと一緒に基隆を離れた少女たちは屏東、台北、嘉義から連れてこられていた。広州に到着した後「愛群ホテル」に宿泊し、その後仏山市にある料理屋のようなところへ連れていかれた。タカコたちが住んでいた部屋は木造建築で、料理屋の店主は四、五十代の台湾女性でタカコたちはママさんと呼んでいた。管理していたのは日本人で店内には九州、朝鮮、台湾から来た女性がすでに働いていた。管理していた日本人から和服を着るようにいわれ、仕事時間は朝八時から夜九時まで、仕事は日本軍人の夜の相手をすること、月経のとき以外は休みはないこと、毎週一回身体検査を受けること、外出は禁止であることなどを聞かされた。経営者から食事と衣服は提供してもらっていたが、給料はもらっていなかった。たまに相手をした軍人からチップをもらっていた。タカコの番号は二番で、タカコという源氏名はそこで付けられた。
 毎日十数名の相手をさせられ、軍人はサックを付けていた。抵抗すると経営者から暴力を振るわれた。タカコは広東に半年間住んでいた。1942年タカコたち十数名の女性は日本人に連れられて赤十字のマークのついた医療船に乗せられてビルマへ向かった。タカコと一緒にビルマに渡った女性は台湾人、日本人、朝鮮人だった。タカコたちが医療船に乗ってビルマへ行く際には、十三隻の軍艦も同行していた。航海の途中、二隻がアメリカ軍の潜水艦の攻撃によって沈没した。ラシオに着くと山が近くにあるタツ部隊の慰安所へ連れていかれた。慰安所を管理していたのはタニモトという日本人女性だった。仕事時間は朝八時から夜九時まで、休みはなく、食事と衣服は提供されたが給料はなかった。ナカオという日本人軍官はタカコにとてもよくしてくれて、タカコのことを好きで、将来は結婚してくれるといっていた。ナカオはいつもサックを付けなかったが、タカコはナカオのために子供を生んでもかまわないと思っていた。当時は本当に愛しあっていると思っていたので、妊娠して女児を生んで約一ヶ月の休暇をもらった後、子どもに母乳を与え面倒を見ながら、軍人の相手をし続けていた。
 1945年7月末、ビルマにいた二十万あまりの日本兵は苦戦に追い込まれ、各部隊ごとに戦闘範囲を狭めながら南方へ撤退していった。タツ部隊も戦場を離れラシオからタイへと撤退していった。タツ部隊がタイへと逃走する49日間、タカコたちも一緒に山を越えジャングルを抜け農村を通りタツ部隊に同行していた。しかし携帯していたのはわずかな米や塩ですぐに食料が不足し、栄養失調や病死者、餓死者、そして流れ弾に当たった負傷死者が跡を絶たなかった。タカコはのどが渇けばサトウキビを盗んで食べていたが、ときには牛の糞の混ざった水を飲むこともあった。タカコの子供は生存していたが、途中通り過ぎたビルマの農村で代わりに育ててくれるよう人に渡した。
 タカコと日本軍はタイのアユタヤまでは一緒だったが、その後、日本軍がどこへ向かったのかは知らないという。当時のタカコはこじきのような姿で、髪にはしらみがわき、あちこちで物乞いをしていた。台湾屏東から来たというツォン・スンミンは日本第三三軍十八師団ビルマ派遣菊八九〇部隊の通訳をしており、一人でこじきをしているタカコに同情し、ツォンの友人であるシェと一緒にご飯を食べさせ、衣服を買い与えてくれた。その後タカコをアメリカの設置した収容所へ送り届けてくれた。こうしてタカコは数十名の台湾人と一緒の船で台湾へと戻ってきた。1946年に台湾へ戻ったのち、タカコは新竹で両親を探したがみつからず、孤独に打ちひしがれた思いで屏東のツォンへ会いにいった。ツォンの家族も多いためタカコを引き取ることはできず、ツォンと同郷のシェの父親がタカコを引き取ってくれた。半年後に屏東で結婚したタカコは、四人の女児と男児一人を生み、最低限の生活を送れるようになった。
 広東にいたとき、何日間か飲まず食わずの生活を送り餓死しかけたこと、ビルマでワニのいる河に跳び込み自殺しようと思ったこと、そんなときには自分の死後、魂を異国の荒野にさまよわせないよう、台湾で生まれ育ったのだから死ぬときは必ず台湾でと、つらい生活にも耐え、死にたいという思いを振り切っていた。タカコは今まで誰にも過去について話したことがないという。こうしたつらい思い出ばかりの過去の話をすることは、今でも恥ずかしさでいっぱいだと話していた。

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