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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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日本の政府が…黄秋月の証言

2019年08月20日 | 国際・政治

 現在、日韓関係の悪化を受け、日本軍「慰安婦」(従軍慰安婦)の問題について、”日本軍が朝鮮の若い女性を従軍慰安婦という名の性奴隷として集め、虐げていたという話は事実ではない”というような断定的な主張が、インターネット上では増えているように感じます。そして、”あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」”に関する吉村大阪府知事や松井大阪市長、河村名古屋市長などの発言も、そのような考え方を一層広げることにつながっているのではないかと思います。

 下記に抜粋したのは、台湾の元慰安婦の方の証言ですが、こうした証言をいろいろ読んでいると、日本軍慰安所がどのようなものであったのか、ということが、次第にはっきりしてきます。証言は人によって、また、時期や国によって様々ですが、日本軍「慰安婦」(従軍慰安婦)の問題における、軍や政府の責任は否定しようがないと思います。明らかに国際法違反であり、戦争犯罪です。
 似たような証言が、韓国、中国、フィリピン、インドネシアなどに、多数あるにもかかわらず、それらを、みな嘘であるというような主張をすることが、国際社会で通用するとは思えません。関係国では、多くの人々が元慰安婦の方々の苦しみを理解し、共有していることを忘れてはならないと思います。

 2008年11月、台湾立法院は「慰安婦問題の迅速な解決を日本政府に要求する」決議を可決しています。中国では、日本軍慰安所がどのようなものであったのか、また、「慰安婦」がどんな状態に置かれたのかを理解し、継承するために、2015年12月、南京大虐殺紀念館(侵華日軍南京大遭難同胞紀念館)の近くに、「南京利済巷慰安所旧址陳列館」が開館し、慰安婦像も設置されています。そして、大勢の元「慰安婦」の方々の写真とともに、住所氏名や証言内容が明らかにされています。ビデオによる証言もあります。それらがすべて嘘であるというようなことは、あり得ないことだと思います。

 日本弁護士連合会と大韓弁護士協会は、2010年12月に、合同で『日本軍「慰安婦」問題の最終的解決に関する提言』を発表していますが、それによると、アメリカ下院、オランダ下院、カナダ下院、EU議会が相次いで、日本政府に、”慰安婦制度が日本帝国による性奴隷制度であった事を認め、慰安婦への真摯な謝罪と補償をするよう求める決議”を可決し、それが日本政府に伝達されているといいます。教科書にそうした事実を記載するよう求めてもいるのに、日本の政府の対応は、削除です。

 また、何度も取り上げている国連人権委員会や国際法律家委員会の他にも、女性差別撤廃委員会、国際人権(社会権)規約委員会、拷問等禁止委員会などが、それぞれ日本政府に対し勧告を行ったといいます。また、ILO(国際労働機関)も条約勧告適用専門家委員会の見解として,毎年のようにこの問題が、強制労働禁止条約に違反するとの前提で、早急な被害者の救済を求める意見を公表しているといいます。

 にもかかわらず、日本では”慰安婦はデマだ”とか”反日プロパガンダだ”というような主張がくり返されています。素直な気持ちで証言に耳を傾けたり、証言集を読んだり、また、冷静に『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』等を精査したりすれば、この問題に関する国際社会の結論が間違っていないことは、誰にでも分かることだと思います。
 現在の日本は、「森友学園」問題や「加計学園」問題に象徴されるように、政府自身が事実を蔑ろにする傾向が強いように思います。だからこそ、しっかり事実を確かめ対応すべきで、事実を蔑ろにしはならないと思います。
 
 かつてリットン調査団報告書が国際連盟総会で審議された際、日本代表の松岡洋右が満州国を自主的に独立した国家であると主張したことはよく知られています。でも、審議の結果、報告書に反対は日本のみ、棄権する国はあったものの、賛成が42カ国で可決され、どこからも支持を得られなかった日本政府は国際連盟脱退を通告しています。日本軍「慰安婦」(従軍慰安婦)の問題においては、似たような状況にあるのではないかと思ったりします。

 下記の証言は、『私は「慰安婦」ではない』戦争犠牲者を心に刻む会編(東方出版)から抜粋しました。

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 <証言──台湾>
 勇気をもって忍耐してきた
                                                       黄秋月(ファンチーユェ)
 料理人の仕事だと聞かされていたのに
 日本人に連れていかれた時、私は十九歳でした。女性と男性の二人が私を連れて行ったのです。女性の名前は忘れましたが、日本人男性の名前は「タキさん」といいました。二人に呼び出された私たち台湾の少女は全部で十六人でした。学校に行けたので文字が読める少女たちもいましたけれど、そうでない少女たちは読めなかったのです。「あなたたちは看護婦の仕事をするのです」とおばさんに説明されました。「私たちは文字が読めないのに、どのようにして看護婦になることができるでしょうか」おばさんは私たちにこう答えました。「文字が分からなくても構いません。炊事はできるでしょう」。それを聞いて、私たちは「それでは、いっしょに行きます」と答えました。
 私たち十六人は台湾の高雄から出発したのです。1943年のその月日は忘れましたが、船の名前は覚えています。「浅間丸」といいました。浅間丸に半月ほど乗っていました。そして南洋のマカッサル(現インドネシア・スラウェシ島南部)という所に上陸しました。
 連れて行かれたところは軍人招待所でした。招待所に一週間いる間に空襲に遭ったのです。その空襲で私たちのうち三人が殺されて、十三人が生き残りました。そして、また別の船にニ、三日間乗せられました。その船の名前は覚えていません。今度は、バリクパパン(現インドネシア・カリマンタン島東南海岸)という所に着きました。
 バリクパパンに着いた時には、もう二人の日本人の態度は変わっていました。連れて行かれた家は椰子の葉で囲ってあり、部屋はどれも一畳くらいの広さしかありません。そして、みんな一緒の部屋に住むと思っていた私たちに、おばさんとタキさんは「一人ずつ別の部屋に入りなさい」と命令しました。タキさんは看板を掲げました。看板にはなんと書いてあったでしょうか?「マツノヤ」という名前でした。「兵隊慰安所」とも書いてあったのです。文字を知っている少女たちは、その看板を見て泣き出しました。あのとき、私たちは天に向かっても地に向かっても泣き叫びましたが、何も応えはありませんでした。

 「一日に三十五人」の命令  
 おばさんは私たち一人ひとりに「何名」と命令しました。皆さんは、「何名」という意味が分からないと思います。今日、「何名ずつ」という意味をお知らせしようと思います。あのときの日本政府はとても心が固い人たちでした。とても酷いやり方でした。一日に一人が五十人の日本軍兵士を相手にしなくてはならないと決めていたのです。私たちは「そんなことはとても出来ません」と訴えました。おしまいにタキさんは「では三十五人にしよう」と命令しました。私たち台湾の少女たちは皆処女で、とても若かったのです。十九歳の私がいちばん年長でした。そのとき、答えることも答えないことも、どちらも出来ませんでした。
 今日、私がこの証言をしなかったら、たぶん皆さんは、戦争がどれほど怖いものであるかが、分からないままになるでしょう。皆さんは聞いたことも見たこともないでしょう。あの大東亜戦争はとても恐ろしい戦争でした。こういうやり方で、年端もいかない私たちに強要したのです。私の身体は私の父母が産んだものです。そして、慈しみ育ててくださったのに、どうして日本政府の人たちによって、こんなに侮辱されなければならなかったのでしょうか。皆さんもお考えになってください。もし、あなた方の姉妹たち、あるいは娘たちが、他の国の人たちにこのように侮辱されたら、どう思われるでしょうか。
 最後にあばさんは、私たちに「忍耐しなさい。これは、国のことです」と言いました。私たちはどうすることも出来ず、そして忍耐して受けるしかなかったのです。一日三十何人も。そして、私たちはバリクパパンで国家に服務していたのです。そのうち、私はマラリアに罹りました。朝は寒気がし、昼になると反対に熱が高くなってとても苦しく熱かったのです。こういう状態の時でも、兵隊たちを受け入れなければなりませんでした。
 二年ほど経って二十一歳になっていたある日、「ヤマモトさん」という航空隊の隊長に出会いました。彼は私の番号の切符を買って部屋に入って来ると、私に「どうして泣いているのか」と聞きました。日本人の中にも良い方がおられます。このヤマモトさんのことを、私はいつまでも忘れられません。彼は心のとても良い正しい人でした。彼は私に聞きました。「一日何枚切符を出しているのですか」。私は、「おばさんが決めているのです。三十五枚です」と答えました。これを聞いてこの方は私のために心配しました。あまりにかわいそうだと。そして、私に手をさし延べて手助けしてくださったのです。「他のことは出来ないが、切符を一週間二十枚、私が買います」と。彼は二十七、八歳の人でした。彼は一週間に二十枚の切符を買いましたけれども、それはこの人の肉体の喜びのためではありませんでした。私を妹のように思って、私を手助けするため、切符を余計に買ってくださったのです。私はいつも、そこで泣いていました。そして、自殺しようと考えていました。ヤマモトさんは、私に「死んではいけません。勇気をもって生きていなさい」と励ましてくださいました。「勇気をもっていきていなさい。そして、無事に台湾に帰って父母に会いなさい」と言いました。
 そして、まもなく終戦になったのです。ヤマモトさんは、インドネシア政府に捕らえられました。私はヤマモトさんに面会を求めましたけれども、とうとう会えませんでした。その後、私たちは全員その土地を離れました。 

 日本に騙され、父母を偽り続けた苦しみ
 私はこのたび日本に参りましたが、これはほんとうに簡単なことではありません。こういうことに出遭って、いま私が思っていること、希望していることはどんなことか、お話ししたいと思います。
 皆さんもお聞きになって知っておられるかと思いますが、かつての日本政府はこんな状態でした。戦争当時、日本政府は中国政府を見下していました。いま台湾は台湾の政府が治めていますけれども、五十年前には日本に治められていました。日本が台湾を植民地にしていたのです。日本政府は私たち台湾人を、同じ人間としてではなく犬かあるいは猫のように見ていたのでしょう。
 終戦後、台湾で二・ニ八事件が起ったその時、私たちは台湾に帰り着いたのです。家に帰ってまもなく、父母は私に結婚するようにと勧めました。私は父母に対して、私の身に起こったことを話すことが出来ませんでした。私の横腹に、爆弾でやられた傷跡があります。爆弾を受けた時、私は失神してしまいました。目が覚めて、軍医が私に言いました。「あなたの卵巣を切り取ってしまわなければならない。爆弾の破片にやられて、そこはもう腐っているからだ」と。私は軍医に答えました。「どうぞ、良いようにしてください」と。私は台湾に帰った時、結婚を勧める父母に、慰安所に入れられていたことも傷を負ったことも打ち明けることができませんでした。
 私は日本の国に騙されました。そして台湾に帰ってから、今度は私が父母を騙しました。こういうことは、するべきことではありません。いま私は七十三歳になっています。十九歳の時から五十年間以上、私は忍耐してきました。五十年間私はこの苦しみを心の中にとどめていて、言い出すことが出来ませんでした。いま、私の父母はもうこの世にいません。父母は私のこの身体を産んでくださったのに、私は最後まで父母に対して黙っていた、騙していたのです。どうして私は父母を騙さなければならないのか、私は苦しみの中でよく考えました。夜になると、いつも頭の中がいっぱいです。これは、日本の政府が私を騙したその結果によるものだと思います。こういう苦しみは、皆さん、だれが忍耐できるでしょうか。いままで私はこういうことを誰にも話しませんでした。五十年間、このことを黙って心の中に置いていました。勇気をもって忍耐していたのです。
 三十歳を過ぎたとき、私は病気になったのです。そうしたら、父母が私に「あなたは何としても結婚しなければいけない。でなかったら、年を取ったとき誰に頼ることができましょうか」と言いました。そのとき私はじっくり考えました。ほんとうにそうです。病に罹ったとき、誰も私を見舞ってくれる人がいません。だからその時、初めて結婚することにしたのです。そして、中国大陸から来た人と結婚しました。でも夫に対しても、私は一言もこういう苦しみを話せませんでした。いつも苦しみを心の中に置いて生きてきました。十人分の命があっても足りないと思えるほど、忍耐力が必要でした。あのヤマモトさんが私に話してくださったこと、「蟻でさえ生命を尊ぶのに、私たちはどうだろうか。あなたは勇気をもって生きていなさい」と教えてくださった、この言葉を思い出します。そしてこの言葉を支えに、中国大陸の人と結婚したのです。

 日本の国家としてこの問題の解決を
 私が希望していることをお話ししたいと思います。第一に、日本政府がこの問題を解決してくれることを希望します。これは皆さん民衆のことではなくて、日本の国家のことです。私は日本の国家が、国家としてこの間違いを事実として承認すること、そして謝罪し、私のこの肉体と心の損失を補償してくれたらと思います。人民ではなく、国家が間違っていたのです。国家が間違ったときは、国家が出てきて解決しなければなりません。外国のいろいろな国家、アメリカも韓国も、あるいは中国も、どの国もこういうことはしていません。国としてこういう問題を解決しないのは、ほんとうに恥ずかしいことです。
 今日話しましたことは、一言の虚言、嘘はありません。私はほんとうに十九歳のとき、他の十五人の少女たちとともに騙されて連れて行かれ、そして酷い目に遭わされたのです。最後にもう一度言います。私の希望しているのは、日本の政府が表に出てきてこの問題を解決することです。そう願っています。国が、政府がこの問題を解決しない限り、日の丸は掲げることができないでしょう。掲げても、恥ずかしいことでしかありません。皆さん、このことをお考えになってください。今日はどうもありがとうございました。


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