終戦記念日の今日、与野党が談話を発表したことが伝えられました。
与党自民党は
”二度とわが国は戦争への道を歩まないと強く決意する。令和の時代も国民と共に、世界の平和と繁栄にたゆまぬ努力を続け、戦争のない、希望に満ちあふれた「平和国家日本」を次の時代に引き継ぐ”
であり、公明党は
”粘り強い対話によって多国間協調の実績を積み上げていくことが、憲法の恒久平和主義と国際協調主義の精神だ。平和のためにあらゆる分野で行動し、貢献していく”
とのことです。でも、大事なことは、”戦争への道を歩まないと強く決意”して、どう動くのかということではないかと思います。決意はしたけれど、軍事力を増強させたり、対立を深めるような政策をとっていては、その決意は何なのか、ということになります。
また、公明党も”粘り強い対話によって多国間協調の実績を積み上げ…”というのですが、例えば、日韓の徴用工問題や輸出規制の問題関し”粘り強い対話”があったでしょうか。様々な国内問題でも、”粘り強い対話”が圧倒的に不足しているのではないでしょうか。
下記の元日本兵の証言は、「性と侵略 [軍隊慰安所]84か所 元日本兵らの証言」「おしえてください!『慰安婦』情報電話」報告会集編集委員会(社会評論社)から抜粋したのですが、「慰安婦」情報電話の取り組みは、「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む会」京都集会実行委員会が呼びかけ、十一団体が参加して実現したといいます。貴重な取り組みだと思います。電話は132件あり、その内83件の「慰安婦」「慰安所」に関する情報が、「性と侵略 [軍隊慰安所]84か所 元日本兵らの証言」としてまとめられたということです。
その結果、下記のような”問い”が課題として残ったといいます。
”① 証言を寄せた元日本兵の多くが、自分が侵略戦争に直接手をくだした加害者であるとの認識がないのはなぜなのか?
② 彼らが自らの「青春」の一ページとして侵略戦争を語るその感性の「貧しさ」はなになのか?
③ 1991年8月、金学順さんが日本軍に強制連行され「慰安婦」にさせられたとの証言をされて以来、日本のマスコミも連日この問題を取り上げ、彼ら(元日本兵)もその報道を知っているにもかかわらず、「慰安婦」「慰安所」を「思い出」として語るのはなぜなのか?
(④、⑤、略”)
こうした”問い”は、”元日本兵”にかぎらず、戦後日本が問われている問題でもあると思います。
原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)には、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻まれていますが、わたしはずっとひっかかっています。”過ち”とは何なのか? 先の戦争で”過ち”として、日本人に共有されていることはあるのか、と。
ドイツとちがって、戦後の日本は、東京裁判で連合国の裁きを受けただけで、自らは先の戦争に対する総括(反省)をしていないと思います。だから、国会においては、日本の戦争を正当化する発言がくり返されてきました。そして、今や憲法を守るべき政府が、公然と憲法改正の動きを主導しています。”過ち”が共有されていないばかりでなく、今や様々な”過ち”がなかったことにされようとしているのではないかと思います。政府の意向を受けて、教科書から「従軍慰安婦」や「強制連行」という言葉が削除されるということは、そうした流れを象徴しているのではないかと思います。
ドイツは、ナチス時代の負の遺産を頑なに守り、過去の残虐な行為の記憶を風化させないように、様々な努力をしているといいます。先の戦争は、ヒトラー率いるナチス党が意図した戦争であったのに、それに国民全体がうまく乗せられ、協力したことを「恥」として反省をしているというのです。
国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展・その後」に関し、愛知県は14日、「県有施設等にガソリンを散布して着火する」などと書かれた脅迫メールが9日までに770通届いたと発表したことが報道されていますが、それは、戦争に対する、日本とドイツの姿勢のちがいを鮮明にしたのではないかと思います。特に日本には、政権中枢に、先の戦争に於ける加害責任を過小評価したり、なかったことにしたりしようとする姿勢が根強く存在するために、脅迫メールが送りつけられるような騒動に発展してしまうのだと思います。
そういう意味では、戦後補償の考え方が、ドイツと日本で全く異なることも当然なのだろうと思います。
下記のような、日本軍「慰安婦」の問題についての元日本兵の証言には、疑問に思うことも少なからずありますが、それでも、「慰安婦」が奴隷的状態に置かれていたことは、
”(慰安婦の方は慰安所に住んでいたんですか?)そうそう、そう。ひとつ部屋をもらっているわけや。そっから外へ一歩も出られないわけやね。(監禁されて?)そうそう。”
や、また
”(一日にどれくらいの人間が、利用したかっていうのは?)わからんけど、昼間は兵隊でね。夜は下士官や将校が相手なんですわ。そやから寝不足やね。彼女らもね。だからその、一回その、うつらうつら寝てしまった子がおったわね。日本人で。そやから起こすのがかわいそうやなあと思って、寝かしといたんやけどね。そのままね。
(そういう形で慰安所がやられていたんでしたら、一日中客が来ていたと?)それはそうやね。もう一日中やね。”
という部分から察せられます。似たような証言は、数多くあるのです。だから、日本軍「慰安婦」の問題が国際法違反の戦争犯罪であったことは否定できないと思います。
にもかかわらず、日本軍「慰安婦」の問題を、デマに基づく政治的プロパガンダであるとして、中止を要求するような脅迫メールが、愛知県には770通もあったというのです。
それが、政権与党が”戦争への道を歩まないと強く決意”した国の現実であることを、見逃すことができません。
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証言47
場所…No49・中国/漢口
No50・同右/武昌
No48・同右/九江
年代…1941
証言者…77歳/男/京都府
電信ニ連隊から船舶通信隊通信兵
● ─── 漢口・武昌にも朝鮮人の慰安所が
慰安婦の問題で、ちょっと今日新聞で見たもんですから。よろしいか。
(当時所属していた部隊は?)船舶通信隊。広島の電信ニ連隊から教育受けて、船舶通信隊へ派遣された。当時、東京の中野に電信一連帯があって、広島には電信ニ連隊と、ふたつだけが電信隊だった。
あのねえ。ぼくはあの、1941年にね、昭和16年、ハンカオ(漢口)におったんです。その漢口のコウカンロという道にね。揚子江の江に漢口の漢に路ですね。江漢路のセッケイリ(積慶里)ちゅう所があったんですわ。セッケイリちゅうのは、どういう字を書くのか、ぼくはちょっと覚えてないんですけどね。
そこにその、日本と、その朝鮮の遊郭みたいなのがあったんですよ。もうひとつ、離れて、中国人専門のところがあったんですよ。それがセッケイリ(積慶里)ちゅうのか、もうひとつがセッケイリちゅうのか、そういうふうになってたんですわ。
それで、中国人の所は一本の道の右っかわに、四、五軒あって、日本人と朝鮮人の所は十何軒あったか覚えてないんだけども、そのくらいあったんですわ。そういうことがあるんです。
それから、漢口の揚子江の向かい側ににね、武昌という町があるんです。武昌っちゅう町もね、コウカクロウ(黄鶴楼)っちゅう、有名なね。黄の鶴の楼と書くね、有名な建物があるんですわ。そこの近くにね、やっぱり朝鮮の慰安所があったんです。
(遊郭ではなくて、こちらは慰安所ですか?)慰安所です。こうずっと離れて、あったんですけどね。ちょっとくわしい話しましょうか。
ぼくは、船舶通信兵でな。船の通信兵ですわ。御用船なんかの通信をやるわけでね。各停泊所があって、そこの通信をやってたわけですわ。それで、その、昭和16年の1941年の五月に漢口へ行ってね。それから、しばらく漢口におったんですけどね。それから独ソ戦が始まりますわね。
それからしばらくしてね。こんどは、ある日、専門の通信兵じゃない。軍属の通信兵がね、岳州へ。
岳州で、古い昔から岳陽楼ちゅう所がありましてね。行くっていうんでね。赴任するっていうんで、その軍属を送っていったんですよ。あの、それは、武昌から岳州まで鉄道がついてるんです。その武昌へぼくとある 軍属がね。その〇〇さんちゅう人を送っていったんです。その武昌の停留所から岳州まで。で、その帰りにね。その軍属がぼくをかわがってくれててね。中年のおじさんですけどね。機帆船の機関士やってたんですわ。その人がその、黄鶴楼のそこへ、おごってくれたんですわ。連れて行ってくれたわけですよ。
● ─── 朝鮮の女の子の年が十六、七
ところがね、そこにおった朝鮮の女の子っちゅうのが、とっても若くてね。年が十六、七ぐらいかね。みんなじゃないんだけどね。ぼくの所へ来た子がね。そんなんで、全然そういう気がおこらんわけですわ。
もうそれでね、もう、何もしないで帰ろうと思ったらね、そういうことは女の子のほうで困るらしいんだね。ぼくは自分は金出してないんで。軍属の人におごってもらってるんで、金返してくれとか、そんなことは言うつもりはないんだけどね。そういうこと、女の人にとっては困るらしいんだねえ。
あとで怒られるか、なんか。うん。そういうことがあるらしいんですよ。どういう事情で、その、くわしいことは知らんけどね。ぼくらにはわからんけどね。
● ─── 九江にも三軒ほどあったんです。
あちこちにね、そういう朝鮮人の慰安所があったことは事実なんでね。そして、それを否定するなんていうことは、けしからんことやしね。それから、あの、ぼくはまたあっちこっち、この作戦で、じっと漢口にばかりおれなかってね。翌年にね、九江いうところへ行ってね。蘆山のみえる九江ね。揚子江の沿岸にあるわけですよ。漢口から、こっちから、手前になるわけですね。
九江にもね。そういうその、遊郭みたいなひとかたまりじゃないけどね。ぽつんぽつんとね、三軒ほどあったんです。それは中国人の分は全然ありませんでね、朝鮮人だけのがひとつと。日本人ばかりのが、ふたつほど、点々とあったように思う。
(慰安所っていうのは、どのようにして呼ばれていたんですか?)それはね「慰安所」と。「朝鮮ピー」。あの慰安所に働いている人をね、「朝鮮ピー」と。「ピー」っちゅうのはどういう意味かしらんけどねえ。朝鮮の「慰安婦」という意味のことを、いうんやね。そういうふうに。
深い事情はわからないけど、(慰安所が)あったということはね、これはもう、はっきりとね。戦争に行ったもんで知らんもんはない。知らんちゅうのは、全くのうそでね。そんなばかなことはない。
● ─── 戦争負けるの待っていた
ぼく自身はね、反戦運動やってね。戦前に、長い間。日本の人民戦線運動でね。牢獄へ入った人間ですからね。ほんで牢獄へ入ったとたんに召集令状が来たんですわ。牢獄へ入っとるんで、召集令状を免れたわけ。ところが、二回目は、ぼくを釈放してすぐに召集令状をかけてきたわけですわ。
(意図的にですか?)ええ。ノモンハン事件の時にね。ぼくが1939年に、昭和14年の七月に釈放されて牢獄から出て二週間目に、召集令状かけてきてね。そして、三週間目に広島の電信ニ連帯へいったわけです。むこうは計画的にぼくを釈放して召集令状をかけたいうところやね。?
(牢獄へ入れられたというのはいつごろの話ですか?)それはね、昭和12年の事変が始まるね、日華事変、盧溝橋事件が始まる直前の五月の十九日にやられて。80日間入っとってね。それで未決拘留所に八か月入っててね。今でもある、裁判するまでの拘置所。それで二年の懲役で。180日間の未決拘留所が引かれるわけですわ。しやから、一年半入っとったわけです。堺のほうで。実刑判決で、執行猶予なしで。そして、こんど軍隊に入ったからね。だから憲兵の要注意者なんですよ。どこへ行っても憲兵があとからついてくるんだ。
(反戦運動というのは組織的に?)そら組織的に。共産党やらね、みなと連絡とって、やっとったんです。だから、それまでに警察に何回も何回もひっぱられてる。
ぼくはずっと戦争負けるのを待っとったんやからね。あの、だから、なんとか、負けるのを待って生き延びたいとは思っとったから。
だから、九江から。つまり、ガダルカナルで負けとるでしょ。ガダルカナル要員として、日本帰ってくるわけです。宇品にぼくらの部隊の本部があってね。ぼくはガダルカナルへ行かずにね、宇品に残ったんです。宇品で召集解除になって、家へ帰るんだけどね。また敗戦の年、三月二十五日に、召集をくらうわけですよ。三回目の招集やね。それで広島で原爆にあう。
● ─── 一軒に六、七人から十人
(慰安所に女の人はどれくらいいましたか?)さあねえ、一軒に六、七人から十人くらいはおったんちがうかな。それくらいじゃないかと思うけど。
(建物は?)ふつうの建物でね。漢口なんかはね、そういう普通の家でね。それで小さい部屋があって、たたみが敷いてあってね。
(たたみというと日本式の家だったんですか?)日本式のね、つくってある、ふとんもあるわね。
(朝鮮人の「慰安婦」はどのような服装をしていたんですか?)服装はよく覚えんのやけど、ふつうの洋服みたいなのを着ておったんじゃないかと思うけどね。よくわからん。着物着とった者もおったかもわからんしね。
(食事は?)わからん。ええ。
(検診は?)ああ、それはね、ちゃんとやってましたよ。軍が。軍がやるんですよ。病気をね、検査するわけだ。性病の検査を。そしたら、中国人の「慰安婦」がね、検査から帰ってくるわけやね。そして「よし」って言われたら喜ぶわけやね。病気がなかったから。軍医が「よし」っちゅうて帰らしてくれると、ものすごい喜ぶわけ。病気がなかったからっていうことで。だから、軍医がみな調べとった。だから、ほんな 軍医はみな知っとりますよ。
(「よし」と言われなかった人は?)それは、病院に。(軍の病院に?)そうだろうねえ。
● ─── 「性病の兵隊は日本へ帰れない」と
それから、その、広島へ帰ってくるときにね、似島っちゅう島があるんですわ。広島のその港のそばに。港外にね。原爆の被爆者がそこでたくさん死んだっちゅうね。収容されて。
そこは、陸軍の検疫所なんですよ。で、そこへ帰って、必ず中国から帰った日本の兵隊は、そこの病院で検査を受けるわけですよ。で、悪性の性病にかかっていたら、まだもどされるっちゅうてね。(中国にですか?)もう日本に入れないと。つまり、今のエイズみたいなもんや。そういうその、ことを非常に神経質に考えてて、水際で。
だから、「悪性の、その性病にかかったもんは日本へ帰ってもまた似島から送り返される」っちゅううわさが出てたくらいでね。そやからその、非常に兵隊もそういう点では神経質になっとった。性病についてはね。そやけど、そんな制度っちゅうのはなかったけども。ひどい性病なんかにかかると、日本へ帰れないっちゅうような状態やったね。それを検疫するのが似島の検疫所で。
(日本が敗戦して、そのあとでどうなったかというのは、わかりますか?)いや、ぼくはわからん。昭和17年のね、11月に、日本へ帰ってきたからね。
● ─── もう、一日中やね
(慰安婦の方は慰安所に住んでいたんですか?)そうそう、そう。ひとつ部屋をもらっているわけや。そっから外へ一歩も出られないわけやね。(監禁されて?)そうそう。
(慰安所を経営管理していたのは、どういう所なんでしょう?)それがね、ボスがやっとったんかね、軍がやっとったんかね。そういうことはぼくらにはわからんわけやね。
(利用していた人は、一日どれくらいいたでしょうか。よく並んで待っている写真とか……)それはなかったね。(並んでいたわけじゃなくて……?)うん。
漢口でもね、九江でもね、武昌でもね、まあぼくらは見なかったね。それは全然ぼくは見たことない。そういうことをよく聞くけどね。実際にそれを目撃したことはないね。よほどの、戦争のいちばん……。
後方やからね、漢口やとかはね。一応おさまってるところやからね。そういうところではなかったね。
(一日にどれくらいの人間が、利用したかっていうのは?)わからんけど、昼間は兵隊でね。夜は
や下士官や将校が相手なんですわ。そやから寝不足やね。彼女らもね。だからその、一回その、うつらうつら寝てしまった子がおったわね。日本人で。そやから起こすのがかわいそうやなあと思って、寝かしといたんやけどね。そのままね。
(そういう形で慰安所がやられていたんでしたら、一日中客が来ていたと?)それはそうやね。もう一日中やね。
(そのなかでも昼は兵隊が行って、夜に将校が行って……?)そうそう、そう。兵隊の外出時間というのはもうあの、夕食の三十分前と決まっとるからね。それよりもちょっとでもおくれたら営倉へ入らんならんからね。大騒ぎ。もう脱走兵扱いになるからね。だからもう、こわくて、遅れて帰るっちゅうような気にならんわけや。
外出時間はものすごくきびしいからね。まあ、朝十一時ごろから出て、十時か十一時ごろ出てね。おそくとも四時半ぐらいにはもう、帰らなきゃならんからね。もう時間の制限があるもんだからね。
(慰安所を利用する場合は、お金を払って利用していたんですか?)うん。そうやね。(遊郭じゃなくて慰安所の場合も?)うん。みな同じ。
(直接「慰安婦」の方にお金を払って?)そうやね。
(だいたいどれくらいのお金を?)二円くらい。(二円を直接はらって?)そうそう。兵隊の給料ちゅうもんがね、もうほんとに安いもんやからね。
どれくらいやったか覚えてないけど、五、六円やったんやないかなあ(月にですか?)ええ。
だからそんなに南海も行けるわけがないわね。兵隊は。ほんでまた、外出も月に二回ぐらいしかないからね。毎週毎週というわけにはいかんから。交代やから。
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