下記は、「レッド・パージとは何か 日本占領の影」三宅明正(大月書店)から抜萃したものですが、アメリカの他国支配の手口がよくわかると思います。
隈部結核研究所長が、”GHQ公衆衛生福祉局長サムス准将から、共産党員の首を切るか、BCGの製造を停止させられるか、二つに一つを選べ”と言われ、やむなく共産党員を解雇したと証言しているにもかかわらず、アメリカ(GHQ)は、その「脅し」を組合側から追及されると、GHQは関係ないとばかりに、”不服であるなら日本政府の機関に訴願したらよい”などと言い逃れをしたことが書かれています。
私は、アメリカがアメリカの覇権や利益の維持・拡大のために必要と考えられることを、日本の関係機関に要請したり、指示したり、命令したりしておきながら、その責任は、日本の関係機関の指導者や責任者、あるいは日本政府に押しつけるかたちで、日本を支配してきたと思います。そしてそれは、今も続くアメリカの他国支配の手口だと思うのです。
先日、”ウクライナの各地を取材し、戦時下で暮らす人びとの思いを伝えてきた朝日新聞の高野祐介・イスタンブール支局長が、優れた報道で国際理解に貢献したジャーナリストに贈られる「ボーン・上田記念国際記者賞」の受賞者に決まった”との報道がありました。
でも、その高野記者が取材した主な場所20ケ所は、全てがウクライナ軍支配地域で、ウクライナ戦争に発展した武力衝突、すなわち「ドンバス戦争」における親ロ派の支配地域は一つもありませんでした。ウクライナ東部戦線のノボルガンスクからの報道も、ウクライナ政府が主催する内務省の視察に同行する取材で、西側諸国や地元記者30人ほどが参加し、ウクライナ治安部隊が行動をともにしたという、事実上ウクライナ側からのものでした。
私は、ウクライナ戦争の公平な報道は、もはや日本では期待できないような気がしました。
そして、日本が、日本独自の立場を放棄するような状況に陥っているように思いました。
ふり返れば、いわゆるウクライナ戦争の発端となる「マイダン革命」があった2014年、当時の安倍政権は国家公務員法等の一部を改正する法律に関わる「内閣法改正」で、「内閣人事局」を設け、事実上、官僚の人事権を掌握して、官僚を支配下に置く体制を確立しました。
見逃せないのは、安倍政権のそうした姿勢は、官僚支配にとどまらず、あらゆる方面に及ぶものであったことです。その結果、官邸を中心に、政界、主要メディア、学界、財界その他も巻き込んだ大きなネットワークが構築されてきたのだろうと思います。そして、そのネットワークは、いろいろなところでアメリカにつながっているのだろうと思います。
安倍政権による異例の日銀人事や菅政権の学術会議会員任命問題も、そうした流れのあらわれだったのだと思います。
だから、ウクライナ戦争に関わるテレビ放送などでも、ほとんどアメリカの戦略を学んだ学者やアメリカとつながりのある研究者、あるいは防衛研究所のメンバーが、専門家として頻繁に登場し、説明や解説をするようになったように思います。
その結果、日本国民が、停戦・和解や中立の考え方を知る機会がなくなり、そうした動きが広がらなくなってしまったように思います。
でも、アメリカの戦略に基づいて、ロシアや中国を敵視することは、非常に危ういと思います。
アメリカは、自国の覇権や利益を維持するために、ロシアや中国の発展、また、影響力の拡大を受け入れることができない国だと思うからです。”習近平主席は、2027年までに台湾に侵攻する準備を指示した”とのデービットソン米インド太平洋軍司令官やバーンズCIA長官の発言、また、台湾に対するバイデン政権のくり返しての武器の売却が、そのことを示しているように思います。
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Ⅱ パージはどのように遂行されたのか ──初期の事例──
2 結核予防会
広がるパージ
報道機関で始まった1950年のレッド・パージは、約1ヶ月後の8月26日に電話で、28日財団法人結核予防会で実施された。
この間の8月10日、GHQ民政局公職審査課長ネピア少佐は「民間重要産業経営者」に対し、パージを示唆しており、その日は、民同派が掌握する電産執行部が共産派排除のために行った組合員再登録の締切日でもあった(竹前栄治「戦後労働改革」)。
電産は当時、民同派と共産派の対立がきわめて激しい労働組合だった。1949年後半に全国本部では民同派が多数となったものの、地域組織には共産派が強い勢力を保持していた。1950年春、賃上げを要求して共産派の強い職場では電源ストライキに入り、運動方針をめぐって全国本部の民同派との対立は頂点に達した。5月の電産大会は流会という事態となった。7月12日、電産本部は「非常事態収拾に関する特別指令」を発して、組合員再登録により共産派を力で追い出すことを具体化した。共産派は再登録を拒否、8月24日に電産本部は人員整理がなされても未登録者の「反対闘争はしない」ことを決定した。(増山太助『検証 占領期の労働運動』)。
こうした事態をふまえて、電産の各経営者はパージを通告した。総数は2175人に及んだ。ユニオン・ショップ協定に基づき組合除名者を解雇することは、「合法」とされた。予測される抵抗に対しては、大橋法務総裁を陣頭にたてての弾圧体制が築かれていた。(竹前、前掲書)
電産とは異なって、以下でとりあげる結核予防会では組合分裂があったわけではなかった。同会の労働組合は、1947年2月に従業員組合として設立され、以後全日本医療従業員組合協議会の主力の一つであった。予防会本部は東京都千代田区にあったが、従業員が多かったのは、東京郊外の結核研究所と結核療養所、東村山保生園である。組合運動もこれら都下の部署で盛んで、ことに結核研究所は、医師・技手らを中心に「共産党の影響がつよ」かったという(『日本労働年鑑』)。
8月28日午前、同会の理事長名で、突然の呼び出し状が従業員に手渡された。
「 殿
お話ししたいことがありますので左記によりお出で下さい。
記
一、日時 8月28日午後一時
一、場所 本会会議室 (大原社研所蔵資料、特記しない限り以下の資料も同様)
呼び出しを受けて本部へ集まった人々に対し、理事長は「解雇理由並通告書」を読み上げ、退職辞令を手渡した。読み上げられた文書は以下のとおりである。
「今回財団法人結核予防会は職員中の共産党員に退職してもらうことになった。かかる措置を採るに至るまでには予防会内に於ては勿論、関係諸方面とも数回にわたり協議したが、現下日本の諸事情並5月3日憲法発布記念日に於けるマ元帥の声明、6月6日以来数回にわたって元帥が首相宛に送った書簡の精神及び関係方面よりの強き示唆もあり予防会は遂にかかる極めて重大な決意を必要とするとの結論に達したのである。言うまでもなく吾が結核予防会が日本の結核予防事業遂行に占むる地位は極めて重要にして且公共的性質が極めて濃厚なことは社会の均しく認めているところである。若し本会に於ける諸事業特にBCGワクチンの製造或は結核専門医の講習等一連の事業の遂行に支障を来さんが日本の結核予防事業に多大の障害をおよぼし惹いては民衆一般のこうむる損害は極めて甚大なることは言をまたないところである。
上記マ元帥の声明に含まれたる精神並四囲の状況は今回の措置を講ぜざるに於ては結核予防会の存続自体も危殆に瀕する程緊迫した状態となったのである。かくては前述の如く日本の結核予防事業に多大の障害を与えるとの信念のもとに本会はかかる重大決意を行ったのである。
尚解職と同時に施設への立入りを厳禁することも申し添える。但施設内の私物の引き取りに関しては別に日時を通告するから管理者立合のもとに引取っていただきたい。退職金については規約の定めるところに従って即日支払うこととする。住居の立退きに関しては追而(オッテ)協議の上通告する。尚本措置に関する一切の交渉は本会に於てのみ行うことを申し添える」
集められた人々は、これは不当解雇であるとして、その場で辞令を返上した。すると予防会の理事長は、今度はGHQ公衆衛生福祉局長サムス准将の以下の書簡を、閲覧させずにただ読み上げた。
「GHQ/SCAP公衆衛生福祉局 APO500 1950年8月28日
日本結核予防が、その内部を調査し、現在活動している、あるいは潜在的な破壊分子であって、日本国民の健康のため、とくに結核から彼らを保護するために用いられるBCGワクチンの重要な生産を、危険に瀕させつつある者を解職することは、時宜にかなった勇気ある行為である。 サムス」
43人が本部へ集められたのとほぼ同時に、予防会理事長は従業員組合に対して、解雇の実施と、この問題での交渉は本部でのみ行なうとの申し入れを行った。結核予防会は、1939年に国策公益法人として設立され、戦後は厚生省管轄の財団法人となり、主に結核予防のBCGワクチンの研究製造にあたっていた。当時日本でこのワクチンを製造していたのは、同会のみであった。1950年当時の予防会の従業員総数は750人、うち結核研究所は387人を擁し、解雇を通告された43人の中で29人が研究所勤務であった。
9月1日、従業員組合は理事会と団体交渉に入った。解雇理由の明示と解雇撤回を求める労働側に対して、理事側は「今回の解雇は予防会の意志と責任で行った」、「解雇の理由は共産党員であるということだけであって、それ以外に解雇の理由とすべき具体的な事実は何もない」、「被解雇者中非党員がおればその者の解雇は取り消す」と答えるのみでった。
BCG製造室主任らに解雇を通告したため、理事側は8月29日からワクチン製造を停止すると公表した。組合側は「結核ワクチンを守れ」とのスローガンの下に、9月1日に「BCG防衛委員会」を組織し、近隣の工場の労働組合と共同闘争の体制を整えた(全日本金属労働組合機関紙「労働者」1950年9月8日付)。組合側はパージ撤回とワクチン製造再開とを併せて取り組むこととしたのである。しかし解雇通告された者の構内入場は禁じられ、さらに9月4日、結核研究所内に武装警官が配置された。労使間の交渉は暗礁にのりあげた。
総司令部への追及
理事会側が当初サムス准将の示唆による解雇だと述べたため、被解雇者と組合側は10月23日に公衆衛生福祉局へ彼を訪ねた。福祉局では局員のマニトフが応対した。このときのやりとりは次のようであった。
私等がおききしたいのは、(1)(解雇とワクチン製造停止の)命令ないし示唆をおこなったのか、(2)BCG製造の管理権がGHQにあるのか日本にあるのか、(3)首切りが発表されると同時にサムス氏は……書簡を発表されたが、サムス氏が言う破壊分子とはいかなる事実にもとづいて判断されたのか……
マニトフ「GHQは予防会の従業員追放については関与しない。不服であるなら日本政府の機関に訴願したらよい」
代表「しかし予防会の経営者は文書や口答でサムス氏が切れと示唆したと言っているが、どうか」
マニトフ「何時、何処で言ったか」
代表「解雇理由書の中で関係方面よりの強き示唆もありと言っている」
マニトフ「関係方面とGHQとは違う」
代表「隈部結核研究所長は従業員の前でサムス氏より共産党員の首を切るか、BCGの製造を停止させられるか、二つに一つを選べと言われたからやむなく解雇したと言った」
ここでマニトフ氏は1、2分退席して後
マニトフ「この問題についてこれ以上答えられない、帰って欲しい」
会談はこれで打ち切った」
さらに10月25日、組合側は今度は全日本医療従業員組合協議会の名称で、経済科学局労働課にエーミス課長を訪ねた。ちなみに同協議会の書記長は、結核予防会の職員で、解雇の被通告者でもあった。この時の質疑応答は以下のとおりである。
労働側「この首切りを経営者側は非合法であると言っており、被馘首者は破壊的な人々ではないと言っている。その唯一の理由は、共産党員であるという理由である。経営側の説明によると、サムス准将によりそのような示唆があったのだということである」
エーミス「共産党員だというだけで首切りが行われたことはない。サムスがそのようなことをするはずはないし、又そのようなことは私としては聞いてもいない。労働課としてもそのようなことをすることはありえない。それは経営者の口実であろう」
労働側「日本の医療従業員は失業保険によってほとんど保護されていないから、このような非民主的な措置に対して被馘首者たちは非常に苦しい闘争をしている。退職金や解雇手当も甚だ低い。このような事実についてはどう考えるか」
エーミス「今日はもう時間がないから来週中に組合と経営者とに来てもらって事情を聞くことにする」
10月31日労働課で、エーミス課長と、理事会側隈部結核研究所長・藤田総務部長、労働組合側12名の、三者による会議が開かれた。以下はこのときのやりとりである。
エーミス「先週全医協の代表から話があった点について私はサムス准将に聞いてみた。それによればBCGワクチンの生産が一定の基準に達していないこと、合格率が悪いこと等を心配していた。そうしてどうしたらBCGワクチンをより多く結核予防のためにまにあう様にするかを考えている」
労働側「隈部結核研究所長は8月30日結核研究所の従業員多数を集めて、赤追放のやむを得なかった理由として総司令部サムス准氏に呼ばれて『赤追放』をやるか『予防会をつぶすか』どちらを選ぶかと言われたので今回の様な措置をとったと言っている」
隈部「私は8月10日にアメリカから帰ってきた。その日の午後勝俣理事長とともにサムス氏に呼ばれて『BCGの生産が悪い、ついては共産党員がいるからこれを追放してはどうか』と示唆をうけた。私はアメリカから帰って来たばかりなので、少し考えさせてもらいたいといってその日は終わった。そうして8月22日朝9時30分ボースマン氏に呼ばれ、その時も『BCGの生産が非常によくない、このことは勤務状態と関連してよくない』と言われて『赤追放』をしてはどうかと示唆された。8月22日GHQでサムス氏と会い、一時間くらいこのことで討議してみたが結果としてはサムス氏が『もうこれ以上この問題で話すことはない』といわれ最後に『BCGの生産をやっているのは日本では予防会だけだが、BCGの生産を中止するか、共産党員を追放するか、どちらかを選ぶべきである』といわれた」
エーミス「サムス准将のいわれた見解についてはくわしいことは知らないが『能率が悪いものは共産党員とそうでないものとを問わずやめさせるか、他の適当な職場に配置転換をやればよい』、こえは共産党員とは別関係である。結核予防会とそのためのBCGの生産を妨害するものはいかなる『色』を問わずやめさせるか別の職場に移すことが適当である」
隈部「8月22日にサムス氏と会った時、私は今エーミス氏がいったようなことについて話した。又日本には憲法も組合法もあることも話した。併し結論としては前に述べたようになった」
エーミス「私としてはいままでに関してのサムス准将の言った点にはふれないが、生産を妨害するようなものは、労資双方が協力して排除すればよい。共産党員の追放に関しては総司令部も日本政府も命令を出していないし、タッチしていない。赤追放ということばは、いやなことばだ」
労働側「こんど首を切られた共産党員の人には生産を妨害するようなことはなかった。むしろ生産のために常に努力して来た人達である。このことは同じ職場に働いていたので責任をもって言える」
労働側「経営者も生産妨害を理由として首を切っていないし、そのようなことをやったとも言っていない。このような首切りはあらためるべきではないかと思うが、エーミス氏はどう考えるか」
エーミス「私もこんどの赤追放についていろいろなことを聞いているが、私が直接皆さんの職場にいって皆さんの働いている状態をみていないのでなんとも言えないが、問題はBCGをよくすることだ、どうして生産が悪いのか」
隈部「BCGワクチンは非常に特殊なワクチンであり、世界的に見てもこのような規模で仕事をやっているのは日本だけだ、学問的にいっても完成されていないのが理由である。職場規律についてはよくない点もあるが、これは一般的な問題として言えることだ」
エーミス「問題となった点は」
隈部「4月から8月まで私はアメリカに行っていたのでこの間のことは知らないが、私がいた今年4月までは何事もなかった。サムス氏は職場放棄で団体交渉をやった、ビラが所内にいっぱいはってあった、赤旗が所内にたっていた、この外にも職場規律がみだれているといった」
労働側「それはボースマン氏がたまたま闘争中に来たからで、ビラが一番多くはられていたときだ」
エーミス「その旗は赤旗か」
労働側「色は赤だが組合旗であって組合名が入っている」
隈部「研究所は私が常々いっているように、研究を主とすべきであって政治活動などやるべきでないと言っていた」
エーミス「研究所は仕事に専念するところであるから時間外に組合活動をやるべきであると思う」
労働側「そのことは了解した。われわれの組合にはこういう例がある。公金を横領した組合員が懲戒解雇になったが、組合としてはこれを了解した。又こんど首を切られて初めて共産党員とわかった人もいる。そういう人々は真面目に働いているし、ほかに欠点のない人もふくまれている」
エーミス「真面目に働いているのにどうしてよい製品が出来ないか」
労働側「学問的に完成していない、生産工程が特殊である、首切り前と後との生産量を比較してみればわかるように、共産党員が破壊的でないことがわかると思う」
エーミス「11時15分に用事があるので、あらためてもう一度私が調査して又あうことにしたい」
右のやりとりの中にある、ボースマンが来所した際の「闘争中」云々とは、労働協約をめぐる労使間の、1950年初夏以来の対立を指している。結核予防会における労働協約は1947年4月に締結され、半年ごとに自動延長されていたが、理事会側は1950年5月に新協約の締結を申し入れ、対立が発生していた。同じやりとりの中にある、就業時間と組合活動の関係ということが、労働協約をめぐる争点の一つであった。すなわち旧来の労働協約第四条には「組合員は就業時間中でも職場責任者の了解を得て、組合の活動をする事が出来る」という条項があったのである。また、同じく労働協約の第六条には「従業員の採用又は解職について乙(従業員組合)より意向あるときはこれを考慮する」とあり、これを受けて1949年5月に労使間で「覚書」が締結され、そこでは「職員を解雇するときは従業員組合と協議する、但し協議が整わない時は、経営、組合共にその権利を留保する」ことが決められていたのである。
解雇に関する同意約款と就業時間中の労働組合活動、これがレッド・パージに先立つ労使間の対立の争点をなしていた。
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