日露間の国境線は、さかのぼると1855年(安政元年)「日本国魯西亜国通好条約」(註:魯西亜国はロシアコク)によって、はじめて設定された。その第2条に、「今より後日本国と魯西亜国との境「エトロプ」島「ウルップ」島の間に在るへし「エトロプ」全島は日本に属し「ウルップ」全島夫より北の方「クリル」諸島は魯西亜に属す「カラフト」島に至りては日本国と魯西亜国との間に於て界を分たす是迄仕来の通たるへし」とある。日本が北方領土の4島返還を求める根拠になるものである。樺太は「界を分かたす」、両国民混在の地としたのである。
その後、明治時代に入って1875年両国は、「樺太千島交換条約」を締結する。その前書きに『全日本国皇帝陛下ト全魯西亜国皇帝陛下ハ今般樺太島(即薩哈嗹島)是迄両国雑領ノ地タルニ由リテ屡次其ノ間ニ起レル紛議ノ根ヲ断チ現下両国間ニ存スル交誼ヲ堅牢ナラシマンカ為メ大日本国皇帝陛下ハ樺太島(即薩哈嗹島)上ニ存スル領地ノ権理 全魯西亜国皇帝陛下ハ「クリル」群島上ニスル領地ノ権理ヲ互ニ相交換スルノ約ヲ結ハント欲シ…』とある。この樺太千島交換条約によって、混在の地で紛議の絶えない樺太はロシア領土に、全千島列島は日本の領土にしたのである。これによって、混在の地がなくなり日露間の境界線は明確になった。
ところが、1905年ポーツマス条約(日露講和条約)によって、日露戦争に勝利した日本が、南樺太を獲得する。全千島列島と南樺太が日本の領土となったのである。
さらに1945年、第2次世界大戦終戦前後に、再びその国境線が変化する。きっかけは、下記に抜粋した「ヤルタ協定」である。この「ヤルタ協定」が、現在に続く日本の「北方領土問題」の発端なのである。したがって、北方領土問題の解決について考えるとき、この「ヤルタ協定」の理解が不可欠であると思う。
大戦末期の1945年2月、ソ連のクリミヤ半島ヤルタでルーズベルト、チャーチル、スターリンの米英ソ三国首脳による会談があった。いわゆる「ヤルタ会談」である。この会談は、第2次世界大戦後の世界情勢を決定づける極めて重要な会談であったが、ヤルタ会談後半に、ルーズベルトとスターリンが極秘の会談を行い、ソ連の対日参戦を求めるルーズベルトが、スターリンの求める下記ヤルタ協定に合意したのである(イギリスは対日問題に口出しする立場にないとして、米ソの決定事項をただ承認してサインしたに過ぎかったという)。このルーズベルトの千島引き渡しの約束は、第2次世界大戦の犠牲を最小限におさえ、迅速に勝利を勝ち取るため、ソ連に日ソ中立条約を破棄させ、対日戦に参戦させることを目的とした見返りである。
この時、歴史的経緯を重視する立場から、ヤルタ協定の合意に再考を促したハリマン大使に対し、ルーズベルト大統領は「ロシアが対日戦の助っ人になってくれるという大きな利益に比べれば、千島は小さな問題である」と言って、その進言を退けたという。対日戦で大きな犠牲を強いられてきたアメリカ大統領の大局的見地からの決断だったといえる。ところが、その後米ソ冷戦の激化とともに、アメリカの姿勢が変化していくのである。「ソ連は最初北方四島は諦めていた 知られざる北方領土秘史 四島返還の鍵はアメリカにあり」戸丸廣安(第一企画出版)よりの抜粋である。
(註:露西亜・魯西亜・ロシアなどの表記はそのままにした)
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歴史を浮き彫りにする資料集
ヤルタ協定
1945年2月の「ヤルタ」会議に於いて作成
1946年2月11日 米国 国務省より発表
三大国即ち「ソヴィエト」連邦、「アメリカ」合衆国及英国の指導者は「ドイツ」国が降伏し且「ヨーロッパ」に於ける戦争が終結したる後二月又は三月を経て「ソヴィエト」連邦が左の条件に依り連合国に与して日本に対する戦争に参加するべきことを協定せり
1、外蒙古(蒙古人民共和国)の現状は維持せらるべし
2、1904年の日本国の背信的攻撃に依り侵害せられたる「ロシア」国の旧権利は
左の如く回復せられるべし
イ、樺太の南部及之に隣接する一切の島嶼は「ソヴィエト」連邦に返還せらるべ
し
ロ、大連商港に於ける「ソヴィエト」連邦の優先的利益は之を擁護し該港は国際
化せらるべく又「ソヴィエト」社会主義共和国連邦の海軍基地としての旅順口
の租借権は回復せらるべし
ハ、中東鉄道及大連に出口を供与する南満州鉄道は中ソ合併会社の設立によ
り共同運営せらるべし但し「ソヴィエト」連邦の優先的利益は擁護せられ又中
華民国は満州に於ける完全なる主権を保有するものとす
3、千島列島は「ソヴィエト」連邦に引渡さるべし
前記の外蒙古並に港湾及鉄道に関する協定は蒋介石元帥の同意を要するも
のとす 大統領は「スターリン」元帥よりの通知に依り 右同意を得る為措置を
執るものとす三大国の首班は「ソヴィエト」連邦の右要求が日本国の敗北した
る後に於て確実に満足せしめらるべきことに意見一致せり
「ソヴィエト」連邦は中華民国の覇絆より解放する目的を以て自己の軍隊に
依り之に援助を与ふる為「ソヴィエト」社会主義共和国連邦中華民国間友好同
盟を中華民国国民政府と締結する用意あることを表明す
1945年2月11日
イヴェ・スターリン
フランクリン・ディ・ローズヴェルト ウインストン・エス・チャーチル
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。
その後、明治時代に入って1875年両国は、「樺太千島交換条約」を締結する。その前書きに『全日本国皇帝陛下ト全魯西亜国皇帝陛下ハ今般樺太島(即薩哈嗹島)是迄両国雑領ノ地タルニ由リテ屡次其ノ間ニ起レル紛議ノ根ヲ断チ現下両国間ニ存スル交誼ヲ堅牢ナラシマンカ為メ大日本国皇帝陛下ハ樺太島(即薩哈嗹島)上ニ存スル領地ノ権理 全魯西亜国皇帝陛下ハ「クリル」群島上ニスル領地ノ権理ヲ互ニ相交換スルノ約ヲ結ハント欲シ…』とある。この樺太千島交換条約によって、混在の地で紛議の絶えない樺太はロシア領土に、全千島列島は日本の領土にしたのである。これによって、混在の地がなくなり日露間の境界線は明確になった。
ところが、1905年ポーツマス条約(日露講和条約)によって、日露戦争に勝利した日本が、南樺太を獲得する。全千島列島と南樺太が日本の領土となったのである。
さらに1945年、第2次世界大戦終戦前後に、再びその国境線が変化する。きっかけは、下記に抜粋した「ヤルタ協定」である。この「ヤルタ協定」が、現在に続く日本の「北方領土問題」の発端なのである。したがって、北方領土問題の解決について考えるとき、この「ヤルタ協定」の理解が不可欠であると思う。
大戦末期の1945年2月、ソ連のクリミヤ半島ヤルタでルーズベルト、チャーチル、スターリンの米英ソ三国首脳による会談があった。いわゆる「ヤルタ会談」である。この会談は、第2次世界大戦後の世界情勢を決定づける極めて重要な会談であったが、ヤルタ会談後半に、ルーズベルトとスターリンが極秘の会談を行い、ソ連の対日参戦を求めるルーズベルトが、スターリンの求める下記ヤルタ協定に合意したのである(イギリスは対日問題に口出しする立場にないとして、米ソの決定事項をただ承認してサインしたに過ぎかったという)。このルーズベルトの千島引き渡しの約束は、第2次世界大戦の犠牲を最小限におさえ、迅速に勝利を勝ち取るため、ソ連に日ソ中立条約を破棄させ、対日戦に参戦させることを目的とした見返りである。
この時、歴史的経緯を重視する立場から、ヤルタ協定の合意に再考を促したハリマン大使に対し、ルーズベルト大統領は「ロシアが対日戦の助っ人になってくれるという大きな利益に比べれば、千島は小さな問題である」と言って、その進言を退けたという。対日戦で大きな犠牲を強いられてきたアメリカ大統領の大局的見地からの決断だったといえる。ところが、その後米ソ冷戦の激化とともに、アメリカの姿勢が変化していくのである。「ソ連は最初北方四島は諦めていた 知られざる北方領土秘史 四島返還の鍵はアメリカにあり」戸丸廣安(第一企画出版)よりの抜粋である。
(註:露西亜・魯西亜・ロシアなどの表記はそのままにした)
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歴史を浮き彫りにする資料集
ヤルタ協定
1945年2月の「ヤルタ」会議に於いて作成
1946年2月11日 米国 国務省より発表
三大国即ち「ソヴィエト」連邦、「アメリカ」合衆国及英国の指導者は「ドイツ」国が降伏し且「ヨーロッパ」に於ける戦争が終結したる後二月又は三月を経て「ソヴィエト」連邦が左の条件に依り連合国に与して日本に対する戦争に参加するべきことを協定せり
1、外蒙古(蒙古人民共和国)の現状は維持せらるべし
2、1904年の日本国の背信的攻撃に依り侵害せられたる「ロシア」国の旧権利は
左の如く回復せられるべし
イ、樺太の南部及之に隣接する一切の島嶼は「ソヴィエト」連邦に返還せらるべ
し
ロ、大連商港に於ける「ソヴィエト」連邦の優先的利益は之を擁護し該港は国際
化せらるべく又「ソヴィエト」社会主義共和国連邦の海軍基地としての旅順口
の租借権は回復せらるべし
ハ、中東鉄道及大連に出口を供与する南満州鉄道は中ソ合併会社の設立によ
り共同運営せらるべし但し「ソヴィエト」連邦の優先的利益は擁護せられ又中
華民国は満州に於ける完全なる主権を保有するものとす
3、千島列島は「ソヴィエト」連邦に引渡さるべし
前記の外蒙古並に港湾及鉄道に関する協定は蒋介石元帥の同意を要するも
のとす 大統領は「スターリン」元帥よりの通知に依り 右同意を得る為措置を
執るものとす三大国の首班は「ソヴィエト」連邦の右要求が日本国の敗北した
る後に於て確実に満足せしめらるべきことに意見一致せり
「ソヴィエト」連邦は中華民国の覇絆より解放する目的を以て自己の軍隊に
依り之に援助を与ふる為「ソヴィエト」社会主義共和国連邦中華民国間友好同
盟を中華民国国民政府と締結する用意あることを表明す
1945年2月11日
イヴェ・スターリン
フランクリン・ディ・ローズヴェルト ウインストン・エス・チャーチル
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。
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