アメリカがベトナム戦争で、意図的に民間施設を目標として爆撃し、違法な大量殺人兵器(CBU)やナパーム弾で数え切れない民間人を殺害した事実は、ラッセル法廷の調査団はもちろん、多くの報道関係者が現地に入り確認しています。
下記は、「ラッセル法廷─ベトナム戦争における戦争犯罪の記録─」ベトナムにおける戦争犯罪調査委員会編(人文選書8)から抜萃したものですが、民間目標に投下された爆弾やその破片の確認、また、大量殺人兵器(CBU)によって負傷した人々のその後の様子や、聞き取り調査、さらには、そうした事実を裏づける米軍捕虜の証言などが記されています。
でも、アメリカのアイゼンハワー元大統領は”アメリカの北ベトナム作戦の対象は軍事目標だけにかぎられている”と述べ、ジョンソン大統領も”軍事目標だけを爆撃することが現政府の政策である”と言明しているのです。アメリカの大統領が、自国の覇権や利益のために嘘をついたことは明らかだと思いまます。そしてそうした嘘が、その後もくり返されていると思うのです。
日本政府はもちろん、主要メディアも、ウクライナ戦争に関するアメリカやウクライナからの情報を、何の検証もせず報道し、日本の記者が自らウクライナに入り報道する場合も、アメリカおよびウクライナ側の主張を正当化するような報道ばかりしているように思います。親ロ派の人びとが暮らすウクライナ東部の取材に基づく報道ななどに触れたことはほとんどありません。
それは、戦前、大本営発表を、何の検証もせず国民に伝えた続けた過去の過ちのくり返しだと思います。「大本営発表」が「アメリカ(ウクライナ)発表」に取って代わっただけだと思います。公平な報道が、野蛮な戦争を終結させるために求められていると思うのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
民間人爆撃とアメリカ軍捕虜 ジョオン・B・ニーランズ
裁判長、法廷議長、ならびに法廷にご出席の皆さん、私の名前はJ・B・ニーランズ、本籍地はカリフォルニア州バークレイ、ヒル・ロード185番地で、職業はカリフォルニア大学の生化学教授です。1967年3月10日、私は当法廷の第三次調査団の一員としてハノイに入りました。調査団員は、私のほか、レリオ・パッソー(団長)、アクセル・フイエル、ヒュー・メインズおよびジョン・タックマンでありました。この報告書は、ベトナム民主共和国における重要な調査結果を記録するもので、とくに二つの問題、つまり対人兵器を用いた計画的な民間人に対する爆撃、およびベトナム民主共和国におけるアメリカ人捕虜の待遇について記録するものです。
対人爆撃について
過去数カ月間にベトナム民主共和国を訪れた西側諸国の訪問客は一人のこらず、アメリカ空軍がこの国でさまざまの対人兵器を使用していることについて報告しています。この問題がとくに人びとの関心をよんでいるのは、アメリカ政府要人が北ベトナムの民間人爆撃をくりかえし否認しているからです。
すでに1966年6月1日、ワシントン『デイリー・ニューズ』紙は報道しました。 「信頼すべき筋によれば、アメリカ空軍機が投下する爆弾のなかには強力な対人兵器がふくまれている。対人兵器は従来から北ベトナムにたいして使用されていたが、今日まで明らかにされていなかった。この爆弾からは数千個の小さな鉄の球がとびだす。これらは共産側が操作する高射砲やミサイル発射場を攻撃する目的で設計されたものである」。同じような記事は1966年6月2日付『フィラデルフィア・インクワイアラー』紙および1966年12月29日付『ワシントン・ポスト』紙にも出ています。1966年6月28日付『ニューヨーク・タイムズ』紙は次のように述べています。
「ベトコン、アメリカの新兵器に直面──大音響とともに山をも崩す爆弾の雨。その音は人びとを驚かせ、仰天させる。……これは『クラスター・ボム・ユニット(爆弾の房)』で、軍隊ではCBUという略語で呼ばれる……アメリカ国防省とホワイト・ハウスは、CBUや、新しい良質のナパームなどいわゆる新型兵器を恥じているように思われる。……クラスター・ボム・ユニットは800個以上の小弾を内包する金属製容器で、先端部分はオレンジ色でずんぐりしており、銀色の折りたたみ式尾翼がついている。……現在では、小弾からナパームと致命傷を与える鉄の球とをまき散らす、もっと性能の良い新型CBUも開発されている。……CBUは、現在までに戦場で使用された通常兵器のなかで、最も強烈なもののひとつである」。
ジョンソン大統領は、アメリカの爆撃対象は「鉄とコンクリート」であると終始言明しております。たとえば、1966年12月28日付『ニューヨーク・タイムズ』紙はこう報道しました。「アイゼンハワー元大統領は今日、アメリカの北ベトナム作戦の対象は軍事目標だけにかぎられていると述べた」。数日後(12月31日)の記者会見で、ジョンソン大統領は「……軍事目標だけを爆撃することが現政府の政策である」と言明しました。さらに1967年1月2日付『ニューヨーク・タイムズ』紙は、「……アメリカが計画的に民間目標を爆撃しているという共産側の宣伝を裏づける一片の証拠もない」と述べています。
ジョンソン大統領は1967年3月15日、テネシー州議会で演説しましたが、『ニューヨークタイムズ』紙は、その内容を次のように報じています。「さて、民間人の爆撃については、われわれは現在、戦史上に前例のない努力を払っており、そのような事実はけっしてない。われわれは、民間人を殺傷する目的で都市を爆撃したり、目標を攻撃したりしたことはない」。
いっぽう、1967年4月11日付『サンフランシスコ・クロニクル』紙に掲載されたホンコン電によれば、ベトナム民主共和国から帰国途上のクエーカー教徒たちが、アメリカは特別に設計された爆弾で民間人を殺傷していると非難しています。サイゴン駐在の軍司令部はただちにこれに答え、「そうだ。われわれは北ベトナムでCBUを使尉している」と述べております。ところが『イブニング・サン』紙の記事はさらにつづけて、CBU爆弾は「庇護壁の薄い」軍事目標だけに使用されていると書いているのです。同じような記事は、「アメリカ、霰弾の使用認む」という見出しで4月11日付『サンフランシスコ・クロニクル』紙にも掲載されました。『クロニクル』の紙のコラムニストであるロイス・グライアーはこう述べています。「こうして大嘘は崩れ去った。ペンタゴンは遂に、過去1年以上、その種の兵器を使用してきたという事実を認める『スポークスマン』をひっぱりださねばならなかったのだ。それらは高射砲と砲手、軍用輸送船・車輛などに対して使われる、とスポークスマンは述べた。こう白状しておきながら、彼はそれをわすれてもらいたいのだ。あなた方はそれを忘れますか? 彼を信じますか? どうですか? 4月14日」。
ヴェト・チ地区で調査結果
1967年3月15日、私は第三次調査団の他の団員とともに、ハノイの北西50から100キロのヴェト・チ地区を訪れました。われわれはそこで、CBU爆弾による爆撃を受けた数カ所の部落を視察したのです。CBU爆弾の容器から落下した野球のボール大の弾丸が道路に穴をあけていましたが、その深さはわずか6インチでした。小球も、1インチとは木材にめりこんでいないように思われました。小球の痕跡をもっともよく残しているのは、レンガ造りの壁や、明らかにCBU爆弾の目標と見られる人体なのであります。われわれは野戦病院を訪れ、X線や診察記録を見、患者に会いました。彼らはみな、鉄の小球の犠牲者だったのです。次に数人の患者の症状を簡単に説明したいと思います。
17歳の少年、1966年1月18日の爆撃の犠牲者、腕、尻、胃、腸が鉄球で蜂の巣のようになった。14歳の少女、1966年8月14日の爆撃の犠牲者、胸、腸、上腕、指、唇に鉄球が埋まっている。額の皮膚の下にもまだ鉄球がのこっている。
35歳の農夫、1967年1月18日の爆撃の犠牲者、左の頭蓋骨に鉄球が埋まっている。患者の体は右半分が麻痺している。
この農夫の5歳になる息子、同じ爆撃でやられ、鉄球が脳に2センチ入りこんだ(手術による除去。彼は手と右足も鉄球でやられた。
21歳の婦人、1967年1月18日の爆撃の犠牲者、左の目をやられて失明した。胴体もやられた。
5人の子をもつ34歳の母親、いちばん重症である。彼女は1966年8月11日の爆撃でたった一つの鉄球にやられた。鉄球は額から入り、脳の底部に埋まっているため、手術をしても取り除くことができなかった。患者はほとんど全身麻痺状態にある。彼女は飲みこむことはできるが、固形物を食べることができない。そのため、息子が毎日口まで運ぶスープによってかろうじて生きている状態である。
7歳の女児、1967年3月12日の爆弾の犠牲者、胸の下にまだ生々しい鉄球の傷がある。球は背骨のちかくに埋まっている。左足にも鉄球が入りこんでいる。
われわれがヴェト・チ地区で視察した部落のほとんどは、米田と農地にかこまれており、軍事目標らしいものはただの一つも発見できませんでした。われわれはどの村でもCBU爆弾が使われた証拠を見、何度も空の容器を調べ、これを写真にとることができました。容器はオリーブのような淡褐色に塗られ、黄色い塗料で字が書かれてありました。数字には多少のちがいがありますが、それはたとえば次のような具合です。
サイクロトル 125ポンド
装填日 11-66
組番号 PA─20─19─シリーズ番号15
CBU容器には、ほかにも次のような記述がみられました。
FSN1325─N─(この次に判読しがたい数字がつづく)
散布容器および爆弾 CBU
これらの引用はほんのわずかな例にすぎません。たとえば別の容器では、サイクロトルの重さは139ポンド、装填日は7─66となっております。
容器一個当たりの、小弾の数については、200から800までさまざまのくいちがう報告がなされています。しかし、兵器専門家は640という数字を出しています。ベトナム人はCBU爆弾を「親爆弾」と呼び、内包された小弾はときに「グァヴァ」と呼んでいます。この小弾の壁には鉄の小球が埋めこまれていますが、われわれの調査によると、その数は1小弾あたり265です。小球の直径は5.56ミリとなっています。
ハノイの兵器展示会で、われわれは「パイナップル」とよばれる第二の対人爆弾を見ました。これもやはり鉄製の小球弾で、この場合の射出物は直径6.33ミリありました。「パイナップル」は19個の筒からなる散布容器から発射さあれますが、筒にはそれぞれ約20個ずつの「パイナップル」型小弾が充填されています。
われわれは「グァヴァ」および「パイナップル」型爆弾の見本をもらいました。これらの専門的写真を法廷の記録として提出したいと考えます。
捕虜は洗脳されるか
捕虜となったアメリカ軍飛行士を戦争犯罪人として裁判にかけてはどうかという案が先ごろ流れたさい、アメリカの新聞はヒステリーにちかい反応をみせました。リチャード・A・ストラットン海軍少佐がハノイの記者会見に出席したときの模様を伝えた1967年4月7日の『ライフ』誌は次のように述べています。
「ちょうど操り人形のように、捕虜は表情もかえずに聴衆に深々とお辞儀をした。ついで彼は気をつけの姿勢となり、四分の一だけ左をむき、そしてまたゆっくり深々とお辞儀をした。こうして4、5回もお辞儀がつづいた。士官が別の命令を大声でだして叫ぶと、同じ儀式がふたたびはじまった。──捕虜は無表情に四方八方へお辞儀をしたのである」。
『ライフ』誌はまたハリマン無任所大使の発言として次のように書いています。「……北ベトナム当局はアメリカ軍捕虜にたいして精神的ないし肉体的圧力をかけているようである。朝鮮戦争中の『洗脳』といういまわしい記録はわれわれの記憶に新しい。もし、北ベトナムが捕虜にたいして同様な手段をとっているとすれば、きわめて重大なことだといわざるをえない」。
アメリカの新聞は依然として「洗脳」の亡霊にとりつかれ、頭がいっぱいです。1967年4月、『ニューヨーク・タイムズ』は私の会見した捕虜の一人が奇妙なお辞儀をしたと誤って報道しています。
飛行士との会見
1967年3月16日夜、モーリス・コーニル、JーM・クリヴィンと私の3人はハノイ市内のある邸宅へつれて行かれました。私たちはそこでアメリカ軍飛行士の捕虜2人と別々に会見しました。会見の部屋は大きく、ゆったりとした椅子と低いテーブルが備えてあり、テーブルにはベトナム風の茶碗や菓子、それにバナナなどがならべてありました。くつろいだ、少しも格式ばったところのない雰囲気でした。ハ・ヴォンラオ大佐、通訳1人、それに、ベトナム人の士官がひとりふたり同席しましたが、会見でする質問の性質、範囲などについてはなんらの指図をうけませんでした。捕虜がそれぞれ室内に連れてこられるまえに、その姓名や階級、登録番号と捕虜となった日時などを教えてもらいました。
最初に会見した飛行士は姓名を公表してほしくない、北ベトナムの収容所からアメリカの刑務所に行くことになりたくないから、と語りました。彼はかつてダナンに配属されており、主として南ベトナムでのナパーム攻撃を任務としていたようです。ダナン基地では樹木の葉を落とす薬剤を投下できる装置をそなえたCー132型機が3機編隊で出撃してゆくのを再三目撃した、と彼は語っています。また捕虜になって以後、自分がうけた人道的とりあつかいに驚いていました。彼は毎日衣類を洗濯し、風呂に入ることができます。新聞や本、雑誌も、限度はありますが提供されております。クリスマスには、キリスト誕生の情景をかざりつけた祭壇でお祈りすることができたし、ビールとピーナッツつきのご馳走をもらっています。
この飛行士はベトナムにたいするアメリカの介入に批判的になっていました。収容所内の図書館で手に入る資料のいくらかを読んで彼の態度は変わったのです。彼は客観的情報の源としてフェリック・グリーン著『ベトナム・ベトナム』の名をあげました。彼はまたアメリカ空軍では新聞といえば『スターズ・アンド・ストライブス』(星条旗)紙しかあてがわれていない、と不平をならしていました。
第二の捕虜は姓名を明らかにすることに反対しませんでした。彼の名はジャック・ウィリアムソン・ボマー。1926年6月10日生まれです。登録番号FV2251452のこの飛行士は、タイのタクリ航空基地に配属されていた隊から、飛んでいました。1967年2月4日、高度3000フィートで飛行中、彼の飛行機はミサイルにやられました。ボマー少佐は稲田に降りましたが、すぐ一団の農民にとりかこまれました。彼らは少佐の靴をきりとりにかかりました。というのは彼は左足首をひどく痛めており、左ももに金属片が一つささっており、右手小指の爪の下に軽い傷をおっていたのです。彼はずぶぬれで、冷えており、またおびえていました。すぐさま彼は部落にはこばれ、医者がよばれました。彼は毛布にくるまって火であたたまりました。彼を捕らえた人びとは彼に卵ニ個、ご飯、その他の食物を与えたそうです。そして翌日、彼は収容所へ連行され、そこで足のX線撮影をしてもらい、足にそえ木をあてがってもらっただけでなく、傷の手当てもうけ、抗生物質の処方をうけ、歯ブラシと新しい衣類を支給されたのです。私たちが会ったとき、彼は私たちに、自分が人道的な扱いをうけていることをアメリカ人に知らせてほしい、と述べていました。
ボマー少佐がベトナム戦争の持つ政治的意味のすべてを理解しているとは言いませんが、現在のアメリカの政策については強い疑惑を表明していました。彼によりますと、アメリカ軍飛行士の多くの態度は「100回出撃して国に帰ろう」ということで、政治は概して話題になっていなかったといいます。少佐が自分の家庭と家族について懐かしそうに語り、妻のことにふれたさい、彼は「これまでの生活で一度も彼女は政治のことを考えたことはなかった」と語ったものです。彼は『ベトナム・ベトナム』やウィルフレット・バーチェットの著書をよむ機会を新たにえたことに感謝していました。
いずれも少なくとも1時間はつづいた両飛行士との会見で、二人はいずれも北ベトナム側が「洗脳」を試みたことはないと述べ、人道的な処遇をうけている点を強調しました。彼らはいずれも健康そうで、心理的にも安定していたようです。アメリカとアメリカ軍での生活では、必要不可欠な政治教育と政治知識が奪われている、と彼らは感じとっているようでした。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます