今回の学術会議任命拒否問題と関連し、私は、滝川事件とともに、美濃部達吉の天皇機関説問題がどういう問題で、どういう経過をたどったのかをふり返ることも大事だと思いました。「昭和史の瞬間 上巻」朝日ジャーナル編(朝日選書11)に「国体明徴の名のもとに─ 天皇機関説 ─ 」と題した文を寄せている今井清一歴史学教授は、”天皇機関説問題は民主主義、自由主義の息の根をとめ、思想統制を仕上げる役割を果たしたのである”と書いていますが、重大な指摘だと思います。
1935年(昭和10年)2月の貴族院本会議で、菊池武夫議員が、天皇機関説は国家に対する緩慢なる謀叛であり、美濃部を学匪と非難したことを受けて、政府は美濃部達吉の著書『逐条憲法精義 』『憲法撮要』『日本憲法の基本主義』の 三冊を発売禁止処分にするとともに、4月には、各地方長官、帝国大学総長、直轄諸学校長、公私立大学、 専門学校長、高等学校長等に対して、下記のような訓令(文部省訓令第四号)を発し、国体明徴の徹底を求めました。
”方今内外ノ情勢ヲ稽(カンガ)フルニ刻下ノ急務ハ建国ノ大義二基キ日木精神ヲ作興シ国民的教養ノ完成ヲ期シ由テ以テ国本ヲ不抜二培フニ在リ我ガ尊厳ナル国体ノ本義ヲ明徴ニシ之二基キテ教育ノ刷新ト振作トヲ図リ以テ民心ノ嚮(ムカ)フ所ヲ明カニスルハ文教二於テ喫緊ノ要務トスル所ナリ。此ノ非常ノ時局二際シ教育及ビ学術二関与スル者ハ真二其ノ責任ノ重且大ナルヲ自覚シ叙上ノ趣旨ヲ体シ苟クモ国体ノ本義二疑惑ヲ生ゼシムルガ如キ言説ハ厳二之ヲ戒メ常二其ノ精華ノ発揚ヲ念トシ之二由テ自己ノ研鑚二努メ子弟ノ教養二励ミ以テ其ノ任務ヲ達成セムコトヲ期ス”
「国体明徴運動と教育政策」(日本大学 小野雅章)より
でも、天皇機関説を問題視する政治家、軍人、右翼団体の追及は続き、軍部は、下記のような要望を出しすに至ります。
”天皇機関説処理ニ関スル要望(昭和十、五、二一)陸軍省
天皇機関説ノ処理ニ付政府トシテハ引続キ速ニ必要ナル措置ヲ講シ国体ニ関スル疑惑ヲ一掃シ之ヲ永遠ニ明徴ナラシムル手段ヲ執ルヲ要ス
一、憲法ノ研究ニ関スル政府ノ監督ヲ強化スルト共ニ中正ナル学説ノ完成ヲ積極的ニ指導援助ス
二、前項ノ趣旨ニ合スル如ク左ノ処置ヲナス
(一)大学教職員国家試験委員等ノ人事ヲ刷新ス
(二)憲法ニ関スル教科書、教材等ノ内容ヲ再検討シ単ニ字句ノ修正ニ止マラス其ノ精神乃至論旨ヲ補正セシム
(三)国体ニ関スル言説中苟モ法規ニ触ルルモノハ之ヲ重キニ従ヒテ処断スル方針ヲ採リ要スレハ現行刑法、出版法、新聞紙法等取締ニ関スル諸法規ヲ改正ス
三、国体明徴ヲ一般ニ徹底セシムル為
(一)最高学府等ニ国体講座ヲ設クル等ノ方法ニ依り国体ニ関スル教育ノ徹底ヲハカル
(二)教科書調査会ノ権限ヲ拡充シテ広ク教科書ノ内容ヲ整理ス
四、美濃部氏ノ公職辞任ヲ更ニ慫慂ス
五、美濃部氏ニ対スル司法審理ノ遅延ハ一般ノ疑惑ヲ招来スルノ虞アルニ付適当ニ之ヲ促進ス”
(国立国会図書館デジタルコレクションより)
だから、政府は8月に「国体明徴に関する政府声明」を発するのですが、美濃部達吉が自らの辞職について、
”くれぐれも申し上げますがそれは私の学説を翻すとか自分の著書の間違つてゐる事を認めるとかいふ問題ではなく、唯貴族院の今日の空気において私が議員としての職分を尽すことが甚だ困難となっ た事を深く感じたがために他なりません”
というような発言をしたこともあって、政府は、再び「国体明徴声明」を発する事態に直面します。
そして日本は、二度にわたる「国体明徴声明」によって、国際社会に通用する「法学」や「歴史学」のような学問の存在しない、明治維新当時の記紀神話を史実とする尊王思想の国家に戻ってしまったのだと思います。
当時、津田左右吉が、『記・紀』の神代の物語には、天皇の地位の正当性を説明するため、多くの作為が含まれていることを明らかにしていたことも見逃せません。『記・紀』の神代の物語が史実ではないことを論証した津田左右吉の『神代史の研究』や『日本上代史研究』、『上代日本の社会及思想』などの著書も、美濃部達吉の著書同様発禁処分となっているのです。そして、「皇室の尊厳を冒涜した」として出版法(第26条)違反で起訴されてもいるのです。政治権力が、「学問の自由」を侵し、自らの国を「神の国」や「神州」などと特別視して、戦争へと突き進んだ歴史を忘れてはならないとと思います。
「学問の自由」が認められていれば、”天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念”(人間宣言)にいつまでもとらわれ、戦争に突き進むことはなかったように思います。
下記は、「昭和史の瞬間 上巻」朝日ジャーナル編(朝日選書11)から抜粋しました。(漢数字や算用数字の一部を変更しています)
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国体明徴の名のもとに
─ 天皇機関説 ─
滝川事件の二年後、1935(昭和10)年には、天皇機関説問題がおこり、その年いっぱい政界をゆさぶった。この事件は、国体論にもとづく学問、思想の自由にたいする弾圧という点では、滝川事件の延長線上にある。だが、それが単に著作の発禁や著者にたいする司法処分にとどまらなかったところに、段階のちがいがあった。議会の決議、軍の訓示につづいて政府が「国体明徴」を公式に宣言したことによって、軍をふくめた官僚組織が国体の名において、軍や政府に同調しない異説や異分子を排除するために、全面的にのり出すことになった。こうして天皇機関説問題は民主主義、自由主義の息の根をとめ、思想統制を仕上げる役割を果たしたのである。
1934(昭和9)年の第六十五通常国会では、出版法が改正され、著作者・発行者を処罰する範囲が広がった。それまでの政体変壊・国憲紊乱と風俗壊乱とのうえに、あらたに皇室の尊厳冒瀆と安寧秩序の妨害が加えられた。この議会には、治安維持法改正法案も提出された。この法案は、国体変革をはかる結社の外郭団体員も罰する、国体変革の宣伝を罰する、検事に拘引四ヶ月以内の拘留権をみとめる、執行猶予または不起訴者を保護観察し、刑期終了者を予防拘禁に付しうる、などのことを定めたものである。だが、さすがにこれには、政友・民政両党からも、人権蹂躙のおそれがつよいという非難や、右翼も取締まれという要求がおこり、衆議院で審議未了となった。
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当時の政党のなかには、ファッショ排撃と議会政治の擁護を叫んで、政権を政党の手にとり戻そうとする動きもあったが、他方では、軍部やこれに近い国家主義勢力と結んで勢力を伸ばそうとするファッショ分子の活動も活発となっていた。政党の動向が揺れうごくなかで、後者は、貴族院の右翼議員や院外の右翼団体などと呼応して、前者の目をつんでいった。第六十五議会では、政友・民政両党の提携を斡旋した中島久万吉商相が”逆賊”足利尊氏を讃美したと攻撃されて辞職に追いこまれた。
こうした思想摘発の先頭に立ったのが、国体擁護連合会で、滝川事件の火付け役となった蓑田胸喜もその有力メンバーであった。この会は1932年のいわゆる司法省赤化事件を契機として在京右翼団体が連合してつくったもので、政界・学界の自由主義者、とくに高等文官試験委員である帝国大学教授の摘発に力こぶを入れていた。末弘巖太郎東京帝大教授も蓑田に告発され、不起訴となったものの、その『法窓漫筆』は一部が発禁処分を受けた。
国体擁護連合会がつぎにねらいをつけたのが、前年に退官したばかりの美濃部達吉東大名誉教授であった。美濃部は東大法学部で行政法を、1920(大正9)年からは憲法をも担任し、かれに代表されるいわゆる天皇機関説は、明治憲法下の議会政治を基礎づける憲法理論として学界の主流をなしていた。ながく高等文官試験委員であり、1932年には犬養政友会内閣に推されて貴族院の勅選議員なっていた。同時にかれは、自由主義的評論家として、反動的な時流に抗して健筆をふるっていた。それはかれの憲法理論もとづくものであった。
美濃部は天皇・皇室を尊崇することにおいて人後に落ちなかった。そして国体の観念を歴史的ないし倫理的事実をしめす観念としては認めながらも、これを憲法解釈のなかに導入することには反対であった。
「国体を理由として、現在の憲法的制度に於ける君権の万能を主張せるが如きは、全然憲法の精神を誤るものである。殊に君主の大権は常に官僚の輔翼に依って行るゝのであるから、国体を理由とする君権説の主張は、其の結果に於いては、常に官僚的専制政治の主張に帰する」(『逐条憲法精義』1927年刊)
かれは天皇を国家の機関とすることで、具体的人格としての天皇と、憲法にもとづく天皇の権能とを区別した。そして官僚の輔翼によっておこなわれる後者については批判の自由をみとめて、国政が合理的に運営されることを保障しようとしたのである。
したがって軍部や右翼が、国体とか統帥権をふりかざして、反対論を威圧することには、かれは つよく反対した。ロンドン条約問題にあたっては、「統帥権干犯」のスローガンを排斥した。総理大臣が軍令部長の同意を得ずして条約の批准を奏請したとしても、それはただ軍令部長の権限の侵犯にとどまるもので、統帥権の干犯ではない、天皇の委任を受けないものがほしいままに天皇の陸海軍を指揮し統帥しようと企てたとすれば、それこそが統帥権の干犯である──美濃部はこう主張したのである。1934年10月に陸軍省が「国防の本義と其強化の提唱」、いわゆる陸軍パンフレットを配布したときにも、かれは軍国主義を粉飾している美辞麗句を剥ぎとって、その好戦的軍国主義を批判した。
かれはまた、国民の意見を代表する議会を尊重するとともに、行政権も司法権も法律にしたがってのみおこなわれるべきだ、と法治主義を強調して、国民の権利をまもろうとした。機関説問題がおこった1939年はじめの第六十七通常議会でも、貴族院本会議で、斎藤実内閣瓦解の原因となった帝人事件における人権蹂躙問題をとりあげ、検察当局が権力を違法に乱用したおそれがつよいときびしく追及した。
天皇の権威をかさに着た軍部や右翼にとって、従三位・勲一等・貴族院議員、帝国学士院会員で憲法学の権威である美濃部が、他ならぬ帝国憲法に依拠して批判をつづけることは、まさに目の上のこぶであった。
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1935年1月に国体擁護連合会では、蓑田の起草した攻撃文をばらまいた。それは美濃部の著書のところどころを抜き出して、「天皇の統治=立法・行政・司法・統帥大権を無視否認せる不忠凶逆『国憲紊乱』ときめつけたものであった。ニ月七日には、衆議院の予算委員会分科会で陸軍少将の江藤源九郎代議士が、美濃部の著書『逐条憲法精義』の発禁処分を要求した。「帝国議会は国民の代表者として国の統治に参加するもので、原則としては議会は天皇に対して完全なる独立の地位を有し、天皇の命令に服するものではない」と同書にあるのは、天皇大権干犯・国体破壊で、出版法にいう国憲紊乱にあたるとしたのである。江藤は、国家主義勢力が中心とたのむ平沼騏一郎枢密院副議長の直系であった。
こえて十八日には、貴族院本会議で、菊池武夫、井上清純、三室戸敬光の各議員が、天皇機関説排撃の質問戦をくりひろげた。菊池、井上両男爵は軍人で、三室戸子爵とともに、蓑田の代弁者であった。菊池は、憲法上統治の主体が天皇にあらずして国家にありと公言することは、「緩慢なる謀反であり明らかなる反逆になる」として、美濃部ならびにその著書にたいする処分をただした。
岡田啓介首相の答弁は、美濃部博士の著書全体を通読すれば国体の観念において誤りはないと信ずる、用語に穏当でないところがあるが、学説については学者にゆだねるほか仕方がない、という消極的なものであった。機関説問題が大きな波乱を呼びおこそうとは、まだ予想もされなかったのである。
美濃部は二十五日に一身上の弁明に立った。美濃部の長男亮吉は、その時の模様を次のようにしるしている。
「貴族院は議席も傍聴席も超満員だった。坐る席がないどころか手すりによじ上らなければ、父の顔を見ることもできないほどの騒ぎであった。父は、東大の講義の時とはちがい、前夜おそくまでかかってつくった原稿を手に、二時間に及ぶ弁明の演説をおこなった。それは、やや学者風にすぎ、大学における講義じみてはいたが、なかなか迫力のある名演説であった。(中略)要するに貴族院の壇上において、いわゆる天皇機関説についての通俗講演を試みたようなものであった」
貴族院では、壇上でおこなわれる演説には拍手しないのが原則であったが、この演説には少数ながら拍手がおこった。拍手をおくった小野塚喜平次東大総長は、やがて右翼団体ににらまれ、一時は護衛がついたという。この演説は議定を圧し、当の菊池も「ただ今承る如き内容のものであれば、何も私がとりあげて問題とするに当たらぬようにも思う」と述べたほどであった。
扇動と重圧
しかし貴族院における美濃部の弁明演説が新聞に大きく報道されたことは、右翼勢力を刺激した。かれらは天皇機関説が玉座の前で主張され、ジャーナリズムで拡大されて国民大衆の間にまで達したと、いきどおった。
いわゆる天皇機関説は当時の憲法学説の主流をなしていたとはいえ、それは大学教育と知識階級の世界に限定されていた。大多数の国民は師範学校=小中学校の教育を通じて天皇を絶対的権威として教えこまれていた。とくに軍隊教育では、天皇への絶対服従が徹底的にたたきこまれた。大正時代の初頭に美濃部と上杉慎吉東大教授との間で天皇機関説論争がたたかわされていらい、文部省では美濃部を遠ざけていた。美濃部はこの時を最後に、中等教員検定試験の法制の試験委員に嘱託されなくなり、文部省の委嘱で執筆提出してあった中等教育の法制教科書も出版されなかったという。
「天皇機関説批判」と銘打った雑誌『維新』四月号では、美濃部の弁明に名をかりた演説は自由主義の猛然たる反撃のあらわれであるとし、「自由主義思想勢力が……従来の地盤たる知識階級の圏外にも氾濫して国民思想の分野に圧倒的な支持を獲得するか、それとも国民大衆の意識下に伏在する伝統的国民感情が自由主義の反撃を押返して、これに最終的打撃を与へるかの国民思想の重大な転機である」と論じて天皇機関説との決戦を呼びかけていた。
かれらは、現人神である天皇を「機関」とするのは不敬だという通俗観念をあおった。美濃部の理論体系のなかで意味をもつ機関という学術用語を、それから取りはずして扇動に用いたのである。議会では、「機関といえば全体の一部でありまして、また何時でも取換え得る意味を持つものであります」(貴族院・井上清純)、「天皇の御地位も会社の社長の地位も、機関たるにおいては全然同一のものとなるのではありませんか」(政友会・山本悌二郎)と論じられた。徳富蘇峰は『東京日日』に連載の「日日だより」に「記者は未だ美濃部博士の法政に対する著書を読まない。故にこゝにその所説に付いて語らない……記者はいかなる意味においてすらも、天皇機関説の味方ではない……日本国民として九十九人迄は、恐らく記者と同感であらう」と書いた。
これらの批判は、関口泰が書いたように「美濃部博士の憲法学説を攻撃する者の九十九人迄、否百人迄が、博士の法政に対する著書を読まないらしいことは、その所説の節節から察せられる」ようなものであった。少しのちには天皇も鈴木貫太郎侍従長にたいして、「主権が君主にあるか国家にあるかということを考慮するならば、まだ事がわかっているけれども、ただ機関説がよいか悪いかという議論をすることは、すこぶる無茶な話である。(中略)今日、美濃部ほどの人が一体何人日本におるか。ああいう学者を葬ることはすこぶる惜しいもんだ」ともらしていたという。
以上のような情勢の下で、右翼の攻撃に対抗して学問の自由を守ろうとする組織的な動きは、滝川事件のときとちがって、もはや見られなかった。蓑田らの気違いじみた批評は好ましくないという側面からの批判はあっても、正面から美濃部の学説を弁護しようとする論者はいなかった。当の東大法学部も、このすぐれた先輩の犠牲を個人的に慰め、あるいはいきどおるだけで、国体という錦の御旗にあえて反撃しようとはしなかった。美濃部は孤立無援のたたかいを続けなければならなかったのである。こうしたなかで河合栄次郎経済学部教授は「国体に関する議論と処置は、特に慎重なることを必要とする。然るに国法の許さゞる……の脅威を以て博士の口を緘(カン)し、世人をして生命と地位とを賭するに非ざればこれに関する一語をも吐くことを許さゞる状態に至らしめたることは、『国憲を重んじ国法に遵』へえと宣せられたる明治天皇の教育勅語に……するであらう」(『帝国大学新聞』1935年4月15日付、伏字は原文のまま)と正面から反撃したが、当時にあってはこれだけの批判をすることはきわめて勇気のいることであった。
三月八日には、右翼団体が大同団結して機関説撲滅同盟をつくり、天皇機関説の発表の禁止と美濃部の自決を要求した。議会でも貴衆両院の有志議員が機関説排撃を申合わせた。絶対多数を擁しながら岡田内閣に閣僚を送っていない政友会では、これを倒閣運動に利用しようと積極的にのり出した。美濃部の師である一木喜徳郎枢密院議長を天皇機関説論者として排斥しようとしようとする平沼一派の策動もからんだ。
用語は穏当でないが学説は学者にゆだねる、といっていた岡田首相の答弁が、かれらの攻撃の突破口とされた。三月四日には首相は、私は天皇機関説を支持するものではありませんと、学説に反対の態度を明らかにした。十二日には、林銑十郎陸相が、用語は不快だが、この学説が軍に悪影響を与えた事実はないという四日前の答弁をくつがえして、この種の言説がなくなることを希望すると述べた。
国体という錦の御旗をふりかざした一部の議員に、政府当局も、この問題に消極的な議員も、ずるずると引きずられていった。議会は審議の場としての機能と価値とを喪失していたのである。三月二十日には、貴族院では政教刷新建議を採択した。二十三日には衆議院が国体に関する決議を可決し「政府は崇高無比なるわが国体と相容れざる言説に対し、直ちに断固たる措置を執るべし」と主張した。「左程でもないことをあたかも国の一大事のごとく思い込み、悲憤慷慨やるかたなき同じ人が、このころ新橋や赤坂の一番のお得意様で、ここでは慷慨淋漓が痛飲淋漓になるのだそうである」。
阿部真之介は、右翼をこうひやかすとともに、この決議案の提案説明に立った。鈴木喜三郎政友会総裁を「一般民衆は……かれの忠誠の志に感嘆する前に、かような問題をすら政略の具に供するを辞せざる卑劣な根性に愛想をつかしていたのである」と批判した。
司法処分
議会が終わると、政府としては早急に一応の措置をとって美濃部問題のけりをつけようとした。二月末に江藤代議士から不敬罪の告発をうけていた美濃部は、四月七日に検事局に召喚されて十六時間にわたる取調べをうけた。詔勅、とくに教育勅語を批判してもよいと認めるかどうかが、取調べの重点だったらしい。九日には内務省は『逐条憲法精義』『憲法提要』『日本憲法の基本主義』を発禁とし、『現代憲政評論』『議会政治の検討』に次版改訂を命じた。美濃部以外の機関説論者の憲法学書、法学通論三十数種にたいしても絶版が勧告された。文部省では全国各学校に国体の本義を明徴せよとの訓示が出され、おりからの新学期を前に、京都帝大では渡辺宗太郎教授の憲法担当を変更し、神戸商大では佐々木惣一講師をやめさせるなどの措置がとられた。法制局でも高等文官試験委員から機関説論者を除いた。
しかし、いったん燃えあがった火の手は容易におさまらなかった。天皇の軍隊をもって自任する軍部では、天皇機関説が軍隊教育に悪影響を及ぼすおそれがあるとして、その徹底的排撃を希望した。四月四日には真崎甚三郎教育総監は、天皇機関説は国体に対する吾人の信念と相容れないとする訓示を全陸軍に通達した。十五日には帝国在郷軍人会本部から陸軍省軍事調査部長山下奉文の名による機関説排撃のパンフレット十五万部が配布された。各地の在郷軍人会支部では、これに呼応して機関説排撃大会を開いて気勢をあげた。
右翼団体も追撃の手をゆるめなかった。美濃部を処分させ、一木枢密院議長を辞職に追いこんで元老重臣陣営の一角を崩し、さらには岡田内閣の打倒をはかろうとしていたのである。四月中旬には「美濃部思想は一木が元祖、之を絶やさにゃ国立たぬ」といったポスターが東京の各所にべたべたと貼られた。政友会もこれに同調して機関説排撃、岡田内閣打倒を叫んだ。岡田内閣では一木らを辞職させずに事態を収拾するため、美濃部に公職を辞退させることで事をうやむやに葬ろうと画策した。あらゆるつてをたどって辞職が勧告されたが、美濃部は頑として応じなかった。「小生公職辞退の儀につきなほ熟考を重ねし結果、今日において小生自ら公職を辞することは、自ら自己の罪を認めて過誤を天下に陳謝するの意義を表白するものに外ならぬことは申すまでもこれなく、自ら学問的生命を放棄し、醜名を死後にのこすものにて、小生の堪へ難き苦痛と致す所にこれあり候(中略)顧みればこの数年来憲政破壊の風潮ますます盛んと相なり、甚しきは自由主義思想の絶滅を叫ぶ声すら高く(中略)小生微力にしてもとよりこの風潮に対抗してこれを逆襲するだけの力あるものにこれなく候へども、憲法の研究を一生の仕事と致す一人として、空しくこの風潮に屈服し、退いて一身の安きをむさぼりては、その本分に反するものと確信致しをり候」。これは当時書かれたらしい手紙の一節である。
八月三日には、ついに政府は国体明徴にかんする声明を発表した。そのなかには「統治権が天皇に存せずして天皇は之を行使する為の機関なりとなすが如きは、是れ全く万邦無比なる我がこくたいの本義を愆(アヤマ)るものなり」という一句があった。岡田首相は一木枢密院議長と金森徳次郎法制局長官については問題ないとの談話を発表した。
九月十七日には、さきに取調べをうけた美濃部の司法処分が検察当局から発表された。不敬罪にはあたらないが、昨年八月から施行された改正出版法による天皇の尊厳冒瀆・安寧秩序の妨害に該当する疑いが濃い、しかしこれらの著作は以前から刊行されていたことでもあるので、起訴猶予にするというものであった。この決定は美濃部が折れて辞職の内意をしめしてからなされたもので、その日に美濃部は貴族院議員の辞表を提出した。
おりから陸軍内部においては、皇道、統制両派の抗争は頂点に達していた。機関説排撃の先頭に立った皇道派の真崎教育総監が七月に更迭されると、皇道派の青年将校は、これは統制派の永田鉄山軍務局長が重臣とたくらんだ陰謀で、「統帥権干犯」であると攻撃した。八月十二日には、永田は陸軍省内で相沢三郎中佐に斬殺された。これに刺激された軍部や在郷軍人のなかからは、政府の声明は生ぬるいという非難がたかまり、政府は軍部の要求である再声明を迫られた。
十月十五日には国体明徴第二次声明が出され、いわゆる天皇機関説は「厳に之を芟除(センジョ)せざるべからず」と声明された。芟除とは刈りのぞくことである。陸軍ではこの声明をきっかけに在郷軍人会本部を通じて在郷軍人の統制にのり出し、その動きはようやく鎮静にむかった。ただ在郷軍人中の強硬派の三六倶楽部や、皇道派と密接な関係をもつ直心道場だけが内閣打倒の活動をつづけた。天皇機関説問題を契機とするはげしい倒閣運動でも岡田内閣は倒れなかった。だがその代りに再度の声明を出すことで右へ右へと傾いていったのである。
こうした機関説問題を民衆はどう受けとったか、いちがいにいうことはできない。だがこの年秋の地方選挙では無産政党が躍進した反面、右翼の国家主義政党は不振であった。陸軍の華北工作、海軍の軍縮会議脱退の動きにみられる戦争の危機感、軍需インフレによる勤労大衆の生活難をなにほどか反映していたのであろう。翌三十六年ニ月二十日の衆議院議員総選挙では、機関説排撃の先頭に立った政友会が敗れ、川崎市をふくむ神奈川県第二区では鈴木総裁が落選した。無産政党は五名から二十一名に急増した。その翌日の二十一日、美濃部は右翼の壮士によって狙撃され、足に軽傷を負った。さらに五日あとには、二・二六事件がおこって情勢を大きく転換させたのである。
二・二六事件ののちには、「国体明徴」の具体的な措置がつぎつぎにとられた。四月には対外文書にこれまで「日本帝国」「日本国皇帝」としるしたのを、「大日本帝国」「大日本帝国天皇」と改めた。十月には文相を会長に、西田幾太郎以下の委員をあつめた教学刷新評議会で「我が国に於ては、祭祀と政治と教学とはその根本に於て一体不可分にして三者相離れざるを以て本旨とす」という調子の答申が出された。翌三月には文部省から『国体の本義』が配布された。そこでわが国体は神勅にもとづく世界無比のもので、「我臣民は西洋諸国に於ける所謂人民と全くその本性を異にして」「その生命と活動の源を常に天皇に仰ぎ奉る」として、美濃部が強調してきた国民の権利はまったく否定された。
憲法にある臣民権利義務や帝国議会の規定も、西洋諸国のように人民の権利擁護のため、ないしは人民の代表機関としてあるのではなく、ただ天皇親政を翼賛せしめるために設けられたものにすぎないとされた。この本からは旧制高専の国語の入試問題がよく出されたので、受験生のテキストに広く使われた。 《今井清一》
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