真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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日本学術会議任命拒否問題と滝川事件

2020年10月22日 | 国際・政治

 菅義偉首相が、日本学術会議が推薦した会員候補のうち六名(芦名定道、宇野重規、岡田正則、小澤隆一、加藤陽子、松宮孝明)を任命しなかったので、”日本学術会議任命拒否問題”として議論が続いています。
 日本学術会議は、幹事会を開催し、菅首相に対して六人を任命するように求める要望書を決定し、内閣府に送付したといいます。あちらこちらで、「内閣にイエスという提言や法解釈しか聞かなくなるのは禍根を残す」とか「学問の自由に対する暴挙だ」とか「日本学術会議法に反する明らかな違法行為だ」いう声があがっているにもかかわらず、菅政権は、「総合的、俯瞰的な活動を確保する観点から判断した」との一点張りです。
 だから、安全保障関連法特定秘密保護法などで政府の方針に異論を唱えた人たちは、総合的、俯瞰的な活動を確保する観点から任命できないということなのではないかと想像します。戦前、”学問の自由、大学の自治”を巡って戦われた「滝川事件」を思い出し「昭和史の瞬間 上巻」朝日ジャーナル編(朝日選書11)から「大学自治の墓標 ── 京大・滝川事件」を抜粋しました。
 ”歴史はそれ自体を繰り返さないが、しばしば韻を踏む”はマーク・トウェインの言葉だそうですが、同じ過ちをくり返してはならないと思います。
 不都合な事実をなかったことにし、自らに都合のよい法律を作り、自らに都合のよい解釈をし、自らに都合のよい人事で要職をかため、思い通りの政治を続けるとどういうことになるのかは、歴史が教えていると思います。下記を読むと、日本は再び後戻りができないところまで進んでいるような気さえするのですが…。 
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         大学自治の墓標  ── 京大・滝川事件

1933(昭和8)年五月二十六日、京都帝国大学法経第一教室は、1600名の学生で埋めつくされていた。午後五時三十分、宮本英雄学部長を先頭に、教授・助教授・講師・助手・副手の法学部の全教官が姿をあらわして、学生大会の緊張と興奮は頂点に達した。
 宮本法学部長が壇上に立って、いま教授会全員の辞表を小西総長に提出してきたことを告げ、その理由の説明として、十二分間にわたって教授一同の名による声明書を朗読した。
 「政府が今回、滝川教授辞職の事あらしめたるの措置は、甚しく不当にして、遂に吾人一同をして辞表を呈出するの已むなきに至らしめたり。
 ……事は実に大学の使命および大学教授の職責に関す。之を以て滝川氏個人の擁護なりとする人の如きは、吾人初めより之と共に本問題を談ずるの意を有せざるなり。
 大学の使命は固より真理の探究に在り。真理の探究は一に教授の自由の研究に待つ。大学教授の研究の自由が思索の自由および教授の自由を包含すること、論なし。教授が熱心に思索し、思索の結果たる学説を忠実に教授することを得るに於て、始めて研究の自由あり。……政府の滝川教授休職に関する措置は、全く大学教授の職責を無視し、以て大学の使命の遂行を阻碍(ソガイ)するものとす。是れ吾人をして辞職の已むなきに至らしめたる理由の一なり。
 大学に於ける研究の自由……を確保するは、大学制度の運用に当りて、研究の自由を脅すの結果を生ずることを防ぐを肝要とす。之が方法中、最も根本的なものは、政府が任意に教授の地位を左右するの余地なからしむることに存す。…之が為には、教授の進退は総長の具状を得て之を行ひ、且総長が教授の進退に付具状せんとするとき、必ず予め教授会の同意を得るを要すとすることを必要とす。是れ所謂大学の自治と称するものゝ一端なり。…然るに、今回の滝川教授の休職は、総長の具状なく、且毫も教授会の同意を得るの手続存することなくして、行はれたり。此の如きは、実に、我が京都帝国大学に在りて、研究の自由を確保する方法として、夙に公に認められ、且久しく遵守し来れる規律を破壊し、以て大学の使命の遂行を阻碍するものとす。是れ吾人をして辞職の已むなきに至らしめたる理由のニなり」
 読み終わった宮本学部長は、「私たちは、いまこうして総辞職を決行した。もっとも関係の深い学生諸君のことに思い至るとき、まことに胸がありさけるように苦しい。しかし私たちのとった態度はあくまで正しいと信ずる。諸君は私たちの意のあるところを察して、これからも学生にふさわしい道を進んでもらいたい」と別れのことばを述べた。
 つづいて助教授団の声明、講師・助手・副手団の声明が読みあげられたのち、教授以下は退場した。教授十五名をはじめ、辞表提出者は三十九名にのぼった。
 学生大会は続行され、大学院学生代表が、指導教授を失ったいまは、総退学のほかなし、と声明した。このとき経済学部学生代表から、経済学部教授会の弱腰を非難して、あすから受講を辞退することを、学生一同申合せたと発言した。第一高等学校以下、全国三十四高校の卒業生代表が、学習院を最後に、それぞれ決議文を朗読した。京大法学部学生一同の名で、文部省にたいして、滝川教授休職撤回と全法学部教授の復職とを要求し、目的貫徹のためには総退学を辞さない、との決意を声明した。
 この五月二十六日の学園のはげしい動きは、「吹き募る京大暴風帯」(『大阪朝日』)、「抗争の激流に潰えた京大法学部」(『大阪毎日』)などの大見出しで社会を衝撃した。そして思えばこの日教授と一体の学生大会が、京大・滝川事件のクライマックスであった。しかし、事ここに至るまでには、むろんさまざまないきさつがあった。

 拡大解釈された「アカ」
 京大法学部総辞職にまで発展しただ事件は、刑法担当の滝川幸辰教授を文部省が罷免しようとしたことからおこった。手短に述べれば、つぎのような経過である。
 1932(昭和七)年十月、滝川教授は中央大学で「トルストイの『復活』に現れた刑罰思想」と題する講演をした。この内容がけしからんものだった、と告げ口するものがあったとみえて、文部省から新城京大総長に注意があり、法学部は部長を中心に「誤解」を解くことにつとめた。ところが、翌三十三年四月、新任の小西重直総長にたいし、文部省は正式に滝川教授の辞職を要求した。それに一歩先立って、同教授の著書『刑法読本』と『刑法抗議』とが、内務省から発売禁止処分を受けており、その危険な内容(文部省の理解によれば内乱を扇動し、姦通を奨励するもの)に照らして、大学教授として適当でない、という理由であった。ここで問題が表面化した。文部大臣は鳩山一郎(戦後の首相)であった。
 法学部教授会は、理由がないとしてこれを拒否した。教授会の立場は、教授の学問上の見解の当否は、文政当局の判断によってきめられるべきものではなく、そのときどきの政府のつごうで教授の地位を動かすべきではない、というのであった。文部省の「論理」は「学問研究の自由の中には、①研究の自由、②教授の自由。③発表の自由があるが、教授の自由と発表の自由に関連して滝川教授の責任を問わんとしているので、教授会の意向は当を得ない」というのであったが、この「論理」に説得力があるかどうかはともかくとして、絶対クビにするというハラのほうは強固であった。板ばさみになった小西総長は、東京と京都のあいだを往ったり来たりしてノイローゼ状態におちいった。
 五月二十四日、小西総長は鳩山文相と会見して、大学として文部当局の要求には応じることができぬ旨を回答した。文部省は切札を出して、翌二十五日に高等文官分限委員会をひらき、一方的に滝川教授の休職を決定した。
 成行きからハラをきめた法学部教授会は、五月十五日、連署して、言い分がとおらないかぎり総辞職を申合せ、さらに二十三日、絶対に慰留に応じないことを申合せて、全員の辞表を学部長にあずけた。そして二十六日に、滝川教授休職発令の電報が飛びこんだのに応じて、学部長から総長に辞表を提出し、つづいて学生大会乗込みの場となったのである。
 こうみてくると、事件のきっかけにちなんで、世間が滝川事件と呼んだことに理由があると同時に、当事者たちが、滝川個人の問題ではないという観点から、京大事件とよびならわしてきたことがうなずかれる。ことの本質は、まさに学問の自由、大学の自治そのものの問題であった。そして事件をひきおこした時代は、すでにそれにふさわしい条件をそなえていた。
 1931年秋の満州事変の戦火は、翌32年一月、上海事変に飛火し、三月には「満州国」建国が宣言され、国内では右翼テロが続発して五・一五事件にまでいたった。ドイツでは33年一月に、ナチスが政権をにぎり、ヒトラーが首相に就任した。そしてニ月には国会放火事件をおこして最有力の反対派・共産党に大弾圧を加え、非合法化した。日本でも「アカ」狩がつよめられ、権力者の目には「アカ」の範囲が拡大した。
 すでに三・一五事件のあと、京大・河上肇教授、東大・大森義太郎、平野義太郎、山田盛太郎助教授、九州大・向坂逸郎教授などの「左翼」教授がつぎつぎに追放されたが、いまでは、滝川教授までが「マルクス主義者」のレッテルをはられるようになった。滝川教授はけっしてマルクス主義者ではなく、「自由主義者」と呼ぶのがふさわいが、いまや自由主義者も「危険思想」であるにかわりなかった。「危険思想」の摘発を職業とする商人があらわれた。蓑田胸喜(ひとびとは狂気とかげで呼んだ)とその機関誌『原理日本』がその代表的なものであった。滝川教授ばかりでなく、東大の美濃部達吉、田中耕太郎、末弘巌太郎などの諸教授もかれによれば「赤化教授」であったが、わけても滝川教授には私怨を抱いていたふしもある。それは滝川教授が部長をしていた京大講演部で、蓑田の「学術講演」が学生たちの包囲攻撃を受けた一幕があったからである。蓑田たちが提供する資料は衆議院の宮沢祐代議士や貴族院の菊池武夫男爵らの「右翼議員」によって、議政壇上で活用された。かれらは満州事変いらい発言力をつよめてきた軍部のバックアップをたのんで強気であった。滝川事件の背後には、陸軍大臣・荒木貞夫大将があると噂された。さらに当時、大きな政治問題になった「司法官赤化事件」にショックを受けた司法省が司法官試験委員としての滝川教授の刑法学説に神経をとがらせているとも噂された。「自由主義者」を自称している政治家・鳩山文相が、京大総長や学生にむかって「時勢のことをかんがえてもらいたい」とたびたび洩らしたのは、理由のないことではなかった。
 一滝川教授にとってはもちろん、京都帝国大学にとっても、敵はあまりに強大であった。法学部教授会は、このたたかいに勝ち目のないことを意識していたはずである。しかし教授会は、たたかうことが必要だと考え、そしてたたかった。ことがらのスジをあきらかにし、教授会を結束させていくうえで、強大な指導力を発揮したのは公法学の佐々木惣一教授であった。佐々木教授は、京大法学部の第一回卒業生で、官僚養成所としての東大に対抗して設置された京大の在野精神の伝統に誇りをもつ、母校愛に燃える、当時五十七歳の長老教授であった。1913~14(大正2~3)年、教授会を中心とする大学自治確立の大闘争であった「沢柳事件」を、少壮教授としてたたかいぬいた経験をもっていた。この、一樹よく森をなす、と評された佐々木教授の人間的魅力と論理とが、滝川事件をあそこまでたたかいぬかせたのだ、と関係者の評価は一致している。これとならんで、闘志と機略にあふれた宮本英雄教授が、たまたま法学部長の地位にあったことが、この大闘争の展開に欠くことのできない条件であったことも事実らしい。

 学生運動
 教授団のまわりに、学生が結集して立ちあがった。
 滝川事件の表面化は、新学期早々の学生を緊張させた。京大法学部には、在学生と卒業生とを包含する学友会「有信会」の組織があったが、学園の空気が切迫した五月十八日、学生有志があつまって、組織的行動を開始した。翌十九日、第一回学生大会をひらいて、文部省へ抗議と教授会支持の声明書を満場一致で採択した。そして出身高等学校別代表者会議(高代会議)をひらき、闘争委員会を設置した。すなわち中央部、交渉部、情報部、会計部、庶務部の各専門部を設けて組織体制を整えた。同時に、東京、九州、東北の各帝大の新聞に檄を送った。中央部の議長には、六尺豊かの巨体に長いあごひげをたらした名物学生・渡辺貞之助君がえらばれた。かれは、それ以来、ひんぱんにひらかれた学生大会の事実上の常任議長となり、名議長ぶりをうたわれた。
 運動の基本組織が出身高等学校単位につくられたことは、旧制高校が持っていた性格からいって、納得のいく方針であった。すでに寮での共同生活をつうじて築かれていた友情を基礎に、学生は団結した。かれらは教授を歴訪し、激励し、批判し、全国各地の大学にオルグに出かけ、講演会をひらいて市民に訴え、文部大臣への直接抗議をも試みた。かれらは京大の自由主義の伝統を守護する使命感と、師弟の情誼に殉ずる純情に若い血を燃やした。法学部学生大会の総退学宣言にしたがって、1300通の退学届けがあつめられた(もっとも結果的にみて、これは抗議の署名運動といった意味のものであった)。もちろん高い調子の論陣をはったが、そのほかに運動の独自の機関紙として『京大学生運動新聞』を数号発行した。
 経済学部、文学部も学生大会をひらいて共同闘争を決議した。経済学部学生大会の受講辞退戦術については、さきにも紹介した。やがて、法経文理連合学生大会から、さらに全学学生大会がひらかれ、鳩山文相に辞職勧告委員を派遣することが決議された。しかし学生運動の形態は、ほとんど屋内集会に限定され、一回のデモも組織されず、教授会に同調の線をかたく守って、その妨げとならぬように慎重に統制されていた。運動に左翼的色彩が見えないことがむしろ注目をひいた。
 
 もともと京大は、左翼学生運動の名門であった。治安維持法の適用第一号の「栄誉」をになったのも、1926年の京大学生を中心する、いわゆる学連事件であった。たしかに、三・一五=四・一六事件いらいのあいつぐ弾圧の影響もあったろう。しかし、滝川事件以後の事実に照らしても、京大に左翼の伝統がたえたわけではなかった。けれども滝川事件のなかで、左翼がどんな独自的役割を演じたかは、表面からはわからない。中央指導部の議長・渡辺君をはじめ、平岡学、西毅一など、表面に立った幹部は左翼学生ではなかった。運動の展開にともなっていくつかの小さな渦巻は発生したが、全体として学生の統一はよく保たれた。運動にアカい色が見えることを厳重に警戒し、同時に内心期待していた警察にとって、弾圧の口実になるような材料は、ついにあらわれなかった。
 このような特徴をもった学生運動が、大衆的規模で展開した。卒業生もさかんに活動し、全国大会をひらいて支援した。言論機関も法学部側に好意的であった。このたたかいが、言論・報道の自由の最後のとりでの攻防戦であることを意識するひとびとが少なくなかったのである。とくに京大支局に田畑磐門記者を配置していた『大阪朝日新聞』の紙面は積極的であった。
 東大、東北大、九州大などでも京大支援の学生運動があった。そのクライマックスは六月二十一日、東大法経三十一番教室で、非合法にひらかれた学生大会であった。美濃部達吉教授が、憲法の講義中に、学生の希望に応じて講義を中止して学生大会にあけわたした。入口の扉を内から縄でガッチリしめ、無数のビラが飛散るなかで演説が進み、拍手、歓声がわいた。しかし、興奮に顔をほてらせて教室を出ようとした学生を、警官隊が待ちかまえていた。
 突如、ワッショ、ワッショの叫びとともに、ガッチリとスクラムをくんだデモ隊が、警官隊の包囲網に突進した。たちまち乱闘、警官隊は学生を打ちすえ、けとばし、トラックに満載した。
 関係者の証言によれば、滝川事件当時、共産主義青年同盟東大細胞はなお、強力であった。事件がおこると、この全組織が立ちあがり、大衆的な闘争機関として、各高校別会議が、いわば中央闘争委員会として「高代会議」が持たれ、これらの闘争組織を共青が指導したのであった。しかし弾圧で共青が追いつめられ、解体するにともなって、学生大衆も気力を失って運動は衰退した。

 「石の下」の自治
 運動の衰退は、本家の京都でいっそう深刻な問題であった。肝心の法学部教授会が分裂するという悲劇が、やがておこった。
 五月二十六日の総辞職宣言で、たたかいは第二段階にはいった。もちろん文部省も、火の手が大きくなることは本意でなかったから、収拾のため、さまざまな工作をこころみた。法学部閉鎖、法文系学生の私立大学への移管などの噂がバラまかれた。便乗した右翼が、強硬派に脅迫を加えたりした。法学部教授会の強硬な態度にサジを投げた小西総長は、六月辞職した。
 事件三代目の総長として松井元興教授が選出された。新総長は、前総長がてもとにあずかったままになっていた十五教授の辞表を文部省に取次いだ。文部省はそのなかから、佐々木惣一、宮本英雄、末川博、滝川幸辰、森口繁治、宮本英脩の六教授の分をぬきだして受理し、あとの九教授に対しては、今回のことは「非常特別の場合」だ、今後はこういうことはしないから辞意を撤回して残留してくれと説得した。
 辞表受理組は強硬派とみられていたグループであったが、宮本英脩教授が加わっていたことは自他ともに意外であった。そこで同教授は、『朝日新聞』に「最軟派の立場」と題して投書し、もともと辞職したくなかった自分の心情を表明した。そしてまもなく復帰した。一方、慰留組のなかで、恒藤恭、田村徳治の両教授は、納得できぬと声明して辞意をつらぬいた。他の教授たちは、自分たちの主張が基本的に貫徹したから、残留して法学部の再建に努力すると声明して、辞表を撤回した。
 こうして法学部教授会が、退官組と残留組とに分裂したことによって、さしもの大紛争も七月半ばに一段落を告げた。助教授以下も、二派に分裂した。事ここに至るまでのあいだには、もちろん、きわめて「人間的な」内面、外面のドラマがあったことは想像にかたくない。いまとちがって、大学教授が希少価値を持ち、わけても帝国大学に権威と生活の安定が保証されている時代であった。学生は、残留派を「瓦全組(ガゼンクミ)」とののしったが、かれら自身も、帝大の卒業証書が高い相場を持っていることを知っていた。時すでに夏休みにはいるとともに、学生は郷里に散って運動は中断した。この点、昔も今もかわらぬ学生運動の法則である。そして九月に登校したときには、学内の様相は一変していた。すでに火は消えており、かきおこそうとする者には、大学当局が弾圧をもってのぞんだ。
 敗北はあきらかであった。新聞の投書欄で、ささやかな腹いせをするのがせいいっぱいであった。
 
 「講師求む、法律を多少理解する者、研究の自由なきも、破格優遇、地位安固、講義は国定教科書による」(『大阪朝日』京都版)
 そして学生たちは、カフェーで一杯ひっかけて、軍歌「戦友」の替歌を放唱しながら京洛の巷をさまよった。
 
  ここはお江戸を何百里
  離れて遠き京大も
  ファッショの光に照らされて
  自治と自由は石の下

  思えば悲し昨日まで
  真先かけて文相の
  無智を散々懲らしたる
  勇士の心境変われるか

 学生の支援こそあったが、京大法学部は自ら象牙の塔に孤立してたたかった。教授会を構成する正規の教授だけの問題であると限定し、他をたのまぬという方針をつらぬいた。助教授も学生も、他学部教授会も、まして他大学も、こちらからは応援を求めぬ、自力で文部省とたたかう、それが大学の自治だ、という態度で一貫して玉砕した。それにしても、他学部も他大学も、個人としては同情を表明するものはあったが、組織的支援の態勢をとらず、京大法学部を見殺しにした。東大法学部の動向が注目されたが、一片の声明に接することもできなかった。これら三十年前に日本の大学におこった事実は、今日の目からみると、まことにいたましい。あと味の悪い事件であったにちがいないとともに、今日のわれわれにとっても、あと味がよくない。
 しかし少数ではあったとはいえ、純理をつらぬいて一歩もしりぞかなかあった大学人があったというすがすがしい事実は、日本の大学自治の伝統として、いまに生きている。当時、学生としてこの戦前最後の大衆闘争に情熱をかたむけたひとびとはいまも語る。不幸な事件であったが、痛切な実践的教育であった。人間の出所進退にについて、生涯を左右する教訓を得た。その意味で滝川事件は、その後のわが人生を方向づけた。
 1934(昭和九)年、事件一周年に、熱血派の学生、平岡学らは、京大法学部の建物に「想起せよ、五・二六!」と大書した垂れ幕をかかげた。そして一年の停学処分を受けた。こうして軍国主義が階段をのぼるのに反比例して、大学の転落は加速度を増した。美濃部博士の天皇機関説攻撃、東大矢内原忠雄、大内兵衛教授らの追放、河合栄治郎教授事件等々、大学の自治と学問の自由の長い墓標の列が立ちならぶことになった。
 それにやっと終止符をうたれたのは、1945年八月であった。闇の閉ざされていた日本の大学は、にわかに光につつまれたように見え、ひとびとは受難の先輩があたたかい椅子をとりかえしたことをよろこんだ。しかし、それから二十年たった今日、京大滝川事件の思い出がふたたび大学人の心のかげりとなりはじめているのではなかろうか。
                                                                                          《塩田庄兵衛》


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