カイロ宣言やポツダム宣言それ自体の中には、独島や竹島についての記述はないが、「日本から返還、また日本が追放されなければならない地域」として、日清戦争以後、日本が中国から奪った地域を含んでいることを考えれば、下記のように、竹島が「日本が暴力と貪欲によって侵奪したすべての地域」の中に含まれるとすることは不思議ではない。「史的解明 独島(竹島)」愼鏞廈<著>韓誠<訳>(インタ ー出版)からの抜粋である。
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第11章 日帝下の独島とカイロ宣言、ポツダム宣言の領土条項
2 カイロ宣言領土条項
第2次世界大戦の戦勢が連合国に有利に展開し、勝利が目前に迫ってくると、米国大統領ルーズベルト、英国首相チャーチル、中国主席・蒋介石らが1943年11月20日、エジプトのカイロに集まり、戦後処理問題を協議した。このカイロ会談では、日本の敗戦後の、韓国および日本の領土問題について、見解の一致をみたが、その一部をここに引用してみよう。
「上記、連合国の目的は、日本から1914年、第1次世界停戦以後、日本が獲得あるいは占領した太平洋のすべての島を奪還すると同時に、満州、台湾、澎湖島など、日本が中国から奪った一切の地域を中華民国に返還することにある。また日本が、暴力と貪欲によって侵奪したすべての地域から日本を追い出すことである。
上の三大国は、朝鮮の民衆の奴隷状態に注意を払い、適当な時期に朝鮮が自由を取り戻し、独立するよう決議した。」
上のカイロ宣言では、日本から返還、また日本が追放されなければならない地域として3カ所を規定している。すなわち、①米国と英国の立場を反映し、1914年第1次世界大戦以降、日本が獲得あるいは占領した、太平洋上のすべての島、②1894年~1895年、日清戦争以後、日本が中国から奪った満州、台湾、澎湖島など、③日本の暴力と貪欲によって侵奪したすべての地域である。そしてこの宣言は、次に韓国の独立を約束した。
ここで韓国の領土は、③の”日本の暴力と貪欲によって侵奪したすべての地域”の部類に入り、その上限は1894年~1985年の日清戦争時、中国から日本が奪った領土から、日本を追い出さなければならないように、単に1910年からばかりでなく、それ以前においても日本が侵奪した領土があれば、日本は追い出されなければ成らないのである。
・・・(以下略)
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3 ポツダム宣言領土条項
カイロ宣言は、米国、英国、中国の3大連合国による共同宣言であり、それ自体が日本を拘束するものではなかった。
ところが、その後1945年7月26日の米国、英国、ソ連の”ポツダム宣言”を日本が8月14日に無条件受諾し、同9月2日には無条件降伏の文書に調印した。ポツダム宣言の第8項目にある”カイロ宣言のすべての条項が実行されるであろうし、日本の主権は、本州、北海道、九州、四国と我々が決定する諸小島に限られるであろう”という規定によって、日本領土を規定する国際的文書になったのである。
日本は1945年の”ポツダム宣言”、1943年の”カイロ宣言”に拘束されると同時に、またこれらの宣言に対して義務を持つに至った。
ポツダム宣言によって戦後の日本の領土は”本州、北海道、九州、四国と連合国が決定する諸小島”と明確に限定された。したがって、独島が日本領になるためには、”連合国が独島を日本領と規定すべく”条件がここではっきりと示されていなければならない。
しかし連合国が独島を日本領と規定したこともないばかりか、むしろ独島を日本が何十年も前に韓国から侵奪した島であるとみなしていたのである。
・・・(以下略)
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。読み仮名は半角カタカナの括弧書きにしました(一部省略)。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。
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第11章 日帝下の独島とカイロ宣言、ポツダム宣言の領土条項
2 カイロ宣言領土条項
第2次世界大戦の戦勢が連合国に有利に展開し、勝利が目前に迫ってくると、米国大統領ルーズベルト、英国首相チャーチル、中国主席・蒋介石らが1943年11月20日、エジプトのカイロに集まり、戦後処理問題を協議した。このカイロ会談では、日本の敗戦後の、韓国および日本の領土問題について、見解の一致をみたが、その一部をここに引用してみよう。
「上記、連合国の目的は、日本から1914年、第1次世界停戦以後、日本が獲得あるいは占領した太平洋のすべての島を奪還すると同時に、満州、台湾、澎湖島など、日本が中国から奪った一切の地域を中華民国に返還することにある。また日本が、暴力と貪欲によって侵奪したすべての地域から日本を追い出すことである。
上の三大国は、朝鮮の民衆の奴隷状態に注意を払い、適当な時期に朝鮮が自由を取り戻し、独立するよう決議した。」
上のカイロ宣言では、日本から返還、また日本が追放されなければならない地域として3カ所を規定している。すなわち、①米国と英国の立場を反映し、1914年第1次世界大戦以降、日本が獲得あるいは占領した、太平洋上のすべての島、②1894年~1895年、日清戦争以後、日本が中国から奪った満州、台湾、澎湖島など、③日本の暴力と貪欲によって侵奪したすべての地域である。そしてこの宣言は、次に韓国の独立を約束した。
ここで韓国の領土は、③の”日本の暴力と貪欲によって侵奪したすべての地域”の部類に入り、その上限は1894年~1985年の日清戦争時、中国から日本が奪った領土から、日本を追い出さなければならないように、単に1910年からばかりでなく、それ以前においても日本が侵奪した領土があれば、日本は追い出されなければ成らないのである。
・・・(以下略)
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3 ポツダム宣言領土条項
カイロ宣言は、米国、英国、中国の3大連合国による共同宣言であり、それ自体が日本を拘束するものではなかった。
ところが、その後1945年7月26日の米国、英国、ソ連の”ポツダム宣言”を日本が8月14日に無条件受諾し、同9月2日には無条件降伏の文書に調印した。ポツダム宣言の第8項目にある”カイロ宣言のすべての条項が実行されるであろうし、日本の主権は、本州、北海道、九州、四国と我々が決定する諸小島に限られるであろう”という規定によって、日本領土を規定する国際的文書になったのである。
日本は1945年の”ポツダム宣言”、1943年の”カイロ宣言”に拘束されると同時に、またこれらの宣言に対して義務を持つに至った。
ポツダム宣言によって戦後の日本の領土は”本州、北海道、九州、四国と連合国が決定する諸小島”と明確に限定された。したがって、独島が日本領になるためには、”連合国が独島を日本領と規定すべく”条件がここではっきりと示されていなければならない。
しかし連合国が独島を日本領と規定したこともないばかりか、むしろ独島を日本が何十年も前に韓国から侵奪した島であるとみなしていたのである。
・・・(以下略)
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。読み仮名は半角カタカナの括弧書きにしました(一部省略)。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。
投稿恐れ入ります。
>ほんとに、米国は日本が近隣諸国と友好関係に入れないように、戦後仕組んだと思います。
これが真実だろう、と私も思います。アメリカが世界支配を継続するためには、要所要所にトラブルがなければならない、という判断があったのではないかと思います。
日中韓が真に手を組んで「東アジア共同体」のようなものを作ると、いよいよアメリカは没落の坂道を転げ落ちることになるので、こうした問題を利用して、いろいろ裏工作をし、歯止めをかけているのではないか、と想像したりします。尖閣問題もそうした流れの中にあるのではないか、と思いながら見ています。そう考えれば、石原都知事が尖閣購入を、アメリカで発表したことも納得できるのです。
カイロ宣言を受けてのポツダム宣言、そして降伏文書から、サンフランシスコ条約なんですから、それらを日本が受け入れている以上、内容に従ってきたにすぎません。
吉田元首相が、国後・択捉が南千島に含むと公の場で発言している以上、歯舞・色丹の2島返還が関の山です。
竹島は、韓国が李承晩ラインを引いた時に米国が煮え切らない態度を取ったことが今に至ります。尖閣は、沖縄返還時に尖閣が沖縄に含むはずのことを、アイゼンハワー、ケネディ政権後のニクソン政権時のキッシンジャーがうやむやにしたことに端を発します。
ほんとに、米国は日本が近隣諸国と友好関係に入れないように、戦後仕組んだと思います。
1951年7月19日、駐米国韓国大使は米国国務省のダレス顧問と会談し、講和条約に「独島は韓国領」との文言を盛り込むよう要請します。しかし米国は「独島、もしくは竹島、リアンクール岩として知られている島については、我々の情報によれば、日常的には人の居住しないこの岩礁は、韓国の一部として扱われたことはなく、1905年頃からは、日本の島根県隠岐島庁の管轄下にありました。この島について、韓国によりこれまで領土主張されたことがあるとは思われません。」との回答を1951年8月10日付けの公文で伝えてきました。いわゆる『ラスク書簡』といわれるものです。事実は、連合国は竹島を日本の領土と認めていたのです。これは米国政府が独自に調査した結果であり、照会先には駐米国韓国大使館も含まれていました。