下記に抜粋したのは、「葛根廟事件 残留孤児 手紙 NO1」からの続きで、戦後、残留孤児となった孫秀鳳さん(日本名:田中忍、当時4年生)が、 葛根廟事件に関して様々な活動を続けている生存者の一人、大櫛戌辰さんに当てた手紙の後半部分です。
残留孤児の一人、田中忍さんが、なぜこんな酷い体験を強いられたのか、多くの人、特に軍人・自衛隊員や政治家、それも指導的立場にある人たちに考えてもらいたいと、私は思います。
田中忍さんは小学生であったにもかかわらず、軍人や政治家が始めた戦争によって、道徳はもちろん、法もまったく意味を持たない殺し合いの世界に引きずり込まれ、地獄の苦しみを味わうことになったのではないでしょうか。だから、何があっても戦争だけは避けなければならないのではないかと、私は思います。
また、先の大戦では、ソ連兵のみならず、日本兵も、アメリカ兵も、平時なら死刑にも値するような殺戮をやったと思います。
「国民の生命と財産を守る」と言うのであれば、あらゆる方法を駆使して、戦争を避ける体制を整えることが何より大事で、「積極的平和主義」をかかげつつ、日米両政府が新しいミサイルの共同開発を進めるなどというのは、まったく方向が違うと思うのです。また、被爆国日本が、核の傘に頼り、「アメリカの核先制不使用の宣言は、抑止力を弱体化させる」などといって、核先制不使用の宣言に反対するなど、もってのほかではないかと思います。指導的立場にある人たちが、田中忍さんが味わった地獄の苦しみに思いを致せし、戦争をしない国際関係の構築に取り組んでほしいのです。
田中忍さんは、日本に一時帰国をして、きょうだいや親戚の人たちに会い、祖国日本で感動の日々を過ごしましたが、
《しかし、私には中国という、もう一つの祖国があります。貧しく、苦しい中で私を育ててくれた養父母には大きな恩義があります。かわいい私の子供たちや孫もいます。私は中国に戻りました。
兄と親戚の皆さんが、空港まで見送りに来てくれました。私は、涙をはらって、別れを告げました》
とのことで、手紙の結びに《懐かしい祖国のみなさん、さようなら》と書いているということです。
「新聞記者が語りつぐ戦争5 葛根廟」読売新聞大阪社会部(新風書房)から抜粋しました。
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孤児となって(後半部分)
東の空が白み、冷たい風が顔に当たった。周りには、たくさんの死体が転がっていた。死んだ母親の体にはい上がって、おっぱいを吸いながら泣いている赤ちゃんもいた。
《「これからどうする」。お父さんもお母さんも弟の晋も死んでしまった。多くの大人の人たちも死んでしまった。どうしたらいいのか私にはわかりませんでした。
泣き疲れて、ぼんやりと横に座っている弟と妹の顔を見ました。二人とも、じいっと私の目を見ていました。「二人を殺すか」。きのう、大人の人たちがしたことを考えましたが、私にはとても出来ませんでした。
六人の家族が、とうとう半分になってしまいました。もう頼る人はだれもなく、ここからどこへ行ったらいいのか迷うばかりで、弟妹のことや、どこかへ行ってしまったお父さん、死んでしまったお母さん、晋のことなどを繰り返し考えていました。
すると、多くの人影が近づいてきました。「おやっ」と、初めは生き残った人たちかと思いました。もう夜はすっかり明けて、丘は明るくなっていました。やってきたのは、みんな現地の人たちばかりでした。「何しに来たんだろう」と心配になり、弟と妹を引き寄せて抱き合っていました。やってきた人たちは転がっている荷物を拾い、背中いっぱいに背負って、どこかへ帰って行きました。
人は後から後から来て、拾うものがなくなると、今度は死んだ人の着物を次から次へととり始めました。中には、泣き叫ぶ子供を抱えて行く人もいました。
赤ちゃんをおぶい、弟の隆造ちゃんと一緒にいる蓉子ちゃんに、「ここにいては危ないよ。出ていこう」と声をかけ、「さあ、見つからないようにかがんで行くのよ」と歩き出しました。そしたら後ろから一人の男の子が黙ってついて来ました。後で聞いたのですが、男の子は9歳で、お父さんは出張中でおらず、お母さんはここで殺されたと言っていました。私たちは全部で七人になりました》
忍さんは、6歳の旭ちゃん、4歳の早苗ちゃんの手を引き、赤ちゃんをおぶった蓉子ちゃんも、やはり4歳の隆造ちゃんの手をとった。男の子が少し遅れて続いた。途中で拾った菓子を分け合った食べ、残りはそれぞれのポケットに入れて、子供たちはあてどなく足を運んだ。
《暑い暑い太陽が頭の上に昇ってきて、喉がカラカラに渇いてたまりません。どこへ行ったらいいのかわからず立ち止まったところ、トウモロコシ畑の中に三人の大人が見えました。急いで近づいてみると、私たちと同じように避難してきた人でしたが、知らない人でした。でも、大人について行けば、安心に思いました。一人は50歳くらいの男の人で、肩から血がいっぱい出ていて、怒ったような顔をしていました》
あとの二人は若い女の人だった。
トウモロコシ畑で出会った男女三人の大人は、田中忍さんら子供たちの足どりにかまわず、歩き続けた。
《どんどん歩く大人たちに遅れたら捨てられると思って、一生懸命について行きましたが、妹の早苗がすぐに疲れて歩けないようになりました。妹を抱こうとしたら、「あいたっ、あいたったっ」と痛がって泣き出します。服を脱がしてみると、小さな体に二つ、浅い傷がありました。
妹が「痛い、痛い」と泣くので、おじさんがとても恐ろしい顔でにらみつけて、「こらっ、なくなっ。何で泣かすのか。泣き声がソ連軍に聞こえたらどうするんだ。一緒に連れていかんぞ」ときつくしかりました。私は妹に「泣いたら捨てられるよ。がまんしてね」言って、妹をおぶってついて行きました。
とてもきつく、時々、目の前がくらくらして暗くなりました。腰の傷から血が脚を伝ってかかとまで流れ、歩く足もだんだん遅くなりました。とうとう大人たちから、500メートルぐらい離れてしまいました》
先を歩いている旭ちゃんが手を振りながら待ち、蓉子ちゃんたちも決して一定以上の間隔をあけなかった。けなげな思いやりに励まされて、忍さんは歩いた。
《やっと追いつくと、そこに水たまりがありました。汚い水でしたが、腹いっぱい飲みました。泥水がサイダーのようにおいしく思われました。顔を上げると、口や鼻からごぼっごぼっと、飲んだ水がこぼれるぐらいでした。
蓉子ちゃんがおんぶしていた赤ちゃんをおろし、防空頭巾の綿を小さく丸めて、それを水につけて吸わせました。赤ちゃんは目も開けず、泣き出す力もなく、ぐったりしていましたが、綿の玉を口につけるとチュッチュッと吸いました。何回も何回も水につけて吸わせました。》
そして出発。どこをどう歩いているのか、子供たちにはわかるはずもなく、昼の太陽に焼かれ、夜の冷気に震えながら、ただひたすら、三人の大人に従った。
やがて、線路に行きあたった。「駅は近いぞ」という声に、忍さんたちは「汽車に乗せてもらえる」と喜んだ。だが、駅に近づくと大勢の人が見え、おじさんが「畑の中に入れ」とどなった。あわててトウモロコシ畑に入ってしばらくすると、「ここで待っていなさい。三人で様子を見てくるから」と言って、大人たちは畑を出て行った。
《「すぐに帰ってくるからね。動かないでいるのよ」
女の人が、私たちにそう言いました。私と蓉子ちゃんは返事のかわりにちょっと頭を下げました。
でも、何となく、もう二人は戻って来ないような気がしました。
黒い雲が空を覆い、稲光がピカッと走りました。急に冷たい風が吹き、トウモロコシ畑の葉がザワザワと音を立てて揺れだしました。続いて、雷の音と一緒に大粒の雨がザーッと降ってきて、トウモロコシの葉も折れんばかりの、大きな音をたてました。
その時でした。畑の外の方で「ダッダッダッー」と銃声がしました。「あっ、もしかしたらおじさんたち三人が…」と思いました。
私は蓉子ちゃんと二人で赤ちゃんや弟、妹をかこんで上からかぶさって雨よけになりました。ついてきた男の子がトウモロコシの木を折って、葉のところを私と蓉子ちゃんの上にかぶせてくれました。畑の中がいっぺんに池のようになってしまう大雨でしたが、間もなくあがり、すぐに夜がきて、私たちもそこで眠ってしまいました。
目を覚ました時はもう、暑い太陽が空高く昇っていました。すぐそばにいた弟の顔が、蚊に刺されておばけのようにはれ上がっていて、びっくりしましたが、みんなも同じように体中を蚊にくわれていました》
土砂降りの夕立で、池のようになったトウモロコシ畑の中に寝て、翌日、田中忍さんらは、再び歩き出しました。泥濘に、足はたまらなく重く、いつしか、靴も靴下も脱ぎすてていた。七人の子供たちは、もう丸4日間、水以外にはほとんど何も口にしていなかった。
焼けつくような日差しの下を、よろよろ、とぼとぼと歩いた。再び駅の見えるところに出た。だが、近寄ってみると、その駅もソ連兵でいっぱいだった。あわてて、トウモロコシ畑に逃げ込んだ。
《この先、どうしてよいのか。考えても考えても不安でなりませんでした。だんだん力がなくなっていく弟や妹たち。目を覚ましていても、どこを見ているのかわからないような、ぼんやりとした目になっていました。
どんなにか、おなかがすいていることだろう。畑の中にじっとしていては死んでしまう。何か食べるものを探してこなければ…》
また激しい夕立。稲妻が光り、雷が鳴った。やがて、雨があがり、畑の中に湿った暑熱が押し寄せてきた。
《夕暮れとなり、トウモロコシ畑が赤く染まっていきました。とにかくもう一度、畑の外に出て様子を見ようと起き上がりましたが、くらくらっとめまいがして、体中の力が全部抜けてしまったようでした。
死んだように横になっている弟や妹たちが心配で起こしてみましたが、やっと一人を起こしてから次を起こしているうちに、先に起こした方が倒れて寝てしまうのです。何日も、水ばかり飲んでいたから自分の体を持ち上げる力もなくなっていたのです。
力をふりしぼって、畑の外に出てみました。畑に逃げ込む時に見た駅の近くに家があり、少し進んでよく見ると、家の裏に三人の大人が座っていました。
「あっ!」思わず隠れようとして、見つけられてしまいました。走る力もないので逃げることもできず、「しまった」と思いながら畑の中に戻り、みんなの横に座っていました。
三人の大人がすぐにやってきました。中国の人で、駅の人でした。私は横に寝ている弟妹たちのおなかのところを指さして、口に物を入れるまねをして食べ物を頼みました。三人は何か話しながら、駅の方へ帰って行きました。
私と蓉子ちゃんは、不安と恐ろしさに、しっかりと手を握り合ってブルブル震えていました。小さな子供たちをどうしたら助けられるか、心配でたまりませんでした。
しばらくして、今度は十人の大人がやってきました。その中に女の人が二人いて、ほかの人と一緒に、寝ている弟や妹の顔を一人ひとり、のぞきこんでいましたが、一人の女の人が弟の旭を抱き上げようとしました。私は血がいっぺんに頭にのぼったようになり、弟にしがみついて引き戻しました。
女の人はびっくりして、ほかの人に向かって大きな声でしゃべり、続いて手まねで弟や赤ちゃんを指さしながら、何か言い出しました。どうやら、私たちを一人ひとり助けて預かる、と言っているようでしたが、きょうだいがばらばらに引き離されることがとても悲しく、蓉子ちゃんと顔を見合わせて、下から大人たちをにらんでいました。それが私たちの精いっぱいの抵抗でした。中に一人、日本語を話せる人がいて、「私たちは悪い者ではない。親やきょうだいを失った小さなお前たちがかわいそうで助けにきたのだ。ここにいる人たちは子供のいない人が多い。心配無用だ」と同じことを何回も繰り返しました》
みんな優しい目をしていたと忍さんは記している。
田中忍さんの。大櫛さんに宛てた手紙はいよいよ、彼女の運命の核心に入っていく。
《十人の中国人を前にして、「どうする?」「ねえ、どうしたらいい」とわたしと蓉子ちゃんは目と目で問答しました。弟や妹たちを見ると、もう目を開く力もないようにぐったりして、やせた胸とおなかで「ハァー、ハァー」と苦しそうに息をしているだけです。とうとう、私と蓉子ちゃんは、ペコリと頭を下げました。
中国の人たちはそれまでに勝手勝手に決めていたのでしょう。自分の欲しいと思う子供を、それぞれおんぶして行きました。
弟が連れて行かれる時、体中が絞られるように悲しくてなりませんでした。蓉子ちゃんの弟の隆造ちゃんと赤ちゃんも別々に連れてゆかれました。蓉子ちゃんはひとりぼっちの男の子と一緒でした。私と妹は、日本語の話せるおじさんと、最後に畑を出ました。
胸をキリキリと刺されるように別れが悲しかったのですが、不思議なことに泣けてはきませんでした。弟たちも黙っておんぶされたり、抱かれたりして行きました。
私と妹の早苗が連れて行かれたのは、部屋といっても一つだけの家でした。
おじさんは「腹がすいているだろう。すぐつくってやるからな」と言って、麦の粉のもちと大豆の煮たのを食べさせてくれました。妹に「さあ、食べなさい」と言って、私ももちを口に入れると、喉につかえて苦しくて死ぬかと思いました。おじさんが笑いながら水を飲ませてくれ、背中をさすってくれました。
「ゆっくり、ゆっくり食べるよ。まだたくさんあるからな」。そのもちの何とおいしかったことか。少し塩味のするもちでしたが、今もその味は忘れられません。
腹いっぱい食べて、ふーっと気の抜けたようにぼんやりとしていた時、弟を連れて行ったおばさんと弟が一緒にやってきました。弟は、着ていたぼろぼろの汚れたシャツのかわりに、長い中国の服を着せられていました。私は弟をそばに引き寄せ、残っていたもちをやりました。「旭、食べなさい」。弟は、もちを食べませんでした。どうしたの、と聞くと、おばさんの家で高梁のご飯を食べたということでした。
おばさんは、おじさんと話していましたが、間もなく弟を連れ、私たちに笑顔を向けて帰りました。
その晩、おじさんは出て行き、私と妹の二人だけになりました。家の戸には、外からカギがかけられていました。「あっ、閉じこめられた」と、妹と二人、真っ暗な部屋で抱き合って恐ろしさに震えていましたが、おなかがいっぱいになったのと、久しぶりの家の中です。気持ちが次第にゆるみ、二人とも眠ってしまいました。
目が覚めた時は、すっかり明るくなっていました。おじさんは栗のご飯を炊いてくれていました。
三人でご飯を食べている時、おじさんは次のような話をしました。
「ソ連の兵隊が駅に来るというので、われわれも若い女や子供たちをみんな、田舎の親類や知人のところに隠した。ところで、日本は、この15日に中国やソ連に負けた。葛根廟付近で日本人の大人はみんな殺されて、だれも残っていない」
おじさんの話で、私たちが助けられたのは、葛根廟の丘を出てから4日目の昭和20年8月17日で、おじさんは駅に勤めている30歳の孫という人だとわかりました。
と同時に、もう頼りになる日本人の大人たちはだれもいなくなったんだと、寂しくてなりませんでした。》
こうして、忍さんの残留孤児としての生活が始まったのだった。
孫という日本語のできる中国人駅員に、妹の早苗ちゃんともども引き取られた田中忍さん。孤児の運命を綴って手紙は続く。
《孫おじさんは、優しい人でした。でも、2日くらいすると、おじさんは二人の農民を連れてきました。妹を連れにきたのでした。私は泣きながら妹を抱きしめ、孫おじさんをにらみつけました。弟が連れて行かれ、今度は妹までも…。
孫おじさんは「あす、お前を、私の家族がいる田舎へ連れて行こう。そこには、、お前の弟の家も、今から連れていく妹の家もあるから心配するな。私には、ほかにも子供がいるから、何人も一緒に面倒をみるわけにはいかんのだ。わかってくれな」と優しく話してくれました。
しかし、妹が農民と出ていくと、歯をくいしばってこらえていた悲しみが、一度に噴き出てきました。
翌日、孫おじさんは私を田舎に連れて行きました。奥さんと四人の子供に初めて会いましたが、奥さんは私を見て孫おじさんに怒りました。私は、孫家には四人も子供がいるのに勝手にまた一人、連れてきたことを怒ったのだと思いました。おじさんは口の中でぶつぶつ言っていましたが、忙しいからと駅へ戻って行きました。
田舎にも、ソ連の兵隊がやってくることがありました。女の人を探したり、ニワトリやブタを盗んだりするので、そんな時はみんな急いで畑の中に隠れました。
ほうっていた私の腰の傷が一日一日悪くなり、痛みがひどくなって、それが悲しさや寂しさと重なり夜も眠れず、しかも、言葉が通じないので、私はいつの間にかだんまりになってしまいました。
孫さんのお奥さんと子供はここで、趙さんという人に世話になっていました。趙家の家族は6人。子供が4人いました。4歳と2歳の男の子は裸で、趙さん夫婦もボロボロの着物を着て、腰をわら縄でくくっていました。世話をしている趙家の生活も大変貧しかったのです。
でも、趙おじさんは私の傷を心配してくれて、毎日、お湯で洗って、竜の骨をつぶしたものだという粉末を傷につけてくれました。何か大きな動物の骨だったのでしょうが、だんだん痛みもなくなっていきました。
九月になると、朝晩は寒くてなりません。駅にいたソ連兵が移動したので、孫おじさんが家族を迎えにきました。私は、傷がまだ本当によくなっていないといういことで、趙家に残されました。
はじめはこわい顔をしていましたが、孫さんの奥さんは、私をとてもかわいがってくれ、私も慕っていましたから、別れが悲しくてなりませんでした。その思いを察してか、孫おじさんは「傷が治ったらきっと迎えに来るからね」と言ってくれました。
寂しくてだんまりになった私を、趙おじさんが劉家に連れて行ってくれました。50歳ぐらいの両親と、30歳ぐらいの息子の三人家族で、妹の早苗は劉家の子供になっていたのです。早苗は私を見て、ワァーワァー泣きながら走ってきて飛びつきました。私はしっかりと抱き上げました。
劉家では妹をわが子のようにかわいがってくれていたので、ホッとしましたが、それでも離れたくありません。同じ村だからいつでも会えると妹と自分に言い聞かせ、趙家に帰りました。
腰の傷は二ヶ月余りで治りました。ある日、孫おじさんが私を連れに来てくれ、天にも昇る心地でした。
その日は、弟の旭を引き取っている李家の奥さんも弟を連れきてくれました。李家も子供がなく、夫婦でかわいがってくれていました。しかし、弟は毎日、泣いてばかりいるということでした》
腰の傷が治って、孫さんの家に帰った田中忍さんは、掃除や炊事、畑の草取り…と家の仕事を一生懸命手伝った。そして、奥さんが、動物やそれぞれの品を指さして教えてくれる中国語を、一つずつ、覚えていった。
同級生の小山蓉子ちゃんは、孫さんの隣の「于」という家に引き取られていた。弟の隆造ちゃんも、近くの「朱」という家で育てられていたが、転居後に行方がわからなくなり、蓉子ちゃんがおんぶしていた赤ちゃんは蒙古人にもらわれていった、という。
《私たちようだいは、会おうと思えば 会える距離に住んでいたわけですが、蓉子ちゃんたち姉弟は遠く離ればなれになって、かわいそうでした。そして蓉子ちゃんも、義父の転勤で、私たちのところを離れて行きました。その後もあちらこちらに動いたようですが、やがて、病気で亡くなったと聞きました》
彼女の死を知った日、一晩泣き明かした。
《その次の晩、私は蓉子ちゃんの夢を見ました。蓉子ちゃんはとても寒そうにして、私の服を引っ張るのでした。「どうしたの、寒いの?」と聞いても、返事をしないで、ただ黙って引っ張るばかりでした。
ハッとして目覚めた後もそのことが忘れられず、孫おじさんや奥さんに話しました。二人はとても悲しそうに黙っていました》
忍さんは、それから1年の半分を孫さんの家、残りの半分を趙さんの家で、と交互に過ごした。しかし、趙家の場合、《奥さんは私にあまり良い気持ちを持っていなかったようで、いつも不機嫌でした。夫婦げんかが多くなり、趙さんは奥さんを棒でたたいたり、殴ったり、ののしったりしました。すると、また奥さんは私につらく当たるのでした》という状態だった。
一枚の布団もないほど貧しい趙家では、一人増えた忍さんを育てるのが大変だったのだ。それは忍さんにもよくわかっていた。貧しい生活は構わないが、奥さんの顔を見るのもいやになり、忍さんはもう一方の孫おじさんに「趙家を出たい」と相談しました。おじさんは「趙家では、お前が大きくなったら長男の嫁にしたいと考えているんだよ」と言って許してはもらえなかった。
《年月が流れ、中国語も覚えましたが、奥さんからひどい悪口や小言を言われると、中国語がわからなかった時よりつらくてなりませんでした。いっそ死んだ方が…と洮児(トウル)河へ行き、流れを見ながら涙があふれました。しかし、別れている弟や妹の顔が目の前に浮かんできて、死ぬことはできませんでした》
こうした悲しさ、つらさも一年の半分を過ごす孫家で暮らすうちに忘れた。忍さんは「優しい孫夫婦を養父母と決め、何でも手伝い、仕事を覚えていった」という。寒い冬の間、細く、小さなランプの炎のそばで、養母から一針一針、布靴や綿入れ服の縫い方を習った。夜遅くなって眠くなると顔を洗って、十二時、一時まで頑張った。
いつの間にか、言葉も不自由なく話せ、家や畑の仕事も家畜の世話も一人でできるようになった。気がつくと、忍さんは15歳、立派な娘に成長していた。「嫁さんに」という話も舞い込んだが、忍さんは「いままで育ててもらった趙家の申し出を断ることは出来ない」と断り、三年後、趙家の長男と結婚した。
それまでにも、他の中国人の大人の人や子供たちからは「日本小鬼子(リーベンショウクイズ)」といじめられることは多かったが、結婚すると村の人たちは忍さんの背中に意地悪な、はやし言葉を投げつけた。一生に一度の結婚まで悪口を言って、と忍さんはくやしさに、しばしば涙を流した。
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