下記に抜粋したのは、戦後、残留孤児となった孫秀鳳さん(日本名:田中忍、当時四年生)が、 葛根廟事件に関して様々な活動を続けている生存者の一人、大櫛戌辰さんに当てた手紙の前半部分です。
戦争というものの残酷さを思い知らされる内容です。人と人が殺し合う戦争が始まれば、「国際法」が考慮されることなく、幼い子ども達もこうした地獄の苦しみを味わうことになることを忘れてはならないと思います。
ソ連軍戦車隊が、婦女子90パーセント以上の邦人避難民の列を見て、非戦闘員の集団であることを把握できなかったとは考えられず、したがって、葛根廟の丘におけるその襲撃は、どう考えても国際法違反だったと思います。
また、戦車から降りて、無抵抗の非戦闘員を直接銃撃している事実からも、国際法違反を否定することはできないと思います。でも、葛根廟事件における戦争犯罪で、裁かれた人は一人もいません。 戦争犯罪で裁かれるのは、敗戦国の人間に限られ、日本は葛根廟の丘における襲撃事件を、戦争犯罪として訴えることすらできない立場にあるかのようです。
人と人が殺し合う戦争が始まれば、国際法が無視されることは、歴史が証明しているように思います。多数の非戦闘員の命を奪うことが分かっているのに、アメリカは広島にウラン型原爆( リトルボーイ )を、そして、長崎にはプルトニウム型の原爆(ファットマン)を投下しました。
トルーマンンアメリカ大統領は、広島・長崎への原爆投下後、「百万人のアメリカ兵の生命を救うために、原爆を投下したのだ」と語ったことはよく知られています。でも、当時アメリカ軍の首脳は、誰も百万人の犠牲者など考えていなかったし、そんな数字を挙げたこともなかったといいます。百万人の犠牲者という数字は、原爆投下後に高まった批判や非難の声をかわし、原爆投下を正当化するために創作されたものだというのです。また、原爆投下の前に、日本の降伏は確実な状況にあったという事実を、多くの歴史家や研究者が明らかにしています。だから、アメリカは多数の非戦闘員が犠牲になることを承知で、投下する必要のない原爆を、予告なく、突然二発も投下したということで、国際法に違反したといえるのではないでしょうか。でも、アメリカでは、いまだに「原爆投下は、百万人のアメリカ兵の生命を救った」と多くの人に信じられており、戦争犯罪とはされず、誰一人裁かれてはいないのです。
ふり返れば、戦争が、交戦国の人たちの憎しみを相互に拡大させて、人間を狂気の世界へ引きずり込み、敵国の人間であれば、戦闘員か非戦闘員かに関わりなく殺してもよいかのような国際法違反の殺害行為がくり返されてきたように思います。
戦時中、「鬼畜米英」の教育を徹底した日本が、現在は米国が最も大事なパートナーであるとしている事実も忘れてはならないことではないでしょうか。政治的プロパガンダを抑えて、真実が共有され、いかなることがあっても戦争にならないようにしなければならないと強く思います。
孫秀鳳(日本名田中忍)さんの手紙は、そうしたことを考えさせてくれるものだと思います。
下記は「新聞記者が語りつぐ戦争5 葛根廟」読売新聞大阪社会部(新風書房)からの抜粋です。
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孤児となって
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とりあえずの聞き取り調査が済んでそれぞれのカードを見せてもらうと招待所にやってきた7人は、いずれも日本にいる縁者と連絡がとれており、しかも、すでに里帰りを果たしている人たちばかりだった。最も調査を必要とする人たちは、来ることが出来なかったのだ。やはり、厚い壁があるのだ、と思いながら屋地(同行記者)は改めてカードに見入った。「希望」という欄には、例外なく「死ぬまでにもう一度、祖国日本を見てみたい」と書かれていた。孫秀鳳(日本名田中忍)さんのカードにも、同じ文字が見えた。彼らの望郷の思いの深さ、熱さ、強さを思いながら、屋地は大櫛さんのもとに送られてきた田中さんの手紙を再び思った。
彼女はどのようにして孤児になり、また、戦後を生きてきたのか。しばらくはその手紙に語ってもらおう
《役所関係の仕事をしていたお父さん(文雄さん、当時40歳)が、通化へ転勤になって半年もたたないうちに、また興安に戻ったのは、1945年の7月でした、。汽車は、兵隊さんでいっぱいでした。兵隊さんたちの顔はみんな沈んでいて、暗い感じで、子供心にも私は何となく不安を覚えていました。
興安に戻って国民学校四年生に入りました。通化に行く前に一年から三年までいたので、顔見知りの同級生とはすぐまた仲良しになりました。一ヶ月くらいたった8月のある朝のことでした。新聞を見ながらラジオを聞いていたお父さんが突然、「大変なことになったぞ!」と大きな声で言って、お母さん(露子さん、当時37歳)に何やら話していました。
まだ通化引っ越しの荷物が届いていなかったので、そのことかな、と思いながら学校に出かけて行きました。夏休みでしたが、登校の連絡がきたのです。
学校に着くと、すぐ運動場に全員集合させられました。いつもの朝礼かと思って、岡久美子さん(孤児、面接調査に参加)たちとガヤガヤ言いながら集まっていました。
台の上に上がられた小山司六校長先生が(葛根廟事件で死亡)がおっしゃいました。――
校庭に集合した興安在満国民学校の児童を見回して、小山司六校長は話し始めた。
「みなさん、今未明、ソ連はわが国に宣戦を布告してすでに国境を突破し、こちらに攻めてきています。阿爾山(アルシャン)方面でわが関東軍が勇敢に反撃していますが、ソ連軍は強力な機械化部隊です。この興安もやがて戦場になるかも知れません。みなさんはただいまからすぐに家に帰り、お父さんやお母さんの言うことをよく聞いて日本人として恥ずかしくない行動をとってください」
話の終わりの方で、校長は目に涙をにじませた。そして、東方を向いての皇居遙拝の後、国旗が降ろされた。大櫛さんにあてた田中忍さんの手紙にある当時の記憶は、細部まで鮮やかだった。
《いつもと違う先生方の緊張された顔に、何か恐ろしいことが目にみえないところから近づいてきているようで不安でなりませんでした。
「先生さようなら」
同級生のみんなも不安だったのでしょう、走って家に帰りました。思えば、それが先生や友だちとの永遠の別れになったのでした。8月9日朝のことでした。
家に帰ってお母さんに「ねえ、どうなるの。ソ連が攻めてくるの。大丈夫よねえ、日本の兵隊さんがいるから、ねえ、お母さん」と話しかけると、「忍ちゃん、少し黙りなさい。お母さんは忙しいのだから」と、あまり私の話を聞いてくれませんでした。夜遅く帰ってきたお父さんはとても疲れているようでした。
次の日から、ソ連の飛行機が一日に何回も飛んできて、興安の空をぐるぐる回り、爆弾を落としました。街のあちこちで、ドカーン、ドカーンという大きな音とともに、真っ黒い煙がもうもうと空に舞い上がり、私は心臓がどきどきして、お母さんにしがみついていました≫
当時の忍さんの家族は、両親、弟で9歳の晋君、6歳の旭君、4歳になる妹の早苗ちゃん、それに10歳の忍さん6人だった。14歳の兄、洋さんは体が弱く、気候の温暖な日本で中学校へ、と昭和18年から、千葉の親戚の家に預けられていた。空襲のたびに、母露子さんは子供たちに綿入れの防空頭巾をかぶせ、庭に掘った防空壕に避難させながら、「洋がいてくれたら…」とこぼしたという。
≪そんな日が2日ぐらい続きました。その間、多くの人たちが馬車やトラックなどで街を出て行きました。いままで中国人や蒙古人に威張っていた人や、ツンとすましていた日本の女の人たちが汗まみれになって、怒ったように目をつり上げ、口ぎたなくどなったり、わめいたりしていました。道路にも駅前にも捨てられた荷物がごろごろしていました。
いつの間にか、街で見かけていた日本の兵隊さんが一人もいなくなってしまいました。私たちを守るため、みんな戦争に出て行ったんだなと思っていました≫
だが、事実は、日本軍はこの時、戦争に行っていない。いち早く、兵隊と家族、家財道具をトラックなどに満載して南へ退却していったのだった。
≪3日目の昼でした。朝早く家を出て行ったお父さんが駆け込むように帰って来て、お母さんに「おいっ!すぐに街を出るんだ。荷物はできるだけ少なくして、家はもうほうっとけ。子供たちを頼んだぞ」と、どなりつけるように言って、すぐまた走って出て行きました。
「お父さん、どこへ行ったの。いつ帰ってくるの」と聞くと、お母さんは「うるさいね。黙ってなさい」としかりつけ、だんだん無口になってゆきました。≫
母は、大あわてでご飯を炊き、おにぎりを作り始めた。
興安脱出のあわただしい準備が、不安といらだちの中で進められた。
田中忍さんの手紙は続く・
≪お母さんは、大きなリュックサックにシャツやお菓子などをいっぱいに詰めて私に背負わせました。弟の晋には、私の遠足の時のリュックを背負わせ、水筒に水をいれて提げさせました。お母さんは妹をおんぶし、二つのカバンを提げました。そして、「さあ、いくよ。はぐれないように、お母さんにしっかりついて来るのよ。忍。晋と旭を頼んだよ」と声をかけ、もう薄暗くなった街に出て行きました。
街中のあちこちから3人、5人、10人とたくさんの人が急ぎ足で集まり、それからすぐ興安の東の橋を渡って行きました。私たちの前も後も、どこまで続いているかわからないほどの人の列でした。子供の泣く声や、子供をしかるお母さんたちの声があちこちでしていました。
ものを言うときついので、私も、手を引いていた弟も黙って一生懸命に歩きました。雨が降ってきても休まれません。頭から濡れながら遅れないように歩くのは、子供の足では大変でした。
いま考えてみますと、幼い弟たちがよくがまんして歩いたものと、かわいそうでなりません。しっかと握っていた弟の小さな手のぬくもりが、今でもはっきりと私の手に残っています。どんなにか辛かったろうに、一言も不平や泣き言を言わずについてきた弟の姿が浮かんできます。
興安を出て、三日目ぐらいでしょうか。暗い雨の降る夜、小さな集落に着きましたが、家の中には入れず、家の泥壁に寄りかかって休みました。お母さんたちがご飯を炊き、おにぎりにしてみんなに配っていましたが、子供たちはあまりに疲れていて、少ししか食べられませんでした。それが最後のご飯になりました。
朝まだ暗いうちに出発しました。
「急げ、遅れるなよ」「落後したら殺されるぞ」
男の人たちは何かというとどなってばかりでした。
大人は興安を出てから一日ごとに無口になり、怒りっぽくなっていきました。初めのうちは「頑張れよ」「元気を出してな」と言っていましたが、列から遅れて苦しそうにあえいでいる人がいても、大人たちはチラッと見るだけで、知らん顔して通り過ぎるようになりました。
お母さんは、おぶった妹と肩から前にも横にも提げたカバンで、とてもきつそうでした。カバンのひもとおんぶ帯が体に食い込んで、大きなおっぱいがちぎれそうになっていました。≫
汗とほこり、ぎらぎらとした目。「はあ、はあ」と荒い息を吐きながら、人々は歩き続けた。その列を真夏の太陽がじりじりと焼いた」と忍さんは書いている。
≪お姉ちゃん、水、水がほしいよ」と、二人の弟がせがみました。水筒の水を少しずつ飲ませていましたが、またすぐに「お姉ちゃん、みず」と言うので、「だめ、こんど休んだ時よ」としかりつけました。私ものどがカラカラに渇いていて飲みたかったのですが、水筒の水が少ししかなく、がまんしていました。
歩いていく道端に、シャツやカバンがどんどん捨てられていました。もうだれも拾おうとしませんでした。
お昼ごろ、列の全部が丘を越えた時でした。突然、バリバリ、バリッと、後ろの方から銃声が激しく聞こえてきて、ビューン、ビシッとたくさんの弾が飛んできました。お父さんが走って来て大きな声で「早く、早く隠れろ!」とどなりました≫
ソ連軍戦車隊の襲撃が始まった。忍さんは、母露子さんたちと一緒に夢中で大きな溝の中に転がり込んだ。
戦車のうなり。機関銃の音、絶叫と悲鳴。
「耳が破れそうで、目の前がくるくる回って、何が何だかわかりませんでした」
田中忍さんは、ソ連軍の襲撃の瞬間をそう書いている。気がついたときには、母露子さんの後ろで二人の弟としっかり抱き合っていた。
《そのうちに、お父さんがすーっと立って、どこかへ行こうとしました。私はお父さんから離れるのが怖くて、お父さんの足をつかみ、「お父さん、危ない。行ってはいや」と一生懸命に引っ張りました。お父さんは私やお母さんの顔をじっと見てから、私の手を払いのけて「いいか、じっとしておれよ。動くな!」と言って、溝の外へ行きました。そのときのお父さんの顔は青く、結んだ口がぴくぴくと動いていました。
「あなた!あなた!」
お母さんはたったそれだけしか言いませんでした。お父さんはそれっきり帰ってきませんでした》
銃声はますます激しく、溝に隠れていた人たちも、次々に撃たれて死んでいった。
《どれくらい時間が過ぎたのか知りません。知らない男の人が来て「みんな、あっちへ行け」と命令しました。私たち母子5人もついて行きました。多くの人がはうようにして集まって来ました。みんなガタガタと震えていました。五百人以上もいたようでした。
すると、ソ連の戦車がたくさん寄ってきて、私たちを取り囲むようにしました。黒い大きな戦車は怪物のように口を開き、中から大勢のソ連の兵隊が降りてきました。私たちを囲むようにして自動小銃で「ダッダッダッダー」と一斉に撃ち始めました。みんなばたばたと倒れ、叫び声や、耳がガンガン鳴っていました。手榴弾の爆発の中に、次から次へ飛び込んだお姉さんたちやおばさんたちもいました。
お母さんも撃たれて倒れましたが、まだ生きていました。体のあちこちから血が流れていました。上の弟の晋は撃たれて死んでいました。
その時、私は突然、後ろから突かれたように、倒れました。間もなく、体の半分の感覚がなくなったようになり、腰から血が流れ出しました。すぐに横にいた年寄りの人がよろよろと半分立ち上がり、口を大きく開けて、パタンと倒れました。恐ろしさに顔を引きつらせている妹の早苗と弟の旭に手を伸ばしました。
「お姉ちゃ-ん、お姉ちゃ-ん」。二人ともぼろぼろ涙を流して私の手をしっかりと握りました。
「泣くな」と言いましたが、私も涙がぽろぽろとこぼれました。
撃ったり剣で突いたりしていたソ連の兵隊が戦車に戻り、ゴォ-ッとほえるような轟音と真っ黒い煙を上げ、ものすごい速さで南の方に走り去って行きました。恐る恐る顔を上げると、あたり一面は死んだ人がいっぱいで、地面も血だらけでした。
溝の中から、だれかが手を振ったので立ち上がろうとして、「うっ、痛っ」、思わずしゃがみ込みました。腰から体中にビリッ、ビリリッと痛みが走りました。見ると、腰にはべっとりと血が固まっていました。「ああ、あの時、撃たれたんだ」と思い出し、よく見ると、ズボンが破れ、焦げたようになって、その下で肉が赤く裂けていました。
痛いのをがまんして、手を振っている方へ行きました。
蓉子ちゃんでした。興安在満国民学校の小山司六校長先生の長女で、私と同じ四年生でした。
「蓉子ちゃ-ん」
呼びかける私に、蓉子ちゃんは死んでいる女の人を指さして、何か話そうとしているのですが、ただ口をぱくぱくさせているだけでした。目から大粒の涙をぼとぼと落としていました》
死んだ女の人を指さして、大粒の涙を流し続ける同級生の小山蓉子ちゃん。撃たれた腰の激痛をこらえて近づいた田中忍さんは、目の前の倒れ伏す女の人を見て、ハッと胸をつかれた。
《死んでいたのは蓉子ちゃんのお母さんでした。背中には赤ちゃんをおんぶしていましたが、体の下には死んだ九歳の郁雄ちゃんを抱くようにしていました。
蓉子ちゃんと二人で赤ちゃんをお母さんの背中からおろしました。しっかり結んであったひもがなかなか解けず、そのひもをお母さんの下から引っ張り出すのが大変でした。おろした赤ちゃんを蓉子ちゃんにおんぶさせました。赤ちゃんはぐんなりしていましたが、死んではいません。
蓉子ちゃんの話では、お父さんの小山校長先生が撃たれて死んだので、お母さんが子供を全部殺そうとして急いでナイフを取り出し、一番先に郁雄ちゃんを刺した時、頭に弾が当たって死んだということでした。赤ちゃんの顔や首には、お母さんが撃たれたときの血がいっぱいついていました。
その時でした。生き残っていた人たちが自殺を始めました。自殺は手榴弾や毒薬や剣でしました。
何人もが、積み木のように重なり、ドカーンと手榴弾を爆発させて、手や足や腹が引きちぎられて死んでいきました。また、剣を握り、向き合って、両方から「一,二,三」と叫んで胸を刺し、「ギャ-ッ」と悲鳴を上げて血だらけとなり、倒れてからも死ねず、胸に剣を刺したまま「ウーン、ウ-ン」と地面をかあきむしって苦しんでいる人もいました。
よそのお母さんたちは狂ったようになって、自分の子供を探し、生きている子の首を細いひもやタオルで結び、他の大人の力を借りて、二人で引っ張って殺していました。子供たちは足をばたばやさせて暴れていましたが、すぐに動かなくなってしまいました。そして、お母さんたちは、死んだ子供の顔に自分の着ているシャツやタオルを掛けてから、薬を飲んだり、血の付いた剣で自分の喉を切ったりして死んでいきました。
陽が西に傾き、空が赤く染まったころ、生き残っていた人たちが何人かずつ、どこかへ行き始めました。
体のあちこちを機関銃で撃たれたお母さんは起き上がれず、「忍ちゃん、旭ちゃんと早苗ちゃんを連れて、あの人たちについていきなさい。頼んだよ」と苦しそうに喉をゼ-ゼ-いわせながら、一生懸命に私に言いました。私は、お母さんの青い顔を見ながら、「いや、いや」と頭を振りました。私はとても悲しくて、言葉が出ませんでした。
夕暮れとなり、だんだん暗くなってきました。お母さんはとても苦しそうに「水…水…」と力弱く私に言いました。死んでいる人たちの水筒を探しましたが、どれもこれも空っぽでした。
やっと底に少し残っている水筒を見つけ、「お母さん、ほら、水よ…」とお母さんの肩を起こそうとしましたが、石のように重くて起こせませんでした。やっと首だけを起こして、水筒の口をお母さんの口につけましたが、もう自分で飲む力はありませんでした。手のひらに水を移してお母さんの口になすりつけるようにして飲ませました。
風が吹いてきて寒くなりました。毛布を拾ってきてお母さんにかけて、私たち子供三人はその横に寝ました。
蚊がブンブン飛んできて顔や手足を刺しましたが、みんな疲れていて、蚊の刺すままにしていました。
野良犬の遠吠えが聞こえたほかは、丘はしーんと静まり返っていました。空には星が光っていて、私はいつの間にか眠ってしまいました》
体のあちこちを機関銃で撃たれた母露子さんに拾ってきた毛布をかけ、そのわきでいつしか眠りに落ちた田中忍さんは、肌を刺す冷気の中で目覚めた。夜明け前だった。
《目を覚ますとすぐ、横に寝ていたお母さんの毛布をのけて、「お母さん、お母さ-ん」と呼びましたが、いくら呼んでもお母さんはうつ伏せのまま返事をしませんでした。「お母さん!お母さん起きて!」肩を揺すり、うつ伏せの顔を上げようとあごに手をかけ、ハッと手を引っ込めました。お母さんはもう冷たい石のように、こちこちになっていました。
「お母さ-ん、お母さん」
石のように固くなった肩を揺さぶってわんわん泣きました。旭も早苗も目を覚まし、死んだお母さんにかぶさって、三人で泣きました》
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