真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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南京大虐殺 河辺虎四郎 松井石根戒告文書

2014年10月27日 | 国際・政治

OCNブログ人がサービスを終了するとのことなので、2014年10月12日、こちらに引っ越しました。”http://hide20.web.fc2.com” にそれぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。(HAYASHI SYUNREI)

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 南京大虐殺に関する数々の証言が、中国ばかりではなく日本国内にも多々あり、当時欧米で広く報道されていたにもかかわらず、「南京大虐殺」は「まぼろし」だとか、「虚構」だとか、「捏造」だとかいう主張が、今なお様々な場面で繰り返されているようである。だから、南京大虐殺の事実の証言や記述の中には、その事実を認めたくない立場の人物のものが含まれていることを見逃してはならないと思う。 

 当時の日本では、当然のことながら、一般国民には何も知らされなかったようであるが、外務省はもちろん、軍の中央部にも掠奪、放火、強姦、虐殺等の事実は知っていた。そして、それを放置できなかったので、当時の参謀本部作戦課員だった河辺虎四郎は、参謀長 閑院宮載仁親王(カンインノミヤコトヒトシンノウ)の名で、松井石根方面軍司令官に対し、異例の「戒告」の文書を発したのであろう。彼は、その文書は自分が起案したと、回顧録『市ヶ谷台から市ヶ谷代へ─最後の参謀次長の回想録─』河辺虎四郎(時事通信社)に、下記(資料1)のように書いている。河辺は、それが「後日、戦犯裁判に大きく取り扱われ、松井大将自身の絞首刑の重大理由をなしたような事実」であったと認めているのである。彼が、そうした事実を認めたくないということは、「軍紀風紀ニ於テ忌々シキ事態ノ発生近時漸(ヨウヤ)ク繁ヲ見 之ヲ信ゼザラント欲スルモ尚(ナオ)疑ハザルベカラザルモノアリ」(資料2)との表現で、明確である。 

 抑制した表現ではあるが、まさに「軍紀風紀に於て忌しき事態の発生」を戒めたのである。「兵員新陳代謝」が御前会議で取り上げられたことは、その重大性を意味しているのではないかと思う。また、松井方面軍司令官は1938年2月に解任されているが、これは事件の責任を負うたものとされているようである。

 当時陸軍省の兵務課長(軍紀風紀の担当)に就任していた田中隆吉は、事件のことを「世界史上最もひどい残虐行為」だとし、憲兵や兵務課で、軍司令官や師団長ら責任者を軍法会議にかけることを検討したが、参謀本部が反対したので、実現しなかったと述べているという。軍当局は、特に海外での事件の反響の大きさに苦慮して、現地軍司令官に異例の戒告文書を発したのである。そして、それを否定することが出来なかったので、参謀長の要望を受けて、中支那方面軍はただちにその趣旨を隷下部隊に通牒したのである。その通牒と戒告の文書を、『南京戦史資料集1』(財団法人 偕行社)から抜粋したのが、資料2である。 

資料1---------------------------------------------------------
                           第3章 第二次大戦前の十年

第七節 華北事変勃発と事変初期

 作戦休憩案

 事変の様相は茲に重大な一転機に来た。当時における私の立場から、何事か即急な作戦上のきめ手を案ずるよりも、むしろ形而上下戦場の粛清をなすべしと信じた。
 私らはむろん当時の中国戦場における一戦闘一会戦には勝利の確信を持ってはいたが、戦面および占拠地域のひろまるに伴い、単に要地要衝を抑えておくだけにも、それがための総合兵力は、わが国全体のそれに比して、はなはだ多量を必要とする。

 私らは事変勃発後ほどなく事態拡大の徴を見たとき、全軍の半数15師団をもって、約半年間戦争を持続することを目安として、軍需動員に着手すべきだとの意見を立てて、大体その趣旨が採用されたのであった。しかるにいままさに半年が経過したが、戦場兵力は既に15師団を上回り、しかも戦局の前途にはなんらの予想がつかず、「亡羊の嘆」なきを得なかった。
 しかも広い「占拠地域」の内部は、おおむね点と線との「占拠」であって、日とともに共産反日のゲリラは繁殖して来る。

 こうした一般の情勢のほかに、軍中央部の一員である私どもにとり、はなはだ気になってきたことは、戦場軍隊の士気であった。
 前年の夏動員された在郷の将兵は、”お正月までには帰ってくるヨ”と妻子を慰撫して家を出た者も少なくなかった。一気呵成にここまで来たものの、前途果たして如何になるか、”相手にしない”といってみたとて、相手がこちらを相手として来る「戦争」というものの本質をどうしよう。華北にせよ華中にせよ、戦場兵員の非軍紀事件の報が頻りに中央部に伝わってくる。南京への進入に際して、松井大将が隷下に与えた訓示はある部分、ある層以下には浸透しなかったらしい。外国系の報道の中には、かなりの誇張や中傷の事実を認められたし、殊にああした戦場の常として、また特に当時の中国軍隊の特質などから、避け得なかった事情もあったようであるが、いずれにせよ、後日、戦犯裁判に大きく取り扱われ、松井大将自身の絞首刑の重大理由をなしたような事実が現れた。

 南京攻略の直後、私が命を受けて起案した松井大将宛参謀総長の戒告を読んだ大将は、”まことにすまぬ”と泣かれたと聞いたが、もう事はなされた後であった。
 そこで私らは、今後如何なる態勢に移るにしても、まずもってこの際戦場に新鮮な補充兵を送り、軍隊士気の一新是正をすることが肝要だと痛感した。そしてそれがためには、夏季を含む数ヶ月間、中国戦場にある各兵団に対し、その戦面を現在線より拡大することを禁じ、占拠地を確保して防支の姿勢を固め、兵員新陳代謝と、正しい意味の戦場墳熱訓練をさせるべきだと信じた。この趣旨は上司からの同意を受け、海軍側も遂に了承してくれたので、御前会議においての決定を仰ぎ得た。

 私はこの決定をもって、昭和13年2月末東京を発し、北京(寺内大将)、張家口(蓮沼中将─後の大将)、新京(植田大将)、および京城(小磯大将)の各軍司令部を歴訪し、各長官に直接伝達した。
 華中方面(畑大将)には、その軍参謀長(私の実兄、正三少将)が新任に際し、ちょうど東京に来たので、これに伝えられた。
 京城に私が行ったとき、小磯大将は、大本営の決定をとやかくいうのではなく、この趣旨を遵奉するのであるが……、と前置きして、個人の所見を君(私)の参考までとて、大将の腑に落ちぬ諸点を一席述べられたが、私が、戦略上の御所見まことにごもっともと存じますが、軍隊の実情私らの見るところかくかく……、と述べたところ、大将の独特な明快さをもって、”そうか、よくわかった、ご苦労さま”との結語を吐かれた。
 右のように一応全軍的に、「作戦休憩案」が伝わったのであった。しかしそれは忽ちに崩れたらしく、私はこの直後に転任して後ほどなく、徐州会戦が起こった。
 
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

○軍紀風紀に関する参謀総長要望

 中方参第19号

                        軍紀風紀ニ関スル件通牒 
                          昭和13年1月9日
                                                      中支那方面軍参謀長 塚田 攻
 両軍参謀長 
 直轄部隊長宛
 中支監
一、首題ノ件ニ関シテハ各級団隊長ノ適切ナル統率指導ノ下ニ之カ振粛ニ邁進セラレアルヲ信スルモ今回参謀総長宮殿下ヨリ別紙写シノ如キ要望ヲ賜 リタルニ就テハ此際軍紀風紀ノ維持振作ニ関シ最大ノ努力ヲ払ハレ度尚軍紀風紀並ニ国際問題ニ関シテハ今後陸軍報告規定ニ準ジ其緩急ニ従ヒ電話・電信又ハ文書ヲ以テ迅速ニ其概要ヲ報告シ更ニ詳細ナル報告ヲ呈出セラレ度
 右依命通牒ス

(別紙)

 顧ミレバ皇軍ノ奮闘ハ半蔵ニ邇シ其行ク所常ニ必ズ赫々タル戦果ヲ収メ我将兵ノ忠誠勇武ハ中外斉シク之ヲ絶讃シテ止マズ 皇軍ノ真価愈々加ルヲ知ル然レ共一度深ク軍内部ノ実相ニ及ヘハ未タ瑕瑾ノ尠カラザルモノアルヲ認ム
 就中軍紀風紀ニ於テ忌々シキ事態ノ発生近時漸ク繁ヲ見之ヲ信セサラント欲スルモ尚疑ハサルヘカラサルモノアリ
 惟フニ1人ノ失態モ全隊ノ真価ヲ左右シ一隊ノ過誤モ遂ニ全軍ノ聖業ヲ傷ツクルモノニ至ラン

 須ク各級指揮官ハ統率ノ本義ニ透徹シ率先垂範信賞必罰以テ軍紀ヲ厳正ニシ戦友相戒メテ克ク越軌粗暴ヲ防キ各人自ラ矯テ全隊放縦ヲ戒ムヘシ特ニ向後戦局ノ推移ト共ニ敵火ヲ遠サカリテ警備駐留等ノ任ニ著クノ団隊漸増スルノ情勢ニ処シテハ愈々心境ノ緊張ト自省克己トヲ欠キ易キ人情ヲ抑制シ以テ上下一貫左右密実聊モ皇軍ノ真価ヲ害セサランコトヲ期スヘシ

 斯ノ如キハ啻ニ皇軍ノ名誉ト品位トヲ保続スルニ止マラスシテ実ニ敵軍及第三国ヲ威服スルト共ニ敵地民衆ノ信望敬仰ヲ繋持シテ以テ出師ノ真目的ヲ貫徹シ聖明ニ対ヘ奉ル所以ナリ

 遡テ一般ノ情特ニ迅速ナル作戦ノ推移或ハ部隊ノ実情等ニ考ヘ及ブ時ハ森厳ナル軍紀節制アル風紀ノ維持等ヲ困難ナラシメル幾多ノ素因ヲ認メ得ベシ従テ露見スル主要ノ犯則不軌等ヲ挙ゲテ直ニ之ヲ外征部隊ノ責ニ帰一スベカラザルハ克ク此ヲ知ル 

 然レ共実際ノ不利不便愈々大ナルニ従テ益々以テ之ガ克服ノ努力ヲ望マザルヲ得ズ 或ハ沍寒ニ苦シミ或ハ櫛風沐雨ノ天苦ヲ嘗メテ日夜健闘シアル外征将士ノ心労ヲ深ク偲ビツツモ断シテ事変ノ完美ナル成果ヲ期センカ為茲ニ改メテ軍紀風紀ノ振作ニ関シ切ニ要望ス
 本職ノ真意ヲ諒セヨ
  昭和13年1月4日
                                                     大本営陸軍部幕僚長    載仁親王

 中支那方面軍司令官宛

ーーー
参考(読み仮名)
  顧(カエリ)ミレバ・邇(チカ)シ・赫々(カウカク)タル・斉(ヒト)・愈々(イヨイヨ)然(サ)レ共(ドモ)・瑕瑾(カキン)ノ尠(スクナ)カラザルモノ・漸(ヨウヤ)ク・尚(ナオ)・惟(オモ)フニ
  遡(サカノボリ)・直(タダチ)・克(ヨ)ク・之(コレ)












  

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2 コメント

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Unknown (しんのすけ)
2014-10-28 02:41:14
ご苦労様です 陸軍大将 松井岩根氏が教誨師に語ったとされる
「自分が処刑される事によって 当時の軍人達が一人でも多く
深く反省してくれるならば喜ばしい」

この潔いコメントも 合わせて紹介して頂くと有り難いです
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Unknown (Unknown)
2014-10-28 08:23:32
しんのすけ様

 コメントありがとうございました。

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