日本は、田中義一内閣当時、満州・華北に対する領土的野心をもって、中国山東省へ出兵をくり返しました。
第1次は1927年五月、蒋介石の北伐革命に対する不祥事件予防,居留民保護などを名目とした出兵でした。でも、領土的野心を疑われ、中国および国際社会から撤兵要求の声があがったといいます。
第2次は1928年四月、蒋介石による北伐の再開に合わせ、出兵しました。この時は、青島や済南にまで進駐し、済南事件がありました。日本軍の出兵に対し国民政府は内戦への干渉であると非難し、中国では排日運動が激化したといいます。
日本は、この時の済南事件を契機にさらに軍隊を動員し、山東省全域から華北各地に兵力を展開するとともに、国民革命の東北への波及を実力で阻止するとの声明まで出したといいます。そして、関東軍による奉天軍閥指導者・張作霖爆殺事件が起こります。
こうした田中内閣時代の侵略的強硬政策が、1922年(大正11年)に締結された「九ヶ国条約」に反するものであることは明らかだと思います。
この「九ヶ国条約」の第1条に規定されている下記の4つの項目は、「対中国4原則」と呼ばれるもので、条約の加盟国が中国の主権や領土を尊重する事などを定めています。開戦前にハル・ノートでも示され、日米交渉における重要問題でした。これを軽視ないし無視した日本の政策が、悲惨な戦争をもたらしたことを、忘れてはならないと思います。下記の条項が守れない日本は、やはり侵略国家であったと思います。
”第1条
支那国以外ノ締約国ハ左ノ通約定ス
(1)支那ノ主権、独立並領土的及行政的保全ヲ尊重スルコト
(2)支那カ自ラ有力且安固ナル政府ヲ確立維持スル為最完全ニシテ且最障碍ナキ機会ヲ之ニ供与スルコト
(3)支那ノ領土ヲ通シテ一切ノ国民ノ商業及工業ニ対スル機会均等主義ヲ有効ニ樹立維持スル為各盡力スルコト
(4)友好国ノ臣民又ハ人民ノ権利ヲ減殺スヘキ特別ノ権利又ハ特権ヲ求ムル為支那ニ於ケル情勢ヲ利用スルコトヲ及右友好国ノ安寧ニ害アル行動ヲ是認スルコトヲ差控フルコト”
さらに言えば、満州事変以前の1929年(昭和四年)には、すでに 下記のような条項を含む、「不戦条約」(「戦争ノ抛棄ニ関スル条約」)が発効していました。その前文には
”独逸国大統領、亜米利加合衆国大統領、白耳義(ベルギー)国皇帝陛下、仏蘭西共和国大統領、「グレート、ブリテン」「アイルランド」及「グレート、ブリテン」海外領土皇帝印度皇帝陛下、伊太利国皇帝陛下、日本国皇帝陛下、波蘭共和国大統領、「チェッコスロヴァキア」共和国大統領ハ、人類ノ福祉ヲ増進スベキ其ノ厳粛ナル責務ヲ深ク感銘シ、其ノ人民間ニ現存スル平和及友好ノ関係ヲ永久ナラシメンガ為国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ率直ニ抛棄スベキ時期ノ到来セルコトヲ確信シ、其ノ相互関係ニ於ケル一切ノ変更ハ平和的手段ニ依リテノミ之ヲ求ムベク又平和的ニシテ秩序アル手続ノ結果タルベキコト及今後戦争ニ訴ヘテ国家ノ利益ヲ増進セントスル署名国ハ本条約ノ供与スル利益ヲ拒否セラルベキモノナルコトヲ確信シ、其ノ範例ニ促サレ世界ノ他ノ一切ノ国ガ此ノ人道的努力ニ参加シ且本条約ノ実施後速ニ加入スルコトニ依リテ其ノ人民ヲシテ本条約ノ規定スル恩沢ニ浴セシメ、以テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ノ共同抛棄ニ世界ノ文明諸国ヲ結合センコトヲ希望シ、茲ニ条約ヲ締結スルコトニ決シ之ガ為左ノ如ク其ノ全権委員ヲ任命セリ”
とあります。そして、
”第一条
締約国ハ国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互関係ニ於テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言スル
第二条
締約国ハ相互間ニ起コルコトアルベキ一切ノ紛争又ハ紛議ハ其ノ性質又ハ起因ノ如何ヲ問ハズ平和的手段ニ依ルノ外之ガ処理又ハ解決ヲ求メザルコトヲ約ス”
と定めていたのです。でも、日本は紛争を解決するために戦争をしました。
だから私は、日本人が、東京裁判は戦勝国による報復裁判であり、違法で無効だ”などという権利があるとは思えません。
ふり返れば、明治維新以来、日本の法や道義・道徳は、”天祖の御神勅と天孫の御事業”の実現のためにあり、”皇国の威徳を四海に宣揚”することが目的で、教育勅語や軍人勅諭も皇国臣民を都合よく統制し、縛るものとしてあったのではないかと思います。
したがって、日本の一般国民は、国家に対する権利意識が希薄であったのではないかと思います。同時に日本の支配層は、近代法の基本的原理を重視せず、皇国日本を「神国」と解し、近代法の基本的原理に縛られることなく、法を超越した考え方をしていたのではないかと思います。
1933年2月、国際連盟総会のリットン調査団報告書に関する審議において、”満州国は自主的に独立した国家である”と一時間を超える演説をしたという日本代表・松岡洋右の主張は、他国に全く受け入れらませんでした。反対したのは日本のみで、賛成42カ国、棄権一カ国でリットン調査団報告書が可決されたという事実、そしてその後、日本政府が国際連盟を脱退した事実は、いかに日本が近代法の基本的原理を軽視し、無視する国であったかを示しているのではないかと思います。
当時の東京朝日新聞は、”連盟よさらば! 遂に協力の方途尽く 総会、勧告書を採択し、我が代表堂々退場す 四十二対一票、棄権一”などと松岡を称え、日本の国民は、帰国した松岡を「ジュネーブの英雄」などと言って、凱旋将軍のように歓迎したという話には驚きます。戦前の日本は、多数決など意に介しない特別の国であったと思います。
そして考えさせられるのは、そうした近代法の基本原理を軽視し、無視した戦前の姿勢が、現在の自民党政権に受け継がれているのではないかということです。法を国や権力ではなく国民を縛るものとして利用し、道徳を教科化することによって、再び戦前の皇国日本のようなかたちで、国民を統制しようとしているのではないかと思います。モリカケサクラ問題に象徴されるように、自らは法の外にあるかのような振舞は、戦前の継承ではないでしょうか。
下記は、「東京裁判 大日本帝国の犯罪 下」朝日新聞東京裁判記者団(講談社)から抜粋しました。
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関係資料Ⅱ
二十五被告に対する個人判決
嶋田繁太郎
被告は、東条内閣で海軍大臣になり、1944年二月から八月までの六か月間、海軍軍令部総長であった。東條内閣の成立から、1941年十二月五日に日本が西洋諸国を攻撃するまで、この攻撃を計画し開始するについて、かれは共同謀議者によってなされたすべての決定に参加した。宣戦が布告された後、この戦争の遂行にあたって、かれは主要な役割を演じた。本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二について、島田を有罪と判定する。
白鳥敏夫
日本、ドイツおよびイタリア間の同盟の交渉が開始されてから、1938年九月に、かれはローマ駐在大使に任命された。この交渉において、右の諸国間の一般的軍事同盟を固執した共同謀議者を支持して、かれは当時ベルリン駐在大使であった被告大島と協力した。
1941年四月に、かれは病気になり、その年の七月に、外務省顧問の職を辞した。その後は、いろいろの出来事で重要な役割を演じなかった。本裁判所は、訴因第一について白鳥を有罪と判定する。
鈴木貞一
企画院総裁および無任所大臣として、鈴木は、実際上日本の政策を作り出す機関であった連絡会議に常例的に出席した。連合国に対する侵略戦争の開始と遂行を引き起した重要な会議の大部分に、鈴木は出席した。これらの会議で、かれは積極的に共同謀議を支持した。われわれは、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一および第三十二で訴追されているように、鈴木を有罪と判定する。
東郷茂徳
被告東郷は、1941年十月から東条内閣の外務大臣として、太平洋戦争の勃発まで、かれはその戦争の計画と準備に参加した。かれは閣議や会議に出席し、採用された一切の決定に同意した。外務大臣として、戦争勃発直前の合衆国との交渉において、かれは指導的な役割を演じ、戦争を主張した者の計画に力を尽くした。1942年九月に、占領諸国の取扱いについて起った閣内の紛争のために、かれは辞職した。訴因三十六に関係のあるかれの唯一の役割は、満洲と外蒙古との国境を確定したところの、ソビエト連邦と日本との戦後協定を調印したことであった。1942年に辞職するまで、東郷は戦争法規が順守されることにつとめたように見える。かれは自分のところにきた抗議を調査のために回付し、数個の場合には、改善の措置がとられた。1945年春、かれが再び外務大臣になったときは、抗議が山積していたが、かれはそれを関係当局に回付した。本裁判所の意見では、戦争犯罪に関して、東郷が義務を怠ったということについて、充分な証拠はない。本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一および第三十二について、東郷を有罪と判定する。
東条英機
東条は1937年六月に関東軍参謀長となり、それ以後は、共同謀議者の活動のほとんどすべてにおいて、首謀者の一人として、かれらと結託していた。
かれはソビエト連邦に対する攻撃を計画し、準備した。ソビエト連邦に対して企てられた攻撃において、日本陸軍はその背後の不安から解放するために、中国に対してさらに攻撃を加えることをかれは勧めた。この攻撃のための基地として、満州を組織することをかれは助けた。1938年五月に、かれは陸軍次官になるために、現地から呼びもどされた。この職務のほかに、かれは多数の任務をもち、これによって、戦争に対する日本国民と経済の動員のほとんどすべての部面において、重要な役割を演じた。このときに、かれは中国との妥協による和平の提案に反対した。1940年七月に、かれは陸軍大臣になった。それ以後におけるかれの経歴の大部分は、日本の近隣諸国に対する侵略戦争を計画し、遂行するために、共同謀議者が相次いでとった手段の歴史である。かれは首謀者の一人だったからである。かれは巧みに、断固として、ねばり強く、共同謀議の目的を唱道し、促進した。
1941年十月、かれは総理大臣になり、1944年七月まで、その職に就いていた。陸軍大臣および総理大臣として、中国国民政府を征服し、日本のために中国の資源を開発し、中国に対する戦争の成果を日本に確保するために、中国に日本軍を駐屯させるという政策を、終始一貫して支持した。1941年十二月七日の攻撃に先立つ交渉において、かれが断固としてとった態度は、中国に対する侵略の成果を日本に保持させ、日本による東アジアと南方地域の支配を確立するのに役立つような条件を、日本は確保しなければならないというのであった。この政策を支持するために、戦争を行うという決定を成立させるにあたって、かれが演じた指導的役割の重要さは、どのように評価しても、大き過ぎるということはない。日本の近隣諸国に対する犯罪的攻撃に対して、かれは主要な責任を負っている。本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一および第三十二および第三十三について、東条を有罪と判定し、訴因第三十六について、無罪と判定する。
── 戦争犯罪について ──
東条は、捕虜および一般人抑留者の保護に対して、継続的責任を負っていた政府の最高首脳者であった。捕虜および抑留者の野蛮な取り扱いは、東条によくわかっていた。かれは、違反者を処罰し、将来同じような犯罪が犯されるのを防止する充分な手段をとらなかった。パターン死の行進に対するかれの態度は、これらの捕虜に対するかれの行為を明らかにするかぎを与えるものである。1942年には、かれはこの行進の状態の結果として、多数の捕虜が死亡したことを知っていた。この事件について、かれは報告を求めなかった。処罰された者は一人もいなかった。このようにして、日本政府の最高首脳者は、日本政府に課せられたところの、戦争法規の順守を励行するという義務の履行を意識的に故意に拒んだのである。もう一つのいちじるしい例をあげるならば、戦略目的のために企てられた泰緬鉄道の敷設に捕虜を使用すべきであるとかれは勧告した。かれはこの工事に使われている捕虜の悪い状態を知って、調査のための将校を送った。この調査の結果としてとられた唯一の措置は、捕虜の虐待に対して、一中隊長を裁判することだけであった。
捕虜収容所における栄養不良とその他の原因による高い死亡率に関する統計は、東条の主宰する会議で討議された。東條内閣が倒れた1944年における捕虜の恐るべき状態と、食糧および医薬品の欠乏のために死亡した捕虜の膨大な数とは、東条が捕虜の保護のために適当な措置をとらなかったことに対して、決定的な証拠である。われわれは、中国人捕虜に対する日本陸軍の態度について、すでにのべた。日本政府は、この「事変」を戦争とは認めていなかったから、戦争法規はこの戦いには適用されないこと、捕らえられた中国人は、捕虜の身分と権利を与えられる資格がないと主張された。東条はこのおそるべき態度を知っており、しかもそれに反対しなかった。働かざる捕虜は食うべからずという指令について、かれは責任がある。病人や負傷者がむりやり働かされたり、その結果として、苦痛と死亡を生じたりするようになったのは、大部分において、東条がこの指令の実行をくり返し主張したためであるということを、われわれはすこしも疑わない。捕虜の虐待が外国に知られるのを防ぐためにとられた措置に対して、東条は責任がある。
本裁判所は、訴因第五十四について、東条を有罪と判定する。われわれは、訴因五十五については、いかなる判定も下さない。
梅津美治郎
1939年から1944年まで、梅津が関東軍司令官であった間、かれは引き続いて満州の経済を日本の役に立つように指導した。その期間に、ソビエトの領土の占領計画がつくられ、占領されることになっていたソビエト地域の軍政に関する計画も立てられ、さらに、南方の占領地域における軍政を研究するために将校が同地域に送られた。この研究の目的は、こうして手に入れた資料をソビエト領土で利用するためであった。被告が共同謀議の一員であったという証拠は、圧倒的に有力である。訴因三十六についていえば、ノモンハンにおける戦闘は、かれが関東軍の指揮をとる前に始まっていた。戦闘の終わるわずか数日前に、かれは司令官になった。1944年七月から降伏まで梅津は参謀総長であった。これによって、かれは中国と西洋諸国に対する戦争の遂行に主要な役割を演じた。本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一および第三十二について、梅津を有罪と判定する。
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終章
A級戦犯十九名釈放
さらに、ニ十四日、総司令部は発表をおこない、突如として、巣鴨に遺されていた十九名のA級戦犯容疑者の釈放をおこない、この種の裁判をまったく終了させることを明かにした。
それはつぎの通りである。
(渉外局二十四日発表)総司令部法務局長アルヴァ・C・カーペンター氏は二十四日、前A級戦犯容疑者で現在巣鴨に拘置されているもの、あるいは自宅で監禁されているものおよび現在裁判中でないものは、全部監禁から釈放されると発表した。これらの人々は極東国際軍事裁判所またはこれに類する法廷で主要戦争犯罪人として裁判される見込みで逮捕されたが、彼らがA級戦犯あるいは主要戦犯として判決されないことが決定されたとき、連合軍最高司令官は法務局に対しB・C級戦犯として起訴されるか否か調査を指令していたものである。これに含まれる十九名はつぎの通りである。
元内閣企画院次長 内相 安倍源基 元内相 安藤紀三郎
元情報局総裁 天羽英二 元大東亜相 青木一男
元内相 後藤文夫 元駐華大使 本多熊太郎
元石原産業社長 石原広一郎 元法相 岩村通世
元商相 岸信介 元児玉機関 児玉誉士夫
元黒龍会会長 葛生能久 元中国派遣軍総司令官 西尾寿造
著述家 大川周明 元国粋大衆党首 笹川良一
元スペイン公使 須磨弥吉郎 元華北派遣軍総司令官 多田 駿
元軍事参事官 高橋三吉 元内閣情報局総裁 外相 谷 正之
元逓相 寺島 健
こうして、米英ソ三国を中軸とする旧連合国の、旧日本帝国に対する広い意味の懲罰作業は終わった。この多数判決は、サンフランシスコ平和条約において、新日本国政府代表吉田茂氏によって受諾された。
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