「東京裁判 大日本帝国の犯罪 下」朝日新聞東京裁判記者団(講談社)によると、1948年四月十六日、タナベー検事の最後論告をもって審理の幕を閉じ、ウェッブ裁判長は、”判決を留保し、追って発表するときまで休廷”と告げたといいます。そして十一カ国代表判事の会議によって、判決が準備され、なんと半年以上も後の、十一月四日、再び市ヶ谷法廷に関係者を集めて判決が言い渡されたということです。
判決文は、第一章から第十章まであり、第一章は裁判所の設立および審理、第二章は法として、一、本裁判所の管轄権、二、捕虜に対する戦争犯罪の責任、三、起訴状 第三章は日本の権利と義務の史的展開、第四章は軍部による日本の支配と戦争準備、第五章は中国に対する侵略、第六章はソ連に対する侵略、第七章は太平洋戦争、第八章は通例の戦争犯罪、第九章は起訴状の訴因についての認定、第十章は判定として、二十五被告の有罪証明を行っているということです。これに関係条約の付属書A、Bがついて、総ページ数は英文で1212ページにおよぶ膨大なものだということです。
そして、十一月十二日アルファベット順に荒木被告から「インプリズメント・フォア・ライフ」(終身刑)、・・・土肥原被告「デス・バイ・ハンギング」(絞首刑)と刑の宣告が告げられていったということです。
判決の朗読に始まって、刑の宣告に至るまでにも、八日間を要したことがわかります。
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関係資料Ⅱ
二十五被告に対する個人判決
判決文はさらに続き、荒木貞夫以下二十五被告の個人判決がつぎのようにしめされている。
荒木貞夫
本裁判所は、かれが訴因第一に述べられている共同謀議の指導者の一人であった認定し、同訴因について、かれを有罪と判定する。荒木は、満州で中華民国に対する侵略戦争が開始された後、1931年から1934年一月まで、引き続き陸軍大臣であった。その期間を通じて、中国の領土のその部分を占領するために、相ついでとられた軍事的措置に対して、かれはできる限りの支持を与えた。1938年五月から1939年八月まで、荒木は文部大臣であり、その資格において、中国の他の部分における軍事作戦を承認し、それに協力した。そして、この被告はその戦争の遂行に参加したものと認定する。したがって、われわれは、訴因第二十七について、彼を有罪と判定する。
土肥原賢二
われわれは、訴因第一における侵略戦争遂行の共同謀議と、訴因第二十七、訴因第二十九、訴因第三十一、、第三十三、第三十五及び第三十六で訴追されている侵略戦争の遂行とについて、かれを有罪と判定する。土肥原の犯罪は、訴因第五十五よりも、むしろ訴因第五十四に該当する。したがって、訴因第五十四について、かれを有罪と判定し、訴因第五十五については、なんらの判定も下さない。
橋本欣五郎
かれは共同謀議の成立について首謀者であり、その遂行に大いに貢献した。訴因第二十七については、かれは最初に武力による満州の占拠を画策した後、満洲占領の口実となるように、奉天事件を計画するについて、ある程度の役割を演じた。本裁判所は、訴因第一と第二十七について、橋本を有罪と判定する。
畑俊六
かれの指揮下の軍隊によって、残虐事件が大規模に、しかも長期間にわたって行われた。畑は、これらのことを知っていながら、その発生を防止するためになんらの措置もとらなかったか、なんらの方法も講じなかったかである。どちらの場合にしても、訴因第五十五で訴追されているように、かれは自己の義務に違反したのである。
本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、及び第五十五について、畑を有罪と判定する。
平沼騏一郎
平沼は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十三、第三十五、第三十六、第五十四及び第五十五で起訴されている。
起訴状にあげられた全期間において、平沼は、必要とあれば、武力によっても日本が東アジアと南方を支配するという政策の支持者であったばかりでなく、共同謀議の指導者の一人であり、その政策を推進することについて、積極的な参加者であった。本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二および第三十六について、被告平沼を有罪と判定する。
広田弘毅
本裁判所は、少なくとも1933年から、広田は侵略戦争を遂行する共通の計画または共同謀議に参加したと認定する。外務大臣として、かれは中国に対する戦争の遂行にも参加した。
訴因第二十九、第三十一および第三十二についていえば、重臣の一人として1941年における広田の態度と進言は、かれが西洋諸国に対する敵対行為の開始に反対していたことと、よく首尾一貫している。
訴因第五十五については、かれをそのような犯罪行為に結びつける唯一の証拠は、1937年十二月と1938年一月及びニ月の南京における残虐行為に関するものである。かれは外務大臣として、日本軍の南京入城直後に、これらの残虐行為に関する報告を受け取った。本裁判所の意見では、残虐行為をやめさせるために、直ちに措置を講ずることを閣議で主張せず、また他のどのような措置もとらなかったということで、広田は自己の義務に怠慢であった。本裁判所は、訴因第一、第二十七及第五十五について、広田を有罪と判定する。
星野直樹
被告東条が1941年十月に総理大臣として就任すると、星野は内閣書記官長になり、やがて企画院参与になった。このときから、かれは、侵略戦争のためのすべての準備に、密接な関係があった。1932年から1941年までの全期間を通じて、かれは侵略戦争遂行の共同謀議をしたばかりでなく、その遂行に直接参加した。これらの訴因全部についても、かれは有罪と判定される。
板垣征四郎
1938年五月に、かれは近衛内閣の陸軍大臣となった。かれのもとで、中国に対する攻撃は激しくなり、拡大した。中国の国民政府を打倒し、その代わりに、傀儡政権を樹立しようと試みることを決定した重要な閣議にかれは参加した。ついで、汪精衛の傀儡政権の樹立をもたらした準備工作について、かれは大いに責任があった。日本のために、中国の占領地域を開発するとりきめにかれは参加した。平沼内閣の陸軍大臣として、かれは再び中国に対する戦争の遂行と日本の軍備拡張とについて責任があった。陸軍大臣として、かれは、ハサン湖におけるソビエト連邦に対する武力の行使について、策略によって天皇の同意をえようとした。その後、五相会議で、かれはこのような武力行使の承認をえた。ノモンハンにおける戦闘中も、かれはまだ陸軍大臣であった。1945年四月から降伏の日まで、かれはシンガポールに司令部のあった第七方面軍を指揮した。かれの指揮する軍隊は、ジャワ、スマトラ、マレー、アンダマンおよびニコバル諸島、ボルネオを防衛した。かれは、侵略戦争を遂行する共同謀議を行い、その遂行に積極的で重要な役割を演じた。本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十五および第三十六について、板垣を有罪と判定する。
板垣が指揮していた地域は、何千という捕虜と抑留者が収容されていた。かれはこれらの収容所に食糧、医薬品及び医療設備を供給する責任をもっていた。かれのとった方針によって、かれは自分が適当に扶養すべき義務のあった何千という人の死亡または苦痛に対して責任がある。本裁判所は、訴因第五十四について、板垣を有罪と判定する。
賀屋興宣
第一次近衛内閣と東条内閣との大蔵大臣として、また北支那開発会社総裁として、かれは、中国における侵略戦争と西洋諸国に対する侵略戦との準備と遂行とに積極的に従事した。かれは、、訴因第一に主張されている共同謀議の積極的な一員であり、この訴因について、有罪と判定される。賀屋は、かれが占めたいろいろの地位において、侵略戦争の遂行に、主要な役割をはたした。したがって、これらの訴因について、かれは有罪と判定される。
木戸幸一
被告木戸幸一は、1937年から1939年までのこの期間に、共同謀議者の見解を採用し、かれらの政策のために、一意専心努力した。内大臣として木戸は、共同謀議を進めるために、特に有利な地位にあった。かれのおもな任務は、天皇に進言することであった。かれはこの勢力を天皇に対して用いたばかりでなく、共同謀議の目的を促進するようにも用いた。訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二における起訴事実について、木戸は有罪と判定される。
木村兵太郎
師団長として、つぎには関東軍参謀長として、後には陸軍次官として、彼は中国における戦争と太平洋戦争との遂行に目立った役割をはたした。かれはビルマ方面軍の司令官となり、降伏の時まで、引続いてその地位にあった。かれは捕虜を作業に使用することを承認したが、その作業は、戦争法規によって禁止されている作業と、何千という捕虜の最大の艱難と死亡をもたらした状態における作業とであって、この点で、かれは戦争法規の違反に積極的な形で参加した一人である。後者の場合の一例は、泰緬鉄道の建設における捕虜の使用であって、これに対する命令は、木村によって承認され、伝達されたものである。
戦争犯罪を防ぐような充分な措置をとるべき法律上の義務を、かれは故意に無視したのである。
本裁判は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第五十四及び第五十五について、木村を有罪と判定する。
小磯国昭
1932年八月から1934年三月まで、関東軍参謀長として、共同謀議者の方針による満州国の政治的、経済的の組織のために計画をかれは作成し、またはこれに同意した。1944年七月に、小磯は朝鮮総督の任を解かれて、総理大臣になった。この資格において、かれは西洋諸国に対する戦争の遂行を主張し、また指導した。この間に、日本の捕虜と抑留者の取扱いには、なんらの改善も見られなかった。これは、かれがその義務を故意に無視したことに相当する。本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二および第五十五について、小磯を有罪と判定する。
松井石根
かれは、1937年十二月十三日に南京市を攻略した。南京が落ちる前に、中国軍は撤退し、占領されたのは無抵抗の都市であった。それに続いて起ったのは、無力の市民に対して、日本の陸軍が犯した最も恐ろしい残虐行為の長期にわたる連続であった。これらの恐ろしい出来事が最高潮にあった十二月十七日に、松井は同市に入城し、五日ないし七日の間滞在した。本裁判所は、何が起こっていたかを松井が知っていたという十分な証拠があると認める。これらの恐ろしい出来事を緩和するために、かれは、なにもしなかったか、何かしたとしても、効果のあることは何もしなかった。同市の占領の前に、かれは自分の軍隊に対して、行動を厳正にせよ、という命令を確かに出した。これらの命令は何の効果もなかった。かれは自分の軍隊を統制し、南京の不幸な市民を保護する義務をもっていたとともに、その権限をももっていた。この義務の履行を怠ったことについて、かれは犯罪的責任があると認めなければならない。
本裁判所は、被告松井を訴因第五十五について有罪、他の訴因について無罪とする。
南次郎
1934年十二月から1936年三月まで、かれは関東軍司令官であり、満州の征服を完了し、日本のために中国のこの部分を開発利用することを助けた。軍事行動の威嚇のもとに、華北と内蒙古に傀儡政権を樹立することに対して、かれは責任があった。
ソビエト連邦に対する攻撃の基地として、満州を開発したことについても、このような攻撃の計画についても、かれは一部分責任があった。
1936年に、かれは朝鮮総督となり、中国に対する戦争の遂行と、中国国民政府の打倒とを支持した。
本裁判所は、訴因第一と第二十七について、南を有罪と判定する。
武藤章
陸軍省軍務局長になったときに、かれは共同謀議に加わった。この期間において、共同謀議者による侵略戦争の計画、準備および遂行は、その絶頂に達した。これらの一切の活動において、かれは首謀者の役割を演じた。本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二について、武藤を有罪と判定する。1944年十月に、フィリピンにおいて、武藤は山下の参謀長になった。降伏まで、かれはその職に就いていた。このとき日本軍は連続的に虐殺、拷問、その他の残虐行為を一般住民に対して行った。捕虜と一般抑留者は、食物を充分与えられず、拷問され、殺害された。戦争法規に対するこれらの甚だしい違反について、武藤は責任者の一人である。本裁判所は、第五十四及び第五十五について、武藤を有罪と判定する。
岡敬純
1940年十月に、海軍少将に進級し、海軍省軍務局長としての職にあった間、岡は共同謀議の積極的な一員であった。中国と西洋諸国に対する侵略戦争を遂行する政策の樹立と実行に、かれは参加した。
本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一および第三十二について、有罪と判定する。
大島浩
大島は、最初はベルリンの日本大使館付陸軍武官であり、その後大使としてベルリンに帰り、日本の降伏まで、そこに留まった。
大島は主要な共同謀議者の一人であり、終始一貫して、おもな共同謀議の目的を支持し、助長した。本裁判所は、訴因第一について、大島を有罪と判定する。
佐藤賢了
被告佐藤賢了は、1942年四月に、陸軍において、はなはだ重要な地位である軍務局長になった。われわれの意見では、日本が企画していた戦争がそのように犯罪であることを知っていた佐藤賢了は、1941年から後は、明らかに共同謀議の一員であったのである。
日本の軍隊の行動に対する多くの抗議について、佐藤が知っていたことは、疑いがない。これらの会合を主宰した者は東条であって、かれの部下であった佐藤、自分の上官の決定に反対して、みずから進んで予防的措置をとることはできなかった。
本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二について、佐藤を有罪と判定する。
重光葵
かれが外務大臣になった1943年までには、一定の侵略戦争を遂行するという共同謀議者の政策はすでに定まっており、かつ実行されつつあった。本裁判所は、訴因第一について、重光を無罪と判定する。1945年四月十三日に辞職するまで、かれは太平洋戦争の遂行に主要な役割を演じたのである。本裁判所は、訴因第二十七、第二十九、第三十一、第三十二および第三十三について、重光を有罪と判定する。
刑の軽減として、われわれは次のことを考慮に入れる。重光は、共同謀議の成立には、少しも関係していなかったこと、1943年四月に外務大臣になるまで、かれは侵略戦争を遂行しなかったのであって、この時期には、すで日本がその将来に致命的な影響を及ぼす戦争に深くまきこまれていたこと、戦争犯罪の問題については、かれが外務大臣であったときには、軍部が完全に日本を支配していたので、軍部を非難するには、どのような日本人にとっても、大きな決意が必要であったであろうということである。 ─続く─
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