真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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自らの都合で、他国の内政に干渉したり政権を転覆してきたのは?

2022年05月06日 | 国際・政治

          知らないのか、知らないふりか、それとも意図的に隠蔽しようということか

 私は、ずっと朝日新聞を読んできました。教えられることや考えさせられることが多くありました。でも、ウクライナ戦争の報道に関する限り、朝日新聞も明らかにおかしいと思います。もちろんそれは朝日新聞だけではないのですが、ロシアのウクライナ侵攻を非難するだけで、武力衝突を避けて、問題を解決しようとする姿勢がほとんどないように思います。また、毎日毎日、戦争当事国のウクライナやアメリカ側の情報をそのまま事実として報道し、ロシア側の情報は極めて断片的に、疑いの眼差しをもって報じています。それが結果として、ロシアは悪、ウクライナ軍の支援は当然というアメリカの武力的対応支持の流れに乗っているように思います。アメリカは、自らの利益のために、ヨーロッパに対するロシアの影響力拡大を阻止し、ロシアを孤立化させ、屈服させようとしていると考えられるのに。


 先日、”「虐殺したのは」元大使が自説”と題する記事が掲載されました。その元大使は外務省退官後、防衛大学校の教授を務めた馬淵睦夫氏ということですが、すっかり陰謀論者扱いです。それが、事実の検証に基づくものであれば、納得できるのですが、双方の主張と、その主張に基づく第三者機関の事実の検証結果は書かれていません。ウクライナやアメリカのいうことは常に客観的で正しく、ロシアは嘘をつくという前提で書かれているように思います。大本営発表が嘘の代名詞と言われるような歴史を経験した日本が、再び同じ過ちを犯してはならないと思います。
 すでに取り上げたように、バイデン大統領は、プーチン大統領について”権力の座に残しておいてはいけない”と非難し、侵攻したら”ノルドストリーム2は破壊する”と言っているのです。ロイド・オースチン米国防長官も、”我々は、ロシアがウクライナ侵攻でやったようなことをできないようにするまで、弱体化させたい”と語っているのです。そのアメリカの意図を踏まえれば、アメリカ側に「ブチャの虐殺」を騒ぎたてて、ロシアを孤立させようとする戦略があることが予想されると思います。逆にロシア側が、虐殺が明らかになるような死体を、放置して撤退することは考えずらいと思います。だから、事実の検証なしに断定することは危険であり、馬淵睦夫氏を、陰謀論者と簡単に決めつけることはできない、と私は思います。
 また、社説には、
”……ウクライナに侵攻したロシアでは、政府に批判的な報道を封じるためにメディアを締めつけが進む。「偽情報」を流した者は最長で禁固15年を科す法律も制定された。香港では香港国家安全維持法の下、中国政府に厳しい論調で知られた新聞が廃刊に追いこまれた。軍政下のミャンマーなども、同じようにものを言えない状況にある。
 留意すべきは、たとえばロシアの場合、戦争により国家が非常事態に移行して統制が始まったのではなく、以前から自由な言論空間は徐々に狭められていき、その帰結として侵略があったという事実だ。……”
 などとありました。ロシアのウクライナ侵攻が、あたかも、自由な言論空間が狭めらた結果であるかのようなこの一文は、とても見過ごすことができません。アメリカを中心とするNATO諸国の東方拡大政策やロシア周辺での軍事演習、また、ウクライナに対する武器の配備などなかったかのような主張だからです。また、アメリカを中心とするNATO諸国などから、政権転覆の意図をもって、さまざまな工作を仕掛けられたら、国内の統制を強化せざるを得ない側面もロシア側にはあると思います。それを無視していると思います。
 プーチン大統領は、ウクライナ侵攻前に国民に、下記のように語りかけています。
きょうは、ドンバス(=ウクライナ東部のドネツク州とルガンスク州)で起きている悲劇的な事態、そしてロシアの重要な安全保障問題に、改めて立ち返る必要があると思う。
まずことし2月21日の演説で話したことから始めたい。それは、私たちの特別な懸念や不安を呼び起こすもの、毎年着実に、西側諸国の無責任な政治家たちが我が国に対し、露骨に、無遠慮に作り出している、あの根源的な脅威のことだ。つまり、NATOの東方拡大、その軍備がロシア国境へ接近していることについてである。…”
 こうしたプーチン大統領やロシア側の主張の詳細が、なぜ議論にならないのでしょうか。ゼレンスキー大統領が語りかける言葉は、ほとんど字幕付きで、毎日のように報じられるのに、プーチン大統領の映像はくり返し同じものが使われ、語りかける言葉には字幕がなく、音声さえも消されているのがほとんどであるのはなぜでしょうか。
 また、プーチン大統領は、
例を挙げるのに遠くさかのぼる必要はない。
まず、国連安保理の承認なしに、ベオグラードに対する流血の軍事作戦を行い、ヨーロッパの中心で戦闘機やミサイルを使った。数週間にわたり、民間の都市や生活インフラを、絶え間なく爆撃した。
 この事実を思い起こさなければならない。というのも、西側には、あの出来事を思い出したがらない者たちがいるからだ。私たちがこのことに言及すると、彼らは国際法の規範について指摘するのではなく、そのような必要性があると思われる状況だったのだと指摘したがる。
 その後、イラク、リビア、シリアの番が回ってきた。リビアに対して軍事力を不法に使い、リビア問題に関する国連安保理のあらゆる決定を曲解した結果、国家は完全に崩壊し、国際テロリズムの巨大な温床が生まれ、国は人道的大惨事にみまわれ、いまだに止まらない長年にわたる内戦の沼にはまっていった。リビアだけでなく、この地域全体の数十万人、数百万人もの人々が陥った悲劇は、北アフリカや中東からヨーロッパへ難民の大規模流出を引き起こした。
 シリアにもまた、同じような運命が用意されていた。シリア政府の同意と国連安保理の承認が無いまま、この国で西側の連合が行った軍事活動は、侵略、介入にほかならない。
 ただ、中でも特別なのは、もちろん、これもまた何の法的根拠もなく行われたイラク侵攻だ。その口実とされたのは、イラクに大量破壊兵器が存在するという信頼性の高い情報をアメリカが持っているとされていることだった。それを公の場で証明するために、アメリカの国務長官が、全世界を前にして、白い粉が入った試験管を振って見せ、これこそがイラクで開発されている化学兵器だと断言した。
 とも言っていますが、ベオグラード、イラク、リビア、シリアなどで、アメリカがやったことをふり返りつつ、ウクライナ戦争を考える必要はないでしょうか。私はベトナム戦争を忘れることができませんが…。
 プーチン大統領は、さらに、”我が国にとって状況は年を追うごとにどんどん悪化し、危険になってきている。……起きていることをただ傍観し続けることは、私たちにはもはやできない。”とも言っているのです。そこに話し合いの余地があるのではないでしょうか。

 だから、今回も「チョムスキーが語る戦争のからくり ヒロシマからドローン兵器の時代まで」(ノーム・チョムスキー、アンドレ・ヴルチェク:本橋哲也訳)から、アメリカが自らの都合で、他国の政権転覆などに関わった事例について、ノーム・チョムスキーとアンドレ・ヴルチェク 語りあっている部分の一部を抜萃しました。「下山事件」や「三鷹事件」、「松川事件」などの真相は、私にはわかりませんが、日本に関する指摘も、大筋間違ってはいないと思います。
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                    第九章 米国権力の衰え
A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 帝国としてのアメリカ合衆国とヨーロッパは世界中で力を強化しつつある、というのが私の見立てです。抵抗の拠点はまだいくつかある──ラテンアメリカ、中国、イラン。でも世界のほかの地域では闘争の余地は狭められている。少なくとも私が自分の足で得た経験からはそう言える。あなたがこれについてわたしよりずっと楽観的であることは知っていますが・・・。
 
NC(ノーム・チョムスキー)
 アメリカ合衆国の権力の頂点は1940年代で、そこからは衰え続けている。1945年にアメリカは世界の富の半分を所有し、圧倒的な安全保障権力によって半球を支配し、太平洋と大西洋、およびその向こうをコントロールしていた。当時ほかの産業国は徹底的に破壊されており、アメリカは日本を占領して西ヨーロッパも基本的に傘下に収めていた。アメリカ合衆国とイギリスがヨーロッパ大陸にやってきて最初にしたことは、反ファシズム運動を破壊し労働運動の力を削ぎ、ファシストの協力者たちとかつての体制とほぼ同じものを再興することだった。
 始まりは1943年で、そのときアメリカとイギリスはイタリアに侵攻し、ほかの地域へと進んでいった。とくにエネルギー資源の豊富な、中東の周辺の一部と見なされていたギリシャにはきわめて残酷なやり方で。ドイツが大きな関心事だったのは、それがヨーロッパの産業界の中核であることを両国が知っていたからです。だから戦後のドイツをどうするかは大きな課題だった。イギリスとアメリカは東ドイツからやってくる共産主義という汚染にとくに気を使っていた。こうした政策に関わっていた一人にジョージ・ケナンがいましたが、彼はこう言っている──我々は西ドイツを東側から「壁で隔てる」必要がある。労働運動が過激になるのを防がなくてはならないから、と。そんなわけでドイツは以前と同じような形でほぼ再建され、労働運動はきわめて制限されたのです。
 フランスでは労働組合を潰すためにスト破りが雇われた。これは組織的な労働運動を分断するにはよく用いられる手段にすぎませんが、メルセイユの港湾労働者たちはフランスがインドシナを再占領しようとしていた最中に、インドシナのフランス軍に送る物資や武器の輸送を邪魔しようとしていたのです。まあストライキ破りをして労働運動を潰すには誰かにそれをやらせなくてはならないわけで、それが得意なのはもちろんマフィア。でもナチスがきわめて統制のとれた社会を作っていたので、マフィアはほぼ壊滅状態だった。ナチスは競合を望まなかったからね。そこでアメリカとしてはシチリアのマフィアと南仏のコルシカ・マフィアを再興した。もちろんマフィアもただでは労働組合を潰さないから代価が必要だった。それがヘロイン産業のマフィア支配だった。これがかの有名なフレンチ・コネクションで、南仏から始まって世界中に広まったのです。
 だからどこでも騒乱や顛覆があると麻薬の売買がそれにつきまとうことには理由がある。よって、もしCIAが政府を顛覆して労働組合を潰すとかいうときには、まず必要なのは人、それから裏金、足のつかない資金ですね。それらが揃えば世界中どこでもうまくいく。歴史家のアルフレッド・マッコイが『ヘロインの政治学』という、これについての基本文献を書いています。
 日本にも同じことがおこなわれました。1945年から1948年まで実質上の支配者だったダグラス・マッカーサーは、戦後初期は日本の民主的な発展を許して、労働組合の結成や民主的体制の設立がなされている。ワシントンのリベラル派がこれを知って驚愕し、47年に介入する。これがいわゆる「逆コース」で、すべてが破壊され大企業の権力が復活した。ほぼファシズム体制と同じものが復興したわけです。

A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 CIAのエージェントで日本の巨大メディア・読売グループのボスだった、正力松太郎のような人間を使ったのでしたね。

NC(ノーム・チョムスキー)
 さらにアメリカは日本の戦争犯罪人たちも復活させた。こういうことが世界中で起こったのです。とにかくこれが米国の頂点でそこから衰退が始まっている。1949年の中華人民共和国建国が大きな痛手だったのは、アメリカが再興しようとしていた世界秩序の一つとして中国はとても大事だと考えられていたから。中国を失った責任はいったい誰にあるのかという論議がアメリカではずっと続いてきましたが、それはいまでもある。まあ面白い見方だね、中国が自分たちのものだったのに我々は失った、誰かが失わせたのだというのは。ともかくこれが最初の衰退の兆候で、そこからすぐに東南アジアを失ってしまうのではないかという心配が起きてきて、それがアメリカ合衆国の東南アジアへの介入につながっていく。
 戦後すぐの時期にはどんな政策を取るべきかの争いがありました。アメリカ合衆国は東南アジアにおけるかつての帝国主義体制に反対していた。それがアメリカの経済その他の介入を阻んでいたからね。でも同時にまた、アメリカは東南アジアで力を伸ばしつつあった民族主義運動にも反対していた。ですから場所によって異なる政策が取られていたのです。たとえばインドネシアでは1948年のマディウン虐殺のあと、アメリカはスカルノ〔1945─68。インドネシア最初の大統領〕を支援することを決めたのだけれども、インドシナでは40年代の終わりにはアメリカの姿勢は揺れ動くようになって、フランスの再征服を支持するようになっていく。でもアメリカがいちばん気にかけていたのはインドシナではなく、文書によればインドネシアなんですね。インドネシアは自然資源が豊富だし、国の規模も大きい。それに比してインドシナは大したことない。でも彼らが恐れたのは当時の文書によればヴェトナムからタイ、そしてインドネシア、日本にさえも「腐敗が広がる」ことでした。アメリカは日本が独立した東南アジアを「受け入れる」ことで、その商業と産業の中心になることを恐れていた。そうなれば実質的にはアメリカ合衆国は第二次世界大戦の太平洋戦争で獲得したものを失うことになる。アメリカは東亜に新秩序を打ち立てるという日本の試みを阻むために戦ったのだから。大雑把にはそんなわけで、1950年の時点でアメリカ合衆国は第二次世界大戦で得たものを失うわけにいかなかったから、インドシナにおいてフランスを大幅に援助したのです。
 それで1958年アイゼンハワーが戦後最大の介入をおこなう。インドネシア本島から自然資源が集中する島々を切り離して米国の管理下に置く、というものです。それにアメリカはインドネシアに民主主義が定着することも恐れていた。当時のアメリカの文書を読むと、スカルノ政府がインドネシア共産党(PKI)の政治参加を認めることをアメリカが心配していたことがわかる。PKIは基本的に貧しい人々のための政党であると理解されていますが、アメリカとすればこうしたことが続くと民主的プロセスが浸透して、PKIが政権の座に就くかもしれないと恐れた。でも米国の介入は失敗します。そして65年の出来事が起きる。

A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 アメリカ合衆国支援によるクーデターで共産主義者や知識人、中国人の少数派が虐殺された。300万ともいわれる人が死んだ。

NC(ノーム・チョムスキー) 
 それほど大きい数字は聞いたことがないけれど、いずれにしろひどかった。

A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 いまの大統領スシロ・バンバン・ユドヨノはサルウォ・エディ・ウィボウォの娘と結婚していますが、このウィボウォは悪名高い特殊部隊「レッド・ベレー」の隊長で、自分とその仲間が1965年以降、300万人は殺したと自慢するのが常でした。300万という数字を言っているうちの一人ですね。
 私の意見では、これは西側諸国にとってとても重要な出来事だった。西側政府と企業にとって、世界の多くの場所でその後何年も繰り返されることの実験場となったからです。ある意味でそれはクーデターというだけでなく経済の実験だった。きわめて市場寄りの経済体制を作り上げる機会だったわけで、カリフォルニア大学バークレー校が全面的に支援して、その顧客であるインドネシア大学の協力者によっておこなわれたものです。クーデターの前からバークレーはインドネシア大学にインドネシアの経済学者のチームを別個に作って活動していた。少しあとになって、シカゴ大学の経済学者たちがチリ大学と同様の罪深い同盟を結ぼうとしたのですが、チリ大学のほうで断ったので、サンティアゴのカトリック大学に打診して受け入れられた。ですからチリでは1973年のクーデター前から、ちょうどインドネシアで65年のクーデター以前からそうだったように、すでに市場原理主義的な経済体制が取って代わっていたわけですね。

NC(ノーム・チョムスキー)
 南アメリカと東南アジアで並行して事態が進んでいたというのは、まったくそのとおりだね。よく見過ごされることですが、これは国の政策立案を分析するときに欠かせない視点です。ワシントンの官僚が地球全体を視野に入れていたことは疑いなくて、この重要な点がよく無視されてしまうから、アメリカ合衆国が世界情勢を動かしているわけではないといった想定がなされてしまうのだと思う。ワシントンは他者に反応してナイーブで下手な仕方で「善をなそう」とすることにやっきになる傾向がある。
 スハルトのクーデターの一年前にはブラジルでクーデターがあって、当時ブラジルは南米でもっとも重要な国だった。ブラジルのクーデターを仕組んだのはケネディ政権でしたが、実際におこなわれたのはケネディが暗殺されてから数ヶ月後だった。これがアメリカ合衆国の権力の衰退を示す興味深い例ではないかと思いますね。米国が転覆しようとしたのはジョアン・ベルシオール・メルケス・ゴラール政権でしたが、その政策は2003年から11年までブラジル大統領だったルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァのそれとあまり変わらない。ルーラはいま西側諸国のお気に入りだけどね。でも当時は西側にとても不評だったから政府は顛覆され、邪悪極まる軍事独裁体制が作られた。これが最初の例で、あとはドミノ式に次から次へと政府が倒された。それだけブラジルは大事だった。そうしてシカゴで訓練された経済学者たちがやってきたわけです。

A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 ある意味、インドネシアにおけるクーデターの余波は、あとになって南アフリカとかエリツィン支配下のロシアといった遠い場所でも感じられたと思いますね。この実験に成功して、西側諸国はモスクワやプレトリア、さらにはルワンダのキリガでも繰り返してきた。

NC(ノーム・チョムスキー)
 チリで。それもあからさまに。右翼はジャカルタ式の解決を公言していたからね。

A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 チリのアジェンダ政権にいた人たちの多くと話をしてきましたが、その大半はすでに相当な年寄りですけれど、クーデターの前にこう言われたと聞きました──「同志よ、気をつけることだ、ジャカルタがやってくるぞ!」。彼らは言っていました、「ジャカルタ」というのが正確に何を意味するのか知らなかった。もちろんインドネシアの首都だというのは知っていたけれど、それが大虐殺の予告だということは理解できなかった」と。
 数年前『テルレナ─国家の崩壊』という「、インドネシアのクーデターとその影響を扱ったドキュメンタリー映画を作りましたが、それもウルグアイのモンテビデオと、そのあとチリのサンティアゴで上映したら、1973年のクーデターの生残りがステージに上がってきて私を抱きしめ、涙を流しながら言いました。「知らなかった……ここチリでもインドネシアと同じだった……まったく同じ」と。

NC(ノーム・チョムスキー)
 当時のアメリカ合衆国、イギリス、オーストラリアの反応が興味深い。大虐殺の様子はきわめて正確に伝えられていて、たとえば『ニューヨーク・タイムズ』は「驚くべき大量殺人」と書いている。そのリベラルな特派員だったジェイムズ・レストンは、記事でこの出来事を「アジアの燭光」と言って賛美していた。これが西側諸国の主要新聞の論調だった。特派員や編集者たちはアメリカ合衆国が自らの役割を隠すことで、彼らの言うところの「穏健な」インドネシアの将軍たちが自分でおこなったことの功績を認められたと褒めている。「俺たちが助けてやったんだぞ」と言って信用をおとさせたくなかったんですね。オーストラリアやイギリスでも同じような反応で、どこでも賛美の嵐だった。
 ・・・


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