私は、ウクライナ戦争にアメリカがどのように関わっているのか、また、その関わる目的は何であるのか、ということを取り上げた記事や報道を知りません。また、2月24日の「ロシアのウクライナ侵攻」、あるいは、「ロシアのウクライナ侵略」といわれている事態がどのようなものであり、なぜそのような事態が発生するに到ったのかということを考察するようなメディアの報道を知りませんし、専門家と言われる人たちの解説も、私は聞いたことがありません。
2月24日に、プーチン大統領が国民向けに演説した内容に触れることなく、なぜ、ウクライナ戦争が語れるのか、とずっと思っています。
プーチン大統領は、演説の中で、ベオグラードやイラク、リビア、シリアに対するアメリカの軍事力行使を取り上げ、アメリカが国際法を無視し、戦闘機やミサイルを使って、執拗に民間の都市や生活インフラを爆撃したことを指弾しています。
そして、NATOが東に拡大するにつれ、ロシアにとって状況は年を追うごとにどんどん悪化し、ベオグラードやイラク、リビア、シリアと同じような状況に追い込まれる危険が迫ってきたと語っています。”私たちの国益に対してだけでなく、我が国家の存在、主権そのものに対する現実の脅威”が、レッドラインを越えるに到ったと語っているのです。
でも、その演説の内容について考えるような記事や報道に接したことは、ほとんどありません。
そうしたことを取り上げることは、アメリカにとって不都合であり、日本が完全にアメリカの影響下にあるからではないかと思います。
私は、アメリカの日本に対する影響力の行使にも、きわめて理不尽なものがあると思っています。
先日取り上げた北方領土の問題もその一つです。
2019年初頭、安倍元首相は「北方領土の問題」で、ロシアとの本格的な交渉に乗り出しました。その際、ロシア側は日本に「前提文書」の作成を要求したといいます。それは、「北方領土を返還した場合でも、在日米軍が基地を設けるなど、ロシアの安全保障にとって脅威とならないこと」を確約することであったと言われています。
でも、前回取り上げたように、安倍元首相は、その確約ができなかったのだと思います。
それは、ダレスの要求した「われわれが望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利」を 現実にアメリカが持っているからだと思います。
辺野古の新基地建設も、日本が、日本の都合で変えることはできないのだろうと思います。
また、北方領土の問題で、ロシアのプーチン大統領は、”ロシアが北方領土を日本に返した場合に米軍基地が置かれる可能性について、「日本の決定権に疑問がある」”と述べたといいます。
プーチン大統領は、米軍基地問題について、”日本が決められるのか、日本がこの問題でどの程度主権を持っているのか分からない”とも指摘したということですが、日米の「密約」の真相を掴んでいるのだろうと思います。
その日米の「密約」の存在は、アメリカの公文書によって証明されています。だから、アメリカは、日本の主権を侵害しているのです。また、「伊達判決」を覆すためになされた外務省や最高裁長官にたいする工作は、あってはならない内政干渉であり、民主主義や自由主義を掲げる国のやることではないと思います。
それだけではなく、日々、米軍基地が日本に存在することによる被害も伝えられています。
さらに、「ゴードン事件」や「ジラード事件」のような悪質な米兵の犯罪があっても、日本に裁判権がなく、日本の司法に基づく解決ができません。信じ難いことです。
でも、戦後、公職追放を解除された戦争指導層や、その流れを受け継ぐ自民党政権が、アメリカと結託したために、そうした状況が、一向に改善されないのだと私は思っています。
さらに、アメリカが、他国の主権を侵害したり、内政干渉したりしてきた事実は、数え切れないと思います。
アメリカのジョージア州コロンバスには、陸軍の駐屯地があるそうですが、ここには、フォート・ベニング訓練センターがあり、冷戦時代以降、中南米諸国をはじめ、いろいろな国の軍人に訓練をほどこしてきたといいます。そして、訓練を受けた軍人が、自国で左翼政権などを倒すクーデターを起こしたり、軍事政権を樹立したり、自国内の左翼やリベラル派を殺害したりしてきたと言われています。
それと似たようなことが、ウクライナでもあったのではないかと、私は疑っています。
下記は、「検証・法治国家崩壊 砂川裁判と日米密約交渉」吉田敏浩、新原昭治、末浪靖司(創元社)から、「Part1 マッカーサー大使と田中最高裁長官」の「相次ぐ米軍機墜落事故」と「米兵犯罪と米軍側に有利な決着」を抜萃しました。
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Part1 マッカーサー大使と田中最高裁長官
相次ぐ米軍機墜落事故
1952年4月に対日講和条約が発効し、占領が終わって独立が回復したとはいっても、米軍は占領軍から駐留軍に衣替えしただけで、従来どおり基地を自由に使用していました。米軍機墜落事故や部品などの落下事故、米軍車両による人身事故、訓練や演習での銃砲の誤射・流れ弾事件、米兵犯罪など、米軍基地があるために引き起こされる事故・事件の被害もあとを絶ちませんでした。
『米軍機墜落事故』(河口栄二著 朝日新聞社 1981年)によると、1952年から59年までの間だけでも、住民の死傷者が出た米軍機墜落事故が16件起きています。死者計39人、負傷者は252人です。主な事故をあげてみましょう。
1952年2月 7日 埼玉県入間郡の民家に爆撃機が墜落。死者4人、全焼家屋7戸。パイロット13人全員死亡。
7月23日 福岡遠賀郡の繁華街に輸送機が墜落。死者3人。パイロット5人死亡。
9月20日 福岡市の住宅に戦闘機が墜落。死者1人、全焼家屋1戸。
1955年 1月 6日 茨城県東茨城郡の農家に戦闘機が墜落。死者1人。全焼家屋1棟
3月24日 埼玉県入間郡の農家に戦闘機が墜落。死者2人、重傷者1人、全焼家屋5棟。
6月15日 福岡市の農地に戦闘機が墜落。死者1人。
6月17日 愛知県春日井市の民家に戦闘機が墜落。死者1人、重軽傷者7人、全半壊家屋5戸7棟。パイロット死亡。
9月19日 東京都八王子市の農家に戦闘機が墜落。死者5人、重軽症3人 焼失家屋4戸 5棟 パイロット死亡。
1956年 5月22日 埼玉県入間郡の農家に戦闘機が墜落。死者1人、全焼家屋2棟。
1958年 7月25日 埼玉県狭山市の民家に爆撃機が墜落。死者2人、重軽傷者10人、全焼家屋5 戸
1959年 6月30日 沖縄・石川市の住宅地と宮森小学校に戦闘機が墜落。児童11人と住民6人が死亡、
児童156人と住民54人が重軽傷、教室3家屋175、公民館1棟が全焼、教室2、家屋8戸、幼稚園1棟が損壊。
その他、1957年11月13日、福岡市の民家に戦闘機の補助タンクが落下し、死者がひとり出ました。
同年8月2日には、茨城県那珂湊市で、米軍の水戸射撃場・補助飛行場付近の県道を親子ふたりが自転車で走っていたところ、離陸直後の連絡機が超低空飛行をし、後方車輪がそのふたりに接触。母親(当時63歳)が首と胴体を切断されて即死、息子(当時24歳)も重傷を負う事故が起きました。
当時の「茨城新聞」などの記事によると、米軍側は「異常気象の熱気流による不可抗力的な事故」と公表。しかし地元では「米軍のパイロットがわざと低空飛行をして、通行人を驚かしていたことがよくあった」との声が上がり、8月7日、地元の市議会は操縦者のジョン・L・ゴードン中尉(当時27歳)のいたずらによるものと断定しました。その名前をとって「ゴードン事件」と呼ばれるようになります。
ところが、8月21になると、この事件は公務中に起きたものとされるようになりました。行政協定の米軍人・軍属らの刑事裁判権に関する取り決めに従い、公務中のため裁判権は米軍側にあるとされ、日本側の裁判権は放棄され、捜査は終了しました。日本政府が遺族側に43万2044円を保障すると通知し、遺族側の同意を得ました。(『本当は憲法よりも大切な日米地位協定入門』前泊博盛編著 創元社 2013年)。同協定では、公務中かどうかの判断は米軍側にゆだねられており、公務証明書を発行すればそれで通ってしまうのです。
米兵犯罪と米軍側に有利な決着
このように米軍がらみの事故・事件は、米軍側に有利な決着をすることが多いのが実態です。同じ1957年の1月30日には、群馬県相馬ヶ原の米軍演習場に立ち入って、使用済みの空の薬莢を拾っていた、当時46歳の主婦を米陸軍特技兵ウィリアム・S・ジラード(当時21歳)が小銃で射殺するという事件が起きました。ジラードは空の薬莢をばらまいて、「ママサン、ダイジョウブ」と主婦をおびき寄せ、発砲したのでした。米兵の名前をとって「ジラード事件」と呼ばれます。
相馬ヶ原演習場は、旧日本陸軍の演習場を米軍が引き継ぎ、1946年にさらに周辺1287平方メートルを接収し、地域住民に72時間以内に無条件で立ち去ることを要求して設置されました。周辺の農家は農地を取り上げられ、炭俵の原料である茅の副収入も失いました。その結果、空の薬莢をを拾って商人に売ることで生計を立てざるをえなくなっていたのでした。
米軍側は公務証明書を発行し、公務中の事件なので裁判権は米軍側にあると主張しました。しかし、面白半分に日本人を動物のようにおびき寄せて殺した行為の、いったいどこが公務なのかと、日本の世論は強く反発し、怒りが広がります。そのため日本の検察当局も、当時ジラードが公務時間中であったとしても、その行為は公務とは関係がないとして、身柄引き渡しと日本側の裁判権行使を求めました。
日米両政府間の折衝の結果、これ以上の反米感情の高まりを避けたいアメリカ側が、裁判権の不行使を決め、57年5月18日、検察はジラードを傷害致死罪で起訴しました。しかし、その裏では、「殺人罪など、傷害致死罪より重い罪では起訴しないこと」、「日本側は、日本の裁判所がなしうる限り刑を軽くすることを、行政当局経由で勧告すること」を条件に、アメリカ側は裁判権を行使しないという密約が、日米合同委員会で合意されていたのでした。それはのちに、アメリカ政府解禁秘密文書であきらかになります。
共著者の末浪靖司が2011年にアメリカ国立公文書館で発見したその文書(1957年5月16日、マッカーサー大使からダレス国務長官宛て「秘」(公電)には、こう書かれていました。
「裁判権問題解決のための秘密の協定も、本日、ラドゥム・フバードと千葉の間で調印された。この行動は秘密にされる」(末浪訳、『9条「解釈改憲」から密約まで 対米従属の正体』末浪靖司著 高文研 2012年)→資料⑦
電文中のラドゥム・フバードはアメリカ側の担当責任者、千葉は当時の千葉皓外務省アメリカ局長のことです。
そして、8月26日からの前橋地裁での裁判では、検察による懲役5年執行猶予4年という、密約通りの判決が言い渡されました。普通ではおよそあり得ない軽い判決に対し、検察は控訴せず、刑は確定。12月6日、ジラードは帰国します。その後、除隊となり、何のおとがめもなく自由の身になったのです。
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