「検証・法治国家崩壊 砂川裁判と日米密約交渉」吉田敏浩、新原昭治、末浪靖司(創元社)を読むと、日米の間にはさまざまな密約があり、また、さまざまな秘密交渉が重ねられてきたことがわかります。アメリカの解禁秘密文書の数々は、日本という国が独立国ではなく、アメリカの従属国であることを、はっきり示しているように思います。
立川基地滑走路延長問題に関わるアメリカの日本政府に対する働きかけは、どう考えても日本の主権を侵害するものだと思います。
立川では、下記の抜萃文にあるように、アメリカが基地拡張のための土地の強制収用を日本政府に求め、抵抗する農民や農民を支援する労働者、学生を警官隊によって実力をもって排除することを働きかけたということが明らかにされています。
だから、ロシアとの北方領土問題の交渉が頓挫したのも、拉致問題における北朝鮮との交渉が進まないのも、アメリカの主権侵害で、日本が独立国としての外交ができないからだろうと私は思います。
3月の国連総会緊急特別会合で、ロシアに対して「軍事行動の即時停止を求める決議案」が、141カ国の圧倒的賛成多数で採択されたことが、くり返し報道されました。193の国連加盟国のうち、反対票を投じたのはベラルーシ、北朝鮮、エリトリア、ロシア、シリアの5カ国のみで、棄権は35カ国であったということでした。
でも、先日(14日)の国連総会におけるロシアに対する「侵攻の賠償要求決議」では、賛成が94カ国に減り、反対が14カ国、棄権が73カ国、投票をしなかった国が12カ国という結果であったと報道されました。だから、内容は異なりますが、ウクライナ戦争におけるアメリカやウクライナの強引な武力主義的対応が、支持を失いつつあるのではないかと思います。
アメリカは海外に多数の基地や活動拠点をもっており、その数は170カ国にのぼると言われています。米軍基地が存在する国々は、大なり小なり日本と同じように主権を侵害され、首根っこをつかまれて、国連総会における投票でも、日本と同じように、法や道義・道徳に基づいて、自らの考えで投票することができない国があるのではないかと思います。だから、上記のような国連総会の投票結果の変化は、その内容が異なるとはいえ、見逃すことができない変化だ、と私は思います。
また15日、ポーランド外務省は、”ウクライナとの国境に近い東部プシェボドゥフに同日午後3時40分、ロシア製ミサイル1発が着弾し、2人が死亡したことを確認した”と発表しました。
その日の夜、ゼレンスキー大統領は、”NATOの領土をミサイル攻撃する。これは集団安全保障に対するロシアのミサイル攻撃だ。重大なエスカレーションだ。行動が必要だ”と関係国の行動を呼びかけ、”私たちがずっと警告してきたことが今日起きた。テロはウクライナ国境の内側にとどまるものではない”とも主張したといいます。
アメリカの戦争目的や戦略基づいて 今まで以上に、ロシアを孤立化させ、追い詰めようとする主張だと思いました。
でも、意外なことに、このミサイル着弾問題で、アメリカのバイデン大統領が、”米国と北大西洋条約機構(NATO)同盟国が調査しているが、ロシアから発射されたミサイルが原因でない可能性を示す予備的情報がある、軌道を踏まえるとロシアから発射されたとは考えにくい。だが、いずれ分かるだろう”と述べたといいます。
今までのアメリカは、常にウクライナと一体となって、ロシアを孤立化させ、弱体化させるための作戦を展開してきたのに、突然、ゼレンスキー大統領の「我々のミサイルではない」という主張を否定するような発表をしたことに、私は少々驚きました。
今までのアメリカなら、たとえミサイルがウクライナのものであったとしても、それを発表することはせず、ロシアを攻撃するために、ゼレンスキー大統領と一緒に、ロシアを非難したと思います。でも、バイデン大統領は、はっきりと、ゼレンスキー大統領の主張を否定しました。だから私は、アメリカが、ロシアの孤立化や弱体化にある程度成功したので、世界情勢を踏まえ、ゼレンスキー大統領を突き放し、停戦の方向へ転換する歩みを始めようとしているのではないかと思います。
それは、アメリカのウクライナ支援が、実はウクライナのためではなく、アメリカ自身の利益と覇権維持のためであったということを示すものではないかと思います。
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Part2 秘密文書の発見
明らかになった日米両政府の策略
滑走路延長を強行するため、日米両政府がまず実現しようとしたのが、「工事のための立ち入り権」と「測量」でした(日米合同委員会秘密記録による)。
砂川の農民にとっては、宮崎町長が東京調達局立川事務所長から非公式に通知された1955年5月4日が最初だったのですが、その2年も前から砂川町の人びとをはじめ国民には隠して米軍基地拡張の土地強制収容について秘かに協議していたことも判明しました。
日本政府の態度は、このアメリカ側の要求をほとんどまるごと受け入れるというものでした。アメリカ解禁文書に出ていますが、1955年2月14日付で当時の鳩山一郎首相は極東軍司令官に宛てて返書を送り、「飛行場拡張に必要とする土地を提供することに原則的に同意する」と公式に回答しています。
この土地取り上げの目的を果たそうとして日本政府がとった措置の中には、実に悪辣なものがありました。たとえば、そのころ立川市内で米軍基地から流出した油による井戸水汚染が起き、市民の不満がひろがっていました。政府はこれに対する損害賠償を逆手にとって、米軍基地滑走路延長を住民に認めさせようという策略をめぐらしました。日米合同委員会の経過報告によると1955年1月31日の日米合同委員会で米軍基地からの油流出による井戸水汚染問題が取り上げられ、福島慎太郎調達庁長官が「汚染問題の損害賠償請求の適切な時機における解決は、立川基地滑走路延長を認めさせるのを促すかもしれないとほのめかした」と記録されています。損害補償が所定の四分の一程度しか払われず、残額の支払いが滞っていたので、全額払うのとひきかえに基地拡張を認めさせるという駆け引きの画策だったのです。
内々に基地拡張の意向を宮崎砂川町長に伝えるよりもずっと前の話ですが、砂川町の農民の誰も基地拡張の計画を知らず、国民もまったく知らない時点で、土地接収を押しつける策略だけが先行していたのです。
一方、鳩山首相は、砂川で土地を取り上げられた人々を、アメリカに難民として移住させることを密かにアメリカ側に打診していました。この事実も、アメリカ政府の解禁秘密文書に記録されています。1955年9月30日の松本滝蔵官房副長官と東京の米大使館のバーンズ米公使との懇談記録に出てくるものです。米軍の土地取り上げで農地をなくした人々を、アメリカ政府の「難民救済計画」に基づいて海外に移住させるという構想です。
話を持ちかけられたバーンズ公使は、「もし日本政府が〔同計画の〕提案を決めたら、土地所有者に賄賂を贈っていると見られるよりは、良い効果をもたらすだろう」などと前向きに応じています。さらに、アメリカ公使の個人的な考えとして、「この問題は砂川だけを狙い撃ちするのでない方が良い」とも入れ知恵しています。あくまで極秘の首相自身の構想として「取り扱い注意」にしながら、アメリカ大使館と鳩山内閣の間で検討されたことが示されています。
米軍によって農地を強奪された人びとを遠く離れたところに集団移住させた例は、これとほぼ同じ頃、米軍部隊が直接、銃剣を突きつけて文字通り乱暴きわまる土地強奪を強行した米軍支配下の沖縄で、実際におこなわれています。いまの宜野湾市(当時は宜野湾村)の伊佐浜で米軍が出動して直接おこなった土地強奪による被害者などを、琉球列島の先島諸島の石垣島や、さらには南米のブラジルやボリビアにまで行かせたのがそれです。米軍基地づくりのために土地を奪われた農民を遠隔地へ事実上の「棄民」にも比すべきひどいやり方を、アメリカは強行したのです。
鳩山首相もそれと似たことをやろうと構想していたのでしょう。
アメリカ側がけしかけた警官隊の実力行使
アメリカ政府解禁秘密文書の中で注目されるのは、砂川の農民の抵抗やそれを支援する労組員、学生らの滑走路延長反対の運動に対し、アメリカ政府が警官隊による弾圧を日本政府に平然とけしかけていたことです。
立川基地の拡張予定地では、土地接収の前段となる拡張予定地の現地測量が、基地拡張に反対する人びとの抵抗のため進みませんでした。そのため、日本政府は警官隊の投入によって農民、労働者、学生、市民の抵抗の排除を画策し、アメリカ側にそのことを密かに説明しています。この経過を記した解禁秘密文書からは、警官隊による弾圧計画に対してアメリカ政府が強力な支持以上のものを与えていたことが裏付けられます。
砂川の土地接収計画が明らかになって3ヶ月余り後の1955年8月末、
重光葵外相・副総理が訪米し、アメリカ政府首脳と重要会談をおこないました。日本政府が日米安保条約の改定を初めてアメリカ政府に提案したことで知られている日米会談でした。
その時の重光外相らとダレス国務長官らとの協議のさい、アメリカ側は特に農民、労働者、学生の抵抗ですんなり進まない立川空軍基地の滑走路延長計画をとりあげ、基地拡張反対の運動を強権の発動によってつぶすよう正面切って促しています。
1955年8月30日付け、ダレス国務長官と重光外相の第2回会議録です。出席者は、アメリカ側がダレス国務長官、ロバートソン国務次官補、ラドフォード統合参謀本部議長、グレイ国防次官補など、日本側が重光外相、河野一郎農相、岸信介日本民主党幹事長などでした。
「滑走路延長問題。
ダレス国務長官は、ゴードン・グレイ国際安全保障担当国防次官補がある特別の問題について発言するようだと言った。グレイ次官補は、日本における滑走路延長問題を国防総省は懸念していると切り出した。日本政府との間でこの問題の取り決めはできあがったし、国防総省は日本政府が計画遂行の特別措置を具体化しつつあることを聞いて励まされているが、この計画に反対するデモのひろがりや組織ぶりにはがっかりさせられている。この計画は日本国民自身の利益になるし、特に日本の航空機がやがて運航のため広大なスペースを必要とするようになるのだから重要である。現在のデモに対して対抗措置をとることが望ましいし、アメリカは喜んでそれを助けたい。
重光外相は、共産主義者らを抑えるための措置をとることには賛成だが、現状況下での実力行使は険悪にあるかもしれないと述べた。外相は〔米軍の〕占領で共産主義者に手際よく対処する法律がすべて廃棄されたので、いまではかれらを何とかするのはほとんど不可能だと強調した。現在日本政府が活用している唯一の力は説得力であり、政府は説得力を発揮できるよう共産主義反対の強固な能力を開発しなければならないと述べた。(略)
ロバートソン副長官はグレイ次官補が出した滑走路問題は、日本国民が自分たち自身の国防上の利益になると確信すべきだと指摘した。重光外相はこれに応え、滑走路の延長を既に約束し必要な土地の接収もやむなくされるかもしれない政府に日本国民が耳を傾けないのだと述べた。だが、それをやれば左翼の思うつぼにはまるだろう。外相はそうのべて、滑走路延長反対は純粋なものではなく、共産主義者の扇動によるものだとつけ加えた」(新原訳)
このようにダレス長官の催促に従って発言したグレイ次官補は、「日本における滑走路延長問題をめぐる反対運動の拡大に強い懸念を示し、「現在のデモに対して対抗措置をとることが望ましいし、アメリカは喜んで助けたい」とのべ、警官隊の弾圧をあおるだけでなく、その援助まで申し出ていたのです。
これに対して重光外相は異議なく同調し、「滑走路延長反対は純粋なものではなく、共産主義者の扇動によるものだ」と、民衆のやむにやまれぬ抵抗の抹殺を意図する発言をしたのです。
土地接収強行のための弾圧
1955年5月の滑走路延長計画の通告以来、土地接収に反対する砂川の人びとは、最初は労組に支援を要請し、のちに学生の応援も呼びかけて、各地から来た人たちとともに、土地取り上げの前段としての強制測量阻止のため、非暴力的手段で土地を守ろうとしてきました。砂川町基地反対同盟行動隊長の青木市五郎さんが口にされ、またたく間にあのきびしい抗議行動に加わった多くの人々のきずなとなった「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」の合言葉が物語っている通り、それは祖父伝来の農地を守って、戦争のための基地拡張に反対するという大義に基づくたたかいだったのです。
そのなかで、測量強行動きがあった1955年秋と翌56年秋に、接収に反対する人びとの強制測量阻止のデモに対し、警官隊が襲撃して殴る蹴るの暴行を加えケガを負わせるという、重大な「衝突」、正確な言葉を使えば大がかりな弾圧事件が起きました。
特に1956年 10月半ばの数日間にわたる測量阻止のデモ隊に対する警官隊の襲撃は、実に乱暴きわまる暴力沙汰でした。測量を阻止しようとした地元農民や労組員、学生らの方は、まったくの非暴力で、ただスクラムを組み測量を阻止しようとする、やむにやまれぬ抵抗だったのですが、警官隊がこれに棍棒で殴りかかるなどして襲いかかり、最後の2日間には千数百人におよぶ負傷者が出ました。
この時の目撃証言として、砂川地元の基地拡張反対同盟の中心人物である故宮岡正雄さんの証言があります。宮岡さんの著書『砂川闘争の記録』(お茶の水書房 2005年)に出てくるもので、10月13日の経過を次のように記しています。
「午前11時、鉄兜・棍棒・ピストルで武装した2000名の警官隊は、5日市街道から町役場の横へ入り、目的地の栗原むらさん宅を目標に、広い畑一面に散開して乱入してきた。日本陸軍歩兵部隊の散兵戦の戦術であった。スクラムでは防げない広い範囲であった。警官隊は労働者や学生の頭を棍棒でめった打ちにし、腹を突き上げ、足蹴にした。手のつけられない兇暴さであった」
富岡さんは、つづけてこう述べています。
「そこへ日本山妙法寺のお坊様たちが現われ、坐り込まれる。さすがに猛り狂った警官隊も一時とまどったように止まる。お坊様たちは動かない。たちまちそのまわりに労働者、学生が集結して坐り込む」
「この日の測量の目標は、栗原さん宅からはじまる拡張予定地の西側の部分である。支援諸団体も地元も全員がその地点に結集し、目標地区は人で埋めつくされた。これを排除しなければ測量できない。
警官隊がまた行動を再開した。無抵抗で坐り込んでいる妙法寺のお坊様たちに警棒をふり挙げて襲いかかり、労働者、学生のなかへ突っ込んでくる。負傷者の悲鳴があがる。泥のなかへ倒れている女子学生を力いっぱい蹴り上げる。警官隊は報道陣や救護の人達まで、まるで見さかいのない暴力をふるった。倒れても倒れても新手の支援部隊は限りなく栗原さん宅の付近に結集しつづけ、測量させない」
「この衝突が、この日もついに夕方までつづいたが、現地に一本の杭も打たせなかった。しかし負傷者は救急車で運ばれ、手当てを受けた者だけで800名を上回る。実際の負傷者はもっと多かったことは間違いない」
「誰のためにこうまでして米軍の基地をつくらなければならないのか──という人もいた。現地の砂川の反対同盟の素朴な人びとは、この苦しみに耐えぬいて、測量を阻止してくれた人達に対して、何をもって報いるか──ただ基地をつくらせないこと、この一事につきた。傷つきながら、必死に測量阻止のために闘ったこの人達の姿に、反対同盟の人びとの心に反権力の抵抗の拠点は築かれた」
富岡さんのこの生々しい描写は、砂川闘争の意味とこれを弾圧した警官隊の暴挙の本質を明らかにしています。
10月13日の弾圧をめぐる記述の最後の部分には、次のような文章も続いています。
「警官の兇暴さに限りない憤りが沸き上がってくる。激しい衝突に頭から血を流し、スクラムで押し、押し返される苦しさに、思わず口をついて出た『お母さん』と呼ぶ女子学生の気持ちは、猛り狂った横暴な警官隊への恐怖と威圧感にこらえて闘った人達にはよく分かった」
一方、当日出動した警視庁の若い一人の機動隊員は、「精神的に悩み、苦しみ」ぬいたと、弾圧を疑問視する遺書を書き残して、自殺しました。
戦争のための米軍基地拡張は許せない、自分たちの土地を基地に取り上げられるのは絶対にご免だ、というやむにやまれぬ闘いと、アメリカ政府の密かなそそのかしを受けて警官隊によって暴圧した日本政府の問答無用の態度が、だれの目にも鮮明に焼き付けられたのです。
こうした不当弾圧は、日米安保条約のもとでわが国がアメリカの戦争の基地として強化されていくことへの危惧を、国民のあいだに一挙に生み出し、砂川闘争への全国的な同情と共感が広がりました。
このため、10月13日の夜、政府は緊急に「測量中止」という想定外の発表をせざるをえませんでした。
これがその後の国民的批判と抵抗の広がりもあって、10年あまり後の1968年の立川基地拡張中止の発表、そしてその後の(一部は自衛隊基地にされたものの)立川アメリカ空軍基地そのものの全面返還(1977年)へとつながったのです。
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