関東大震災の混乱の中で虐殺された朝鮮人は、独立新聞社特派員調査報告によると6661人であるという。また、「震災下の中国人虐殺 中国人労働者と王希天はなぜ殺されたか」仁木ふみ子(青木書店)には、虐殺された中国人の死者は、656名、行方不明(王希天を含む)11名とある(徹底した調査の結果である)。また、亀戸では社会主義者10人も殺されている。亀戸事件である。流言蜚語の結果である、と言い切るには無理があるのではないかと思われる。
「回想八十八年」石井光二郎(カルチャー出版社)には、下記のように石井光二郎(当時朝日新聞経営部長)の使いの者に、正力松太郎(当時警視庁官房主事)が「朝鮮人がむほんを起こしているといううわさがあるから、各自、気をつけろということを、君たち記者が回るときに、あっちこっちで触れてくれ」と、流言蜚語の伝搬に協力を依頼した事実が記されている。また、正力松太郎は、「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました」と、自ら「虚報」の扱いに失敗したことを、下記のように講演会で話している(「人間の記録86 正力松太郎 悪戦苦闘」日本図書センター)。しかし、不思議なことに被害者や遺族に対するお詫び、謝罪、さらには救済や賠償について全く触れていない。そのことに、流言蜚語の内容(虚報)や伝搬の仕方、政府による虐殺事件の報道禁止措置とその解除のタイミング等を考え合わせると、流言蜚語(虚報)は公権力によって、意図的に流された疑いをぬぐい去ることができないのである。
「現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人」の資料は、国会で「吾々は之に向つて相当朝鮮人に対する陳謝をするとか或は物質的救助をなすとかしなければ、吾々は気が済まぬやうに私は考へるのである」と、朝鮮人虐殺に対する謝罪や救済措置を時の政府に迫った田淵豊吉の演説の抜粋である。それを受けて永井柳太郎がさらに踏み込んで、「鮮人事件の全責任は、唯々自警団にのみ存するが如き観があることは、本員の頗る怪訝に堪えない所であります」とその責任問題を取り上げ追及した。しかし、隠蔽方針は覆らなかった。その結果、2003年8月25日、日弁連が、関係者の人権救済申し立てを受け、内閣総理大臣に対し、①虐殺事件の被害者、遺族に対し、国の責任を認めて謝罪すること、②虐殺事件の全貌と真相を調査し、その原因を明らかにすることを勧告する、という事態が発生しているのである。
「回想八十八年」石井光二郎(カルチャー出版社)-------------
Ⅴ 朝日新聞社時代
関東大震災に遭遇
・・・
さっそく、大阪に通信を出さなくてはいけない。しかし、交通機関がどうなっているか、不明である。警視庁や内務省などに聞いてみても、どこまでどう行けるのか、全然わからない。とにかく、あらゆる機関を臨機応変につかまえて、大阪本社へ連絡員を出そうということになった。ところが、金がない。
いつも、銀行にお昼ごろ取りに行っていたので、当日も、会計の者が出かけたのだが、その矢先に、地震にあったわけである。
だれか金を持ってないかと聞くと、米田実外報部長が、いくらか持っていた。一人が、ポケットから出したぐらいでは、とても足りない。どうしようもないので、下村さん(下村海南、台湾総督府民生長官辞任後、朝日新聞専務)が、旧藩主の紀州の殿様の家に行って、借りてきてくれた。そこで、東海道、中山道、東北の三道を、それぞれ二人ずつ組んで、大阪本社へ向かわせるようにし、それまでの震災の様子を書いた原稿と、金を持たせて、出発させた。
まっさきに成功したのは、東海道を行った組であった。その組が、横浜まで行って、ふと気が付いたのは、陸上の通信は皆壊れてしまっているが船の無線は使えるだろうということだ。港には、大きな船があるだろうということで、そこへ行き、船から通信を出した。これが、大阪へのくわしい第一報になった。他の組も、時間は遅れたが、なんとかして、大阪本社へ連絡することができた。
次の仕事は、朝日の臨時本部を作ることだ。夜中の十二時ごろ、私は社屋がどうなったか、伴(トモ)をつれて見に出かけた。並木通りなどは、みんな焼けている。どういうわけか、水道の水は出ていた。落ちていた布団を拾い、水をいっぱいかけて、伴の者と二人で、それを頭から被った。並木通りは、両側からの火気で、そうしないと通れなかった。息がつまりそうになると、しばらくかがみこみ、息ができるようになると、また進むというふうにして、とうとう、社屋の所までたどりついた。
窓からのぞくと、火がチラチラしていて、熱くてたまらない。さっと引き下がり、またしばらくしてのぞきこむ。なかでは、新聞の巻取紙がブスブス燃えており、機械は燃えて、たれ下がっていた。これはとてもいかん、巻取紙は、ほかから持ってくるとしても、機械の手配から始めなければならぬ、大変なことになったと思った。
帝国ホテルが焼けなかったので、一室を、早く借りたいと思った。夜中に、アサヒグラフの編集長、鈴木文四郎君を、使いにやって交渉させたところ、一番先に頼みに行った組だから、幸いに、大きい部屋を二つ借りることができた。そこに、編集、営業、庶務をいれることにきめ、その晩は、宮城前で夜を明かすことにした。
記者の一人を、警視庁に情勢を聞きにやらせた。当時、正力松太郎君が官房主事だった。
「正力君のところに行って、情勢を聞いてこい。それと同時に、食い物と飲み物が、あそこには集まっているに違いないから、持てるだけ、もらって来い。帝国ホテルからも、食い物と飲み物を、できるだけもらって来い」といいつけた。
それで、幸いにも、食い物と飲み物が確保できた。ところが、帰ってきた者の報告では、正力君から「朝鮮人がむほんを起こしているといううわさがあるから、各自、気をつけろということを、君たち記者が回るときに、あっちこっちで触れてくれ」と頼まれたということであった。
そこにちょうど、下村さんが居合わせた。「その話はどこから出たんだ」「警視庁の正力さんがいったのです」「それはおかしい」
下村さんは、そんなことは絶対にあり得ないと断言した。「地震が九月一日に起こるということを、予期していた者は一人もいない。予期していれば、こんなことにはなりはしない。朝鮮人が、九月一日に地震が起こることを予知して、そのときに暴動を起こすことを、たくらむわけがないじゃないか。流言ひ語にきまっている。断じて、そんなことをしゃべってはいかん」こういって、下村さんはみんなを制止した。
私たちは、警視庁がそういうなら、なにかあるのかなと思っていたけれども、下村さんは、断固としてそういわれた。これは下村さんの大きな見識であった。ふだんから、朝鮮問題や台湾問題を勉強し、経験をつんできているから、そんなことはありうるはずがないという信念があったのだと思う。だから、他の新聞社の連中は触れて回ったが、朝日新聞は、それをしなかった。
しかし、食い物だけはいろいろもらってきたので、私がそれを箱に入れておいた。「どこどこを視察して記事を書け」と命じ、それをちゃんとやって来た者には、ごほうびにサイダーとパンをやって、激励するというようなことをしながら、一晩テントの中で過ごした。
その晩、政友会の森恪氏が自動車でやって来て、「震災見舞いです」といって、スイカを二つ持ってきた。余裕綽々(シャクシャク)だなと思って、私は感心した。しかも和服だった。まるで別世界から来たような感じで、強く印象に残っている。
・・・
私は、内藤君から、ここまでの報告を聞いてから、社の者が二重橋前を引き上げ、帝国ホテルに移ったのを見とどけて、九月二日の夕方家へ帰った。
家に着くと、「朝鮮人が、六郷川のほうに集結していて、今晩中に押しよせて来るから、みんな小学校に集まれ」ということだった。私は、ちょっと様子を見て、また社に引っ返すつもりであったのに、大変なことになったと思った。家族を見殺しにするわけにもいかないから、社には秘書を使いにやって、「こういうわけだから、今晩は帰社できない」といっておいた。
下村さんのはなしを聞いていたから、そんなことはありえないとは思っていたが、とにかくみんなを連れて、小学校に行った。小学校は、いっぱいの人であった。日が暮れてから、演説を始めた者がいた。「自分は陸軍中佐であります。戦いは、守るより攻めるほうが勝ちです。敵は六郷川にあつまっているというから、われわれは義勇隊を組織して、突撃する体制をとりましょう」と叫んでいる。
バカなことをいうやつだと思ったが、そこに集まった人びとも、特に動く気配もなかったから、私も黙っていた。
そのうち「、「井戸に毒を投げ込む朝鮮人がいる。そういう井戸には印がしてある」などという流言が入ってきた。あとで考えると、ウソッパチばかりだった。私は、趣旨としては下村さんのいうとおりだと思うけれど、警視庁もそういっているし、騎虎(キコ)の勢いで、どうなるかわからないと懸念していた。夜明けまで小学校にいたが何事もなく、いじめられた朝鮮人が引きずられて行くだけだった。
・・・(以下略)
「人間の記録86 正力松太郎 悪戦苦闘」(日本図書センター)--------
正力松太郎 悪戦苦闘
米騒動や大震災の思い出
このたび総監閣下から何か皆さんに話してくれというご依頼がありましたので私は甚だ僭越ながらここに参った次第であります。
只今お話しがありました如く私は役人生活の大部分を警視庁で奉職しておりましたからここへ来て皆さんにお目にかかることは自分の郷里に帰って昔の友達か後進の者に話をするような感じがするのであります。従って、固苦しい話よりも、昔の思い出話をした方が宜しいかと存じます。
私は大正2年6月から大正13年1月まで11年間引続き警視庁におりました。この間、警視庁として種々なる大問題に直面しました。即ち同盟罷業が頻々起こり大衆の力を頼んで政府を倒そうとするいわゆる倒閣運動も度々行われ、また共産党の検挙もこの時始まり、なおまた有名なる全国米騒動や関東大震災も起こったのであります。当時私共の経験した事をお話しするのは幾分か皆さんのご参考にもなり、有意義かとも思います。…
・・・
警視庁庁舎焼失の非難
・・・
次に朝鮮人来襲騒ぎについて申し上げます。朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。大地震の大災害で人心が非常な不安に陥り、いわゆる疑心暗鬼を生じまして、一日夜ごろから朝鮮人が不穏計画をしておるとの風評が伝えられ淀橋、中野、寺島などの各警察署から朝鮮人の爆弾計画せるものまたは井戸に毒薬を投入せるものを検挙せりと報告し二,三時間後には何れも確証なしと報告しましたが、二日午後ごろ富坂警察署からまたもや不穏鮮人検挙の報告がありましたから念のため私自身が直接取調べたいと考え同署に赴きました。当時の署長は吉永時次君(後に警視総監)でありました。私は署長と共に取調べましたが犯罪事実はだんだん疑わしくなりました。折から警視庁より不逞鮮人の一団が神奈川川崎方面より来襲しつつあるから至急帰庁せよとの伝令が来まして急ぎ帰りますれば警視庁前は物々しく警戒線を張っておりましたので、私はさては朝鮮人騒ぎは事実であるかと信ずるにいたりました。私は直ちに警戒打合せのため司令部に赴き寺内大佐(戦時中南方方面陸軍最高司令官)に会いましたところ、軍は万全の策を講じておるから安心せられたしとのことで軍も鮮人の来襲を信じ警戒しておりました。その後、不逞鮮人は六郷川を越えあるいは蒲田付近にまで来襲せりなどとの報告が大森警察署や品川警察署から頻々と来まして東京市内は警戒に大騒ぎで人心恟々としておりました。しかるに鮮人がその後なかなか東京へ来襲しないので不思議に思うておるうちようやく夜の10時ごろにに至ってその来襲は虚報なることが判明いたしました。この馬鹿々々しき事件の原因については種々取沙汰されておりますが、要するに人心が異常なる衝撃をうけて錯覚を起し、電信電話が不通のため、通信連絡を欠き、いわゆる一犬虚に吠えて万犬実を伝うるに至ったものと思います。警視庁当局として誠に面目なき次第でありますが、私共の失敗に鑑み、大空襲に際してはこの点特に注意せられんことを切望するものであります。
「現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人」-----------------
20 国会による事件調査
1
大正12年12月14日(金)
国務大臣による演説に対する質疑
田淵豊吉君
-前略- 第6には私は内閣諸侯が最も人道上悲しむべき所の大事件を一言半句も此神聖なる議会に報告しないで、又神聖なるべき筈の諸君が一言半句も此点に付て述べられないのは非常なる憤慨と悲しみを有するものであります。それは何であるかと言へば朝鮮人殺傷問題であります。諸君は何が為に朝鮮を合併を致したか、合併を致して国防上、外交上、或は文明の上、産業の上に於て、互に相通じて 殆ど同じ民族が相共に提携して往くと云ふことが、此合併の根本的のものでないかと私は固く信ずる一人である、然るにも拘らず噂に依りますと殆ど千とか千以上に上る所の朝鮮人が殺されたと云ふことに向つて、一言半句も吾々の眼は新聞紙などを通じて視ることができないで、唯々噂に依つて之を聴くと云ふことは、非常に怪訝の念を挟まざるを得ない状態であります。諸君、吾々は皇民に非ざるなき所の朝鮮人、辺土に在って代議士を出して居ない所の無告の民の為に何が為に諸君の肺肝を貫く言葉を以て弾劾しないのであるか、或は小事末節に捉はれて、千人以上の人が殺された大事件を不問に附して宜しいのであるか、朝鮮人であるから宜いと云ふ考を持つて居るのであるか、吾々は悪いことをした場合には謝罪すると云ふことは、人間の礼儀でなければならぬと思ふ、日本人は正義の上に立って居って、侵略主義でない、吾々は正義の上に立って、比較的文明ならざる国民を文明の域に進めんが為に、人類の福祉を増進するが為に、吾々は日本帝国を形造つて居るのではないか、然るに、諸君は更に一言半句も此事に付て述べられないのは如何、又新聞紙上にも之を掲載することを禁じ、演説にも、之を禁じ、之を言ふ者を罰すると云ふのはどう云ふ訳であるか、之を私は内閣諸公に聴きたいのであります、人或は言ふのであります、朝鮮人の中にも悪い者があるから、流言蜚語が多く起つたので、そうしたのである、又其時は群集心理が働いて、10日間は竹槍を持って家に蟄伏して居つたような状態であつて実に無政府のやうな状態を呈出して居つたのである、そこは今日の者と違って居る、故に如何なる人がさう云ふ事をやつたか知らぬが、今日或は冷静なる眼を以て斯く斯くであるからいけないと云ふことを速断することは出来ない、其間に十分考慮の余地がある。吾々日本国民も東京市民も、其時は恐怖の念に打たれた為に、流言蜚語に惑わされ、或行動を執り、或は自家防衛を行つたかも知らぬというのである。併しながら其防衛の範囲を超えて居つたならば、吾々は朝鮮人に対して、殊に被害者の朝鮮人に対して、大なる謝罪をしなければならぬ、それを単に速断に依つて、東京に住んで居る人、横浜に住んで居る人と云ふのではない、吾々の国民性が生んだ所の一の結果であると私は信ずる、吾々決して悪意はない筈である、併しながら恐怖の結果、斯の如き事をしたのであるから、日本国民として吾々は之に向つて相当朝鮮人に対する陳謝をするとか或は物質的救助をなすとかしなければ、吾々は気が済まぬやうに私は考へるのである(拍手)諸君足を踏んでも失礼でありましたと云へば怒る気がしない、知らぬ顔をして居れば、千人殺したときは十万人の者が殺された虐殺された、火焙りにされたと云ふことを誤つて伝へられぬとも限りませぬ。…
故に吾々は既往の吾々の過を決して言ひ抜け扱ふことをしないで、赤裸々に告白して悪いことは悪い、併し斯く斯くの状態であるから(ママ)此点は諒承を願ひたいと云ふことを朝鮮人に向つて告げ被害者の遺族の救済と云ふことも講じなければならぬ、各国に向つて謝電を送り、外国に向つて先日吾々議院が謝意を表明する前に、先づ朝鮮人に謝するのが順序ではなかろうか、之を隠して置くと云ふことは、秘密主義であって、今日は取らない、又実際上通らない所の議論であると思ふ、それから第二には王正延と云ふ人が是はどう云ふ使命を持つて来つたか公には知りませぬけれども、矢張支那人が数百人殺されたと云ふ事に付て研究に来つたと云ふことでございます、吾々は此隣邦の国民永き歴史に於て修好のある所の国民が、我が日本の領土に住んで居つたが為に斯の如き災害を被つたと云ふことに向つては此非常なる罪を謝さなければならぬと私自身は思ふ、尤も彼等と雖も矢張り日本に在つたので、当時の状態は能く知つて居るのであるから、十分に之を調査して日本に誤りある所は謝するが宜い。過のなきものなら謝せんで宜い、過のあるものならば相当の謝意を表すると云ふことが隣邦に対する所の誼ではなかろうかと思ふ、故に是は秘密主義を執つて居らないで、赤裸々に我が状態を告白したならば、必ずや彼れの心も解けるであろう。
日本国民に悪意があるのでない、自警団に悪意があるのではない唯々其時の状態が然らしめて斯く斯くであると云ふことを明に陳述する必要があると信ずる、内閣諸公は之に対して如何なる考を持つて居るかと云ふことを聞きたい、更に進んで彼の主義者を惨殺したと云ふこと、是は私が多くを語らないでも諸君は知つて居るでせう、…以下略
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。
「回想八十八年」石井光二郎(カルチャー出版社)には、下記のように石井光二郎(当時朝日新聞経営部長)の使いの者に、正力松太郎(当時警視庁官房主事)が「朝鮮人がむほんを起こしているといううわさがあるから、各自、気をつけろということを、君たち記者が回るときに、あっちこっちで触れてくれ」と、流言蜚語の伝搬に協力を依頼した事実が記されている。また、正力松太郎は、「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました」と、自ら「虚報」の扱いに失敗したことを、下記のように講演会で話している(「人間の記録86 正力松太郎 悪戦苦闘」日本図書センター)。しかし、不思議なことに被害者や遺族に対するお詫び、謝罪、さらには救済や賠償について全く触れていない。そのことに、流言蜚語の内容(虚報)や伝搬の仕方、政府による虐殺事件の報道禁止措置とその解除のタイミング等を考え合わせると、流言蜚語(虚報)は公権力によって、意図的に流された疑いをぬぐい去ることができないのである。
「現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人」の資料は、国会で「吾々は之に向つて相当朝鮮人に対する陳謝をするとか或は物質的救助をなすとかしなければ、吾々は気が済まぬやうに私は考へるのである」と、朝鮮人虐殺に対する謝罪や救済措置を時の政府に迫った田淵豊吉の演説の抜粋である。それを受けて永井柳太郎がさらに踏み込んで、「鮮人事件の全責任は、唯々自警団にのみ存するが如き観があることは、本員の頗る怪訝に堪えない所であります」とその責任問題を取り上げ追及した。しかし、隠蔽方針は覆らなかった。その結果、2003年8月25日、日弁連が、関係者の人権救済申し立てを受け、内閣総理大臣に対し、①虐殺事件の被害者、遺族に対し、国の責任を認めて謝罪すること、②虐殺事件の全貌と真相を調査し、その原因を明らかにすることを勧告する、という事態が発生しているのである。
「回想八十八年」石井光二郎(カルチャー出版社)-------------
Ⅴ 朝日新聞社時代
関東大震災に遭遇
・・・
さっそく、大阪に通信を出さなくてはいけない。しかし、交通機関がどうなっているか、不明である。警視庁や内務省などに聞いてみても、どこまでどう行けるのか、全然わからない。とにかく、あらゆる機関を臨機応変につかまえて、大阪本社へ連絡員を出そうということになった。ところが、金がない。
いつも、銀行にお昼ごろ取りに行っていたので、当日も、会計の者が出かけたのだが、その矢先に、地震にあったわけである。
だれか金を持ってないかと聞くと、米田実外報部長が、いくらか持っていた。一人が、ポケットから出したぐらいでは、とても足りない。どうしようもないので、下村さん(下村海南、台湾総督府民生長官辞任後、朝日新聞専務)が、旧藩主の紀州の殿様の家に行って、借りてきてくれた。そこで、東海道、中山道、東北の三道を、それぞれ二人ずつ組んで、大阪本社へ向かわせるようにし、それまでの震災の様子を書いた原稿と、金を持たせて、出発させた。
まっさきに成功したのは、東海道を行った組であった。その組が、横浜まで行って、ふと気が付いたのは、陸上の通信は皆壊れてしまっているが船の無線は使えるだろうということだ。港には、大きな船があるだろうということで、そこへ行き、船から通信を出した。これが、大阪へのくわしい第一報になった。他の組も、時間は遅れたが、なんとかして、大阪本社へ連絡することができた。
次の仕事は、朝日の臨時本部を作ることだ。夜中の十二時ごろ、私は社屋がどうなったか、伴(トモ)をつれて見に出かけた。並木通りなどは、みんな焼けている。どういうわけか、水道の水は出ていた。落ちていた布団を拾い、水をいっぱいかけて、伴の者と二人で、それを頭から被った。並木通りは、両側からの火気で、そうしないと通れなかった。息がつまりそうになると、しばらくかがみこみ、息ができるようになると、また進むというふうにして、とうとう、社屋の所までたどりついた。
窓からのぞくと、火がチラチラしていて、熱くてたまらない。さっと引き下がり、またしばらくしてのぞきこむ。なかでは、新聞の巻取紙がブスブス燃えており、機械は燃えて、たれ下がっていた。これはとてもいかん、巻取紙は、ほかから持ってくるとしても、機械の手配から始めなければならぬ、大変なことになったと思った。
帝国ホテルが焼けなかったので、一室を、早く借りたいと思った。夜中に、アサヒグラフの編集長、鈴木文四郎君を、使いにやって交渉させたところ、一番先に頼みに行った組だから、幸いに、大きい部屋を二つ借りることができた。そこに、編集、営業、庶務をいれることにきめ、その晩は、宮城前で夜を明かすことにした。
記者の一人を、警視庁に情勢を聞きにやらせた。当時、正力松太郎君が官房主事だった。
「正力君のところに行って、情勢を聞いてこい。それと同時に、食い物と飲み物が、あそこには集まっているに違いないから、持てるだけ、もらって来い。帝国ホテルからも、食い物と飲み物を、できるだけもらって来い」といいつけた。
それで、幸いにも、食い物と飲み物が確保できた。ところが、帰ってきた者の報告では、正力君から「朝鮮人がむほんを起こしているといううわさがあるから、各自、気をつけろということを、君たち記者が回るときに、あっちこっちで触れてくれ」と頼まれたということであった。
そこにちょうど、下村さんが居合わせた。「その話はどこから出たんだ」「警視庁の正力さんがいったのです」「それはおかしい」
下村さんは、そんなことは絶対にあり得ないと断言した。「地震が九月一日に起こるということを、予期していた者は一人もいない。予期していれば、こんなことにはなりはしない。朝鮮人が、九月一日に地震が起こることを予知して、そのときに暴動を起こすことを、たくらむわけがないじゃないか。流言ひ語にきまっている。断じて、そんなことをしゃべってはいかん」こういって、下村さんはみんなを制止した。
私たちは、警視庁がそういうなら、なにかあるのかなと思っていたけれども、下村さんは、断固としてそういわれた。これは下村さんの大きな見識であった。ふだんから、朝鮮問題や台湾問題を勉強し、経験をつんできているから、そんなことはありうるはずがないという信念があったのだと思う。だから、他の新聞社の連中は触れて回ったが、朝日新聞は、それをしなかった。
しかし、食い物だけはいろいろもらってきたので、私がそれを箱に入れておいた。「どこどこを視察して記事を書け」と命じ、それをちゃんとやって来た者には、ごほうびにサイダーとパンをやって、激励するというようなことをしながら、一晩テントの中で過ごした。
その晩、政友会の森恪氏が自動車でやって来て、「震災見舞いです」といって、スイカを二つ持ってきた。余裕綽々(シャクシャク)だなと思って、私は感心した。しかも和服だった。まるで別世界から来たような感じで、強く印象に残っている。
・・・
私は、内藤君から、ここまでの報告を聞いてから、社の者が二重橋前を引き上げ、帝国ホテルに移ったのを見とどけて、九月二日の夕方家へ帰った。
家に着くと、「朝鮮人が、六郷川のほうに集結していて、今晩中に押しよせて来るから、みんな小学校に集まれ」ということだった。私は、ちょっと様子を見て、また社に引っ返すつもりであったのに、大変なことになったと思った。家族を見殺しにするわけにもいかないから、社には秘書を使いにやって、「こういうわけだから、今晩は帰社できない」といっておいた。
下村さんのはなしを聞いていたから、そんなことはありえないとは思っていたが、とにかくみんなを連れて、小学校に行った。小学校は、いっぱいの人であった。日が暮れてから、演説を始めた者がいた。「自分は陸軍中佐であります。戦いは、守るより攻めるほうが勝ちです。敵は六郷川にあつまっているというから、われわれは義勇隊を組織して、突撃する体制をとりましょう」と叫んでいる。
バカなことをいうやつだと思ったが、そこに集まった人びとも、特に動く気配もなかったから、私も黙っていた。
そのうち「、「井戸に毒を投げ込む朝鮮人がいる。そういう井戸には印がしてある」などという流言が入ってきた。あとで考えると、ウソッパチばかりだった。私は、趣旨としては下村さんのいうとおりだと思うけれど、警視庁もそういっているし、騎虎(キコ)の勢いで、どうなるかわからないと懸念していた。夜明けまで小学校にいたが何事もなく、いじめられた朝鮮人が引きずられて行くだけだった。
・・・(以下略)
「人間の記録86 正力松太郎 悪戦苦闘」(日本図書センター)--------
正力松太郎 悪戦苦闘
米騒動や大震災の思い出
このたび総監閣下から何か皆さんに話してくれというご依頼がありましたので私は甚だ僭越ながらここに参った次第であります。
只今お話しがありました如く私は役人生活の大部分を警視庁で奉職しておりましたからここへ来て皆さんにお目にかかることは自分の郷里に帰って昔の友達か後進の者に話をするような感じがするのであります。従って、固苦しい話よりも、昔の思い出話をした方が宜しいかと存じます。
私は大正2年6月から大正13年1月まで11年間引続き警視庁におりました。この間、警視庁として種々なる大問題に直面しました。即ち同盟罷業が頻々起こり大衆の力を頼んで政府を倒そうとするいわゆる倒閣運動も度々行われ、また共産党の検挙もこの時始まり、なおまた有名なる全国米騒動や関東大震災も起こったのであります。当時私共の経験した事をお話しするのは幾分か皆さんのご参考にもなり、有意義かとも思います。…
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警視庁庁舎焼失の非難
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次に朝鮮人来襲騒ぎについて申し上げます。朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。大地震の大災害で人心が非常な不安に陥り、いわゆる疑心暗鬼を生じまして、一日夜ごろから朝鮮人が不穏計画をしておるとの風評が伝えられ淀橋、中野、寺島などの各警察署から朝鮮人の爆弾計画せるものまたは井戸に毒薬を投入せるものを検挙せりと報告し二,三時間後には何れも確証なしと報告しましたが、二日午後ごろ富坂警察署からまたもや不穏鮮人検挙の報告がありましたから念のため私自身が直接取調べたいと考え同署に赴きました。当時の署長は吉永時次君(後に警視総監)でありました。私は署長と共に取調べましたが犯罪事実はだんだん疑わしくなりました。折から警視庁より不逞鮮人の一団が神奈川川崎方面より来襲しつつあるから至急帰庁せよとの伝令が来まして急ぎ帰りますれば警視庁前は物々しく警戒線を張っておりましたので、私はさては朝鮮人騒ぎは事実であるかと信ずるにいたりました。私は直ちに警戒打合せのため司令部に赴き寺内大佐(戦時中南方方面陸軍最高司令官)に会いましたところ、軍は万全の策を講じておるから安心せられたしとのことで軍も鮮人の来襲を信じ警戒しておりました。その後、不逞鮮人は六郷川を越えあるいは蒲田付近にまで来襲せりなどとの報告が大森警察署や品川警察署から頻々と来まして東京市内は警戒に大騒ぎで人心恟々としておりました。しかるに鮮人がその後なかなか東京へ来襲しないので不思議に思うておるうちようやく夜の10時ごろにに至ってその来襲は虚報なることが判明いたしました。この馬鹿々々しき事件の原因については種々取沙汰されておりますが、要するに人心が異常なる衝撃をうけて錯覚を起し、電信電話が不通のため、通信連絡を欠き、いわゆる一犬虚に吠えて万犬実を伝うるに至ったものと思います。警視庁当局として誠に面目なき次第でありますが、私共の失敗に鑑み、大空襲に際してはこの点特に注意せられんことを切望するものであります。
「現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人」-----------------
20 国会による事件調査
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大正12年12月14日(金)
国務大臣による演説に対する質疑
田淵豊吉君
-前略- 第6には私は内閣諸侯が最も人道上悲しむべき所の大事件を一言半句も此神聖なる議会に報告しないで、又神聖なるべき筈の諸君が一言半句も此点に付て述べられないのは非常なる憤慨と悲しみを有するものであります。それは何であるかと言へば朝鮮人殺傷問題であります。諸君は何が為に朝鮮を合併を致したか、合併を致して国防上、外交上、或は文明の上、産業の上に於て、互に相通じて 殆ど同じ民族が相共に提携して往くと云ふことが、此合併の根本的のものでないかと私は固く信ずる一人である、然るにも拘らず噂に依りますと殆ど千とか千以上に上る所の朝鮮人が殺されたと云ふことに向つて、一言半句も吾々の眼は新聞紙などを通じて視ることができないで、唯々噂に依つて之を聴くと云ふことは、非常に怪訝の念を挟まざるを得ない状態であります。諸君、吾々は皇民に非ざるなき所の朝鮮人、辺土に在って代議士を出して居ない所の無告の民の為に何が為に諸君の肺肝を貫く言葉を以て弾劾しないのであるか、或は小事末節に捉はれて、千人以上の人が殺された大事件を不問に附して宜しいのであるか、朝鮮人であるから宜いと云ふ考を持つて居るのであるか、吾々は悪いことをした場合には謝罪すると云ふことは、人間の礼儀でなければならぬと思ふ、日本人は正義の上に立って居って、侵略主義でない、吾々は正義の上に立って、比較的文明ならざる国民を文明の域に進めんが為に、人類の福祉を増進するが為に、吾々は日本帝国を形造つて居るのではないか、然るに、諸君は更に一言半句も此事に付て述べられないのは如何、又新聞紙上にも之を掲載することを禁じ、演説にも、之を禁じ、之を言ふ者を罰すると云ふのはどう云ふ訳であるか、之を私は内閣諸公に聴きたいのであります、人或は言ふのであります、朝鮮人の中にも悪い者があるから、流言蜚語が多く起つたので、そうしたのである、又其時は群集心理が働いて、10日間は竹槍を持って家に蟄伏して居つたような状態であつて実に無政府のやうな状態を呈出して居つたのである、そこは今日の者と違って居る、故に如何なる人がさう云ふ事をやつたか知らぬが、今日或は冷静なる眼を以て斯く斯くであるからいけないと云ふことを速断することは出来ない、其間に十分考慮の余地がある。吾々日本国民も東京市民も、其時は恐怖の念に打たれた為に、流言蜚語に惑わされ、或行動を執り、或は自家防衛を行つたかも知らぬというのである。併しながら其防衛の範囲を超えて居つたならば、吾々は朝鮮人に対して、殊に被害者の朝鮮人に対して、大なる謝罪をしなければならぬ、それを単に速断に依つて、東京に住んで居る人、横浜に住んで居る人と云ふのではない、吾々の国民性が生んだ所の一の結果であると私は信ずる、吾々決して悪意はない筈である、併しながら恐怖の結果、斯の如き事をしたのであるから、日本国民として吾々は之に向つて相当朝鮮人に対する陳謝をするとか或は物質的救助をなすとかしなければ、吾々は気が済まぬやうに私は考へるのである(拍手)諸君足を踏んでも失礼でありましたと云へば怒る気がしない、知らぬ顔をして居れば、千人殺したときは十万人の者が殺された虐殺された、火焙りにされたと云ふことを誤つて伝へられぬとも限りませぬ。…
故に吾々は既往の吾々の過を決して言ひ抜け扱ふことをしないで、赤裸々に告白して悪いことは悪い、併し斯く斯くの状態であるから(ママ)此点は諒承を願ひたいと云ふことを朝鮮人に向つて告げ被害者の遺族の救済と云ふことも講じなければならぬ、各国に向つて謝電を送り、外国に向つて先日吾々議院が謝意を表明する前に、先づ朝鮮人に謝するのが順序ではなかろうか、之を隠して置くと云ふことは、秘密主義であって、今日は取らない、又実際上通らない所の議論であると思ふ、それから第二には王正延と云ふ人が是はどう云ふ使命を持つて来つたか公には知りませぬけれども、矢張支那人が数百人殺されたと云ふ事に付て研究に来つたと云ふことでございます、吾々は此隣邦の国民永き歴史に於て修好のある所の国民が、我が日本の領土に住んで居つたが為に斯の如き災害を被つたと云ふことに向つては此非常なる罪を謝さなければならぬと私自身は思ふ、尤も彼等と雖も矢張り日本に在つたので、当時の状態は能く知つて居るのであるから、十分に之を調査して日本に誤りある所は謝するが宜い。過のなきものなら謝せんで宜い、過のあるものならば相当の謝意を表すると云ふことが隣邦に対する所の誼ではなかろうかと思ふ、故に是は秘密主義を執つて居らないで、赤裸々に我が状態を告白したならば、必ずや彼れの心も解けるであろう。
日本国民に悪意があるのでない、自警団に悪意があるのではない唯々其時の状態が然らしめて斯く斯くであると云ふことを明に陳述する必要があると信ずる、内閣諸公は之に対して如何なる考を持つて居るかと云ふことを聞きたい、更に進んで彼の主義者を惨殺したと云ふこと、是は私が多くを語らないでも諸君は知つて居るでせう、…以下略
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当時、東京を「倭京」と呼んでいたような機関紙の情報にまったく何のバイアスもかかっていないと言い切れる根拠はどこにあるのでしょうか?
さらに6661人の内の確認できなかった朝鮮人2889人も「虐殺された」とカウントしているようですが、これが殺されたと言い切れる証拠はどこにあるのでしょうか?
ttp://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20020901/p12
「6661人の内の確認できなかった朝鮮人2889人も虐殺されたとカウントしているようですが…」については、私は逆に虐殺されなかったと言い切れるでしょうか、と問いたいと思います。「誤殺」とされている中国人虐殺でさえ、死者は656名、行方不明11名です。こちらは出身地や氏名まで明らかにされています。
誠意ある調査と謝罪がなされないと、いつまでも信頼を得ることができないのではないでしょうか。日本で起きた事件です。「数が誇大だ」で通る問題ではないような気がします。誠意を大事にしたいと思うのです。
しかしながら、「6661という数がどの程度正確なのかは私には分かりません」というのには驚きました。
わからないことを根拠に話を進められていたのでしょうか?
であるなら内訳の2889人についてもあなたは何もわかっていないはずでは?説明できないからって悪魔の証明はやめましょうよ(笑)
そこで、貼り付けまましたリンクですが、これがあなたが参考にされている「金承学」本人が出してきた数字ですね。ここを一番聞きたかったんです。
しかし、これに対して何の回答もいただけなかったことは非常に残念です。
明らかにおかしい数字ですよね?なぜあなたが何一つ疑問を持たれないのか本当に不思議で仕方がありません。
私は数が少なければ日本のやった罪が軽くなるだなんてことはちっとも思っておりません。
ただ、ことさら多く見積もっては己のイデオロギーを満足させている輩が許せないだけです。
答えありきで都合のいい数字を鵜呑みにするのではなく、正確な数を突き詰めて考えていくことも子供たちや後世への責任・誠意ではないでしょうか。
どうもお邪魔しました。ありがとうございました。
>私は数が少なければ日本のやった罪が軽くなるだなんてことはちっとも思っておりません。
とのことですが、だったらすぐに日本政府に謝罪や補償などの対応を求めるべきではありませんか。
>ただ、ことさら多く見積もっては己のイデオロギーを満足させている輩が許せないだけです。
と言う前に、2003年8月25日、日弁連が、関係者の人権救済申し立てを受け、内閣総理大臣に対し、①虐殺事件の被害者、遺族に対し、国の責任を認めて謝罪すること、②虐殺事件の全貌と真相を調査し、その原因を明らかにすることを勧告しましたが、その勧告内容が実現されるように努力するべきではありませんか。そういう努力をせずに、その数に因縁を付けるかのような発言が、問題だと思うのです。
過去の事実や過ちを素直に認め、信頼を取り戻す手立ての必要性を感じているが故に、私は朝鮮側が公表した事実やその数字をそのまま取り上げているのです。あなたは、 ”数字が誇大だ”と叫んで何が得られるとお考えなのでしょうか。
申し訳ありませんが、あなたが何を仰りたいのかまったく理解できません。
まず、私はあなたが正しいと信じる金承学の数字に対して、リンク先の資料とあわせての合理的な説明を求めただけです。
それには一切答えないんですね(笑)
まさかこれを「因縁」と仰るのでしょうか?
一切答えないどころか、日弁連云々のことなど尋ねてもいないことで説教されても…。その勧告と当時の被害者の数字と何の関係があるのでしょうか?ないでしょう?関係のないことでけむにまかないでいただきたい。
あなたは「6661という数がどの程度正確なのかは私には分か」らず、さらにはリンク先のデータを覆すだけの材料がないにもかかわらず、まだ独立新聞のデータを「事実」だと言い切るんですね。これでは盲信ととられても仕方がありませんし、誰も説得できませんよ(笑)
私は誇大であれ過少であれ、当然どちらも良くないと思います。こんなこと当たり前ですよね。誰が誇大だと叫びました?せっかくの討論なのですから、偏屈なレッテルを貼らないでいただきたいものですね。
私が得たいものは、もう一度言いますが、
答えありきで都合のいい数字を鵜呑みにするのではなく、完璧でなくともある程度の合理性をもった犠牲者数を突き詰めて考えていくことが、子供たちや後世へ生きる人々への責任・誠意ではないでしょうか。
そうは思いませんか?
追伸:
大韓民国臨時政府は当時の日本政府・日本人に対して数々のテロを企ててきましたが、これはテロではないとお考えでしょうか?
ぜひご意見を伺わさせていただきたいです。
しかし・・・今さら「数にはこだわるな」って?ずるいですよー。
ここではあくまでもあなたが書いた【6661人】という数字が議題。前回の日弁連~と同様、謝罪だ補償だ、話を都合よくすり替えないでください。自分の吐いた言葉には是非責任をもっていただきたいものですね。
私はあなたに説き伏せられること望んでいたのですが、残念ながらあなたは矛盾まみれです。ご自身の書いたことを読み返されていますか?
以下、今回の遣り取りでのあなたの発言の流れです。
「当時(独立新聞に)報道された数を否定することは難しい」
(おおっ!じゃあリンク先に対する反論なんて朝飯前ですよね!)
↓
「所在不明の2889人も虐殺されたとカウントしているようですが…」については、私は逆に虐殺されなかったと言い切れるでしょうか、と問いたいと思います。」
(確かに言い切れないですね。しかしなんで「殺された」という想像は容易にできるのに「建物の下敷きになった」や「家事で焼け死んだ」って想像はできないの?すぐに「虐殺された」にカウントしていいの?不思議。まさか自分に都合のいい想像だけを採用してないですよねー?)
↓
「過去の事実や過ちを素直に認め、信頼を取り戻す手立ての必要性を感じているが故に、私は朝鮮側が公表した事実やその数字をそのまま取り上げている」
(ほうほう。じゃあ百歩譲って6661人は正しい数なんだ。)
↓
「独立新聞社特派員調査報告の人数が正確だと断定しているのではありません」
(えーーーーーーっ!!!!違うのーーーーっ!!!!!!!)
はじめに「数は否定できない」と私に大見得切っておきながら、「数は正確だと断定できない」って!こんな無責任な!言ってることがぜんぜん違うじゃないですか。
つまりあなたは(「」内はあなたの発言)、
【「日本側発表の233人よりは多い」だろうから「正確とは断定できない」「6661人」という独立新聞の数字を「そのまま取り上げ」】
ていたんです。
なんじゃそりゃ。なんという論理の飛躍(笑)こんな都合のいい話がどこにあります(笑)
結局、あなた自身が理解できていないあやふやな数字を最初に(私を安く見積もったのか)私に「事実だ」と吹っかけてきたんですよ。わかります?
さらには、「数字が誇大だ”と叫んで何が得られるとお考えなのでしょうか!」と私に説教まで。あなた自身がわかってもいない数字を盾にです。
失礼ですねー。どんな了見で仰られたのでしょう?
あやふやな数字にこだわり、信憑性をもたせようとよくわかりもしていない数字に頼っているのは、そう、あなたです。
まさにこれこそ「答えありき」。
こんな無茶苦茶な論理の導き方ではイデオロギーまみれ&バイアスまみれの情報操作と勘ぐられても仕方がないと思うんですが、そうは思いません?
いいですか?
「日弁連だー」、「謝罪・補償だー」って、もっともらしいことを並べても何の説得力もないんです。ここでの数字と何の関係が?
さらには、数字もわからずどうやって補償するんです?
(百万歩譲って)万が一ですよ、6661人よりも少なかった場合、この世に存在しなかった人間に対してどうやって賠償・補償するんですか?必要はあるんですか?
ぜひ教えていただきたい。
そんなことよりリンク先のデータにあなたが仰るところの「きちんとした受け答え」をするのがマナーでしょう?このデータが正しいか間違ってるかすらも言えないのでしょうか?間違っているなら間違っているでいいじゃないですか。感想もないのですか?なんで?本当に不思議ですねー。
あなたが盛んにおっしゃっていた「事実を認め」という言葉。「誠意ある調査」という言葉。
結局、あなたにとって日本が認めなければならない「事実」とは何なのですか?「誠意ある調査」とは何なのでしょうか?
都合よく調合されたファンタジーが事実なのですか?違いますよね?
朝鮮人の霊のためにも嘘はつけませんよね。
おお、今気づきました。
このブログのタイトルは「真実を知りたい」なんですね。なるほど。