真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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満州の問題に関するリットン報告書の記述

2020年09月17日 | 国際・政治

 1995年年八月十五日、戦後五十周年の終戦記念日にあたり、村山富市内閣総理大臣は閣議決定に基づいて、いわゆる「村山談話」を発表しました。その中に下記のような一節があります。
わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます
 ”皇国を核心とし日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設”するために、他国の主権を侵し、人命を軽視し、人権を無視し、戦争犯罪を重ねるに至った「国策」の誤りを、日本人は忘れてはならないと思います。

 ところが、残念ながら「村山談話」のような考え方を、「コミンテルン史観」とか「GHQ史観(東京裁判史観)」とか「自虐史観」とか名づけて批判し、日本の戦争を正当化しようとする人達がいます。そうした人たちは、「国策」の「誤り」を受け入れず、日本にとって不都合な事実をなかったことにしたり、過小評価したりする主張を繰り返しています。
 そして、2013年四月には、日本の総理大臣が”侵略の定義は学界的にも国際的にも定まっていない。国と国との関係でどちらから見るかで違う”と発言し、戦前の日本による「植民地支配と侵略」について謝罪した「村山談話」を否定するに至りました。その結果、かつて”薩長史観”とよばれた歴史観によって、明治の時代が悉く明るく描かれたように、再び日本の歴史教科書が「創作物語」に変えられようとしているように思います。
 例えば、扶桑社の「新しい歴史教科書」の「戦時下の生活」には、
物的にもあらゆるものが不足し、寺の鐘など、金属という金属は戦争のために供出され、生活物資は窮乏を極めた。だが、このような困難の中、多くの国民はよく働き、よく戦った。それは戦争の勝利を願っての行動であった
 とあります。違和感を感じます。強制された側面が消されているからです。

 大事な事は、「村山談話」のような考え方は、他国から押しつけられたものでも、自虐でもないということです。日本にとって不都合な事実にも目を向け、歴史を客観的・総合的にふり返れば、当然出て来るものだと思うのです。

 「国民の油断」(PHP文庫)の中で、西尾幹二氏は日清戦争について、
日清衝突の本当の原因は、清が日本の抬頭を自らの中華秩序を乱すものとだけとらえて、近代化の成果、あるいは文明への努力とは見ずに、自国のみを文明とした大国中国の古い体質にありました。
 欧米の侵略には中国は寛大で、本来日本に対して優越意識をもっていたがゆえに、どうしても日本の中国への介入を冷静に考えられないのは、今日の日中関係にも継続する意識でしょう…”
 などと、書いています。とても受け入れられません。日本にとって不都合な事実にもしっかり目を向け、他国の受け止め方も踏まえて、歴史を客観的・総合的にふり返れば、そういう主張は生まれてこないと思います。

 少し時代が下りますが、リットン報告書を読むと、中国に対する日本の姿勢が、西尾幹二氏のいうようなものでなかったことがわかります。例えば、

満州は明に支那の一部たりしも同地方に於て日本は支那の主権行使を制限するが如き特殊の権益を獲得若は主張し両国間の衝突は其の当然の帰結なりき” とか”1915年一般に二十一個条要求として知らるる日本の異常なる要求の結果同年五月廿五日日支両国間に南満州及東部蒙古に関する条約の調印及公文の交換行はれたり
 とあります。二十一か条の要求には、日本こそ、”優越意識”をもって中国を支配下に置こうとしていた姿が読み取れるのではないかと思います。また、
支那人は満州を以て支那の構成部分と見做し同地方を支那の他の部分より分離せしめんとする一切の企てに対して憤激す。従来東三省は常に支那及諸列国が共に支那の一部と認むる所にして、同地方に於ける支那政府の法律上の権限に付異議の称えられたることなし。右は多数の日支間諸条約及協定並に他の諸国際条約に依り明なる所にして又日本を含む諸国の外務省より正式に公表せられたる多数のステートメントに繰返へされ居る所なり
 とあります。様々な勢力争いがあっても、「支那人」は満州を支那から切り離して独立させることは望んでいなかったということだと思います。
 日中戦争初期に外務省東亜局長を務めた外交官・石射猪太郎が、満州国建国が武力をもってなされたことを明らかにしつつ、”東三省中国民衆の一人だって、独立を希望したものがあったろうか”と「外交官の一生」(中公文庫)に書いていたことは、以前取り上げました。

支那人は満洲を以て其の「国防の第一線」と考へ居れり”とか”支那人は又経済的理由によるも満州の彼等の為に重要なるを認むるものにして、数十年來彼等は満州を「支那の穀倉」と呼び更に近年に至りては之を近隣諸省の支那農民及労働者の季節的勤労地と認むるに至れり”ということも、そのことを示していると思います。

 にもかかわらず
満州に於ける日本の利益は諸外国の夫れと其の性質及程度に於て全く異なるもの”であり、”満洲に関する日本の要求は支那の主権に抵触し又国民政府の翹望(ギョウボウ)と両立し得ざるものなり”であったとの指摘は、しっかり受け止める必要があると思います。
 ”皇国を核心とし日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設”するために、他国の領土に軍隊を送り、武力を背景にその主権を侵し、勝つために様々な戦争犯罪を重ねるに至った日本を、西尾幹二氏ように”西欧列強に単身立ち向かった日本”などと美化し、正当化する近代史の認識でとらえることは許されないことではないかと、私は思います。

 江戸時代後期の思想家、佐藤信淵の著書『宇内混同秘策』には、”皇大御国(スメラオオミクニ)は大地の最初に成(ナ)れる国にして世界万国の根本なり。故に能く根本を経緯するときは、則ち全世界悉く郡県と為すべく、万国の君長皆臣僕と為すべし”とありましたが、皇国日本は、明治維新以来こうした”優越意識”をもって、攻撃的に戦争をくり返してきたのであり、”天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ス”というような”架空の観念”は、日本の敗戦まで一貫したものであったことを無視したり軽視したりしてはならないと思います。

 下記は、「リットン報告書 日支紛争に関する国際連盟調査委員会の報告」国際聯瑛協会編・外務省仮訳(角川学芸出版)の「第三章 日支両国間の満州に関する諸問題」の一部抜粋です。
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           第三章 日支両国間の満州に関する諸問題 

一、 支那に於ける日本の利益
 1931年九月に至る四半世紀間に於て満州と支那の他の部分との結合は追々強固となりつつあり夫れと同時に満州に於ける日本の利益は増加しつつありたり。満州は明に支那の一部たりしも同地方に於て日本は支那の主権行使を制限するが如き特殊の権益を獲得若は主張し両国間の衝突は其の当然の帰結なりき。
 1905年十二月の北京条約に依り支那は従来露西亜の租借し居たる関東州租借地及露西亜の管理し居たる東支鉄道南部線中長春以南の鉄道の日本への譲渡を承認し尚追加協定に依り支那は安東奉天間の軍用鉄道を改良し之を十五ヵ年間経営する権利を日本へ譲与したり。
 1906年八月勅令に依り従前の露西亜鉄道を安奉鉄道と共に引受け且管理する為南満州鉄道会社設立せられたるが、日本政府は鉄道、其の附属財産並に撫順及煙台の価値ある炭鉱を提供する代償として同会社の株式の半額を其の有とし同会社を統制する地位を得たり。同会社は鉄道地帯に於ける行政を委任せられ徴税を許され且鉱業、電気事業、倉庫業その他の諸事業経営の権限を与えられたり。

 1910年日本は朝鮮を併合したるが是に依り朝鮮人移住民は日本国民となり日本官吏は之等鮮人に対し法権を行使することとなりたる為満州に於ける日本の権利は間接に増大したり。 
 1915年一般に二十一個条要求として知らるる日本の異常なる要求の結果同年五月廿五日日支両国間に南満州及東部蒙古に関する条約の調印及公文の交換行はれたり。右協定に依り旅順及大連を含む関東州の元来二十五箇年間の租借期限、並に南満州及安奉両鉄道に関する期限は総て九十九箇年に延長せられ、日本臣民は南満州に於て旅行及居住し、各種の営業に従事し、且商業、工業及農業の為め土地を商租する権利を得、尚日本は南満州及東部内蒙古に於ける鉄道及其の他或種借款に対する優先権並に南満州に於ける顧問任命に関する優先権を獲得したり。然れども1921─22年の華盛頓(ワシントン)会議に於て日本は右諸権利の中借款及顧問に関する権利を放棄したり。
 上記各条約及其の他の諸協定は満州に於て重要にして且特殊な地位を日本に与へたり。即ち日本は関東州租借地を事実上完全なる主権を以て統治し、南満州鉄道会社を通じて鉄道附属地の施政に当たれるが、右鉄道附属地は数箇の都市並に奉天及長春の如き人口大なる都会の広大なる部分を含み此等地域に於て日本は警察、徴税、教育及公共事業を管理したり。又日本は租借地に関東軍を置き鉄道地帯に鉄道守備隊を駐屯せしめ、各地方に領事館警察官を配する等満洲地方に武装部隊を存置し来れり。
 上記満洲に於て日本の有する数多の権利概説に依り満州に於ける日支両国間の政治、経済及法律関係の特殊性は明瞭にして、此の如き事態は恐らく世界の何處にも其の例なかるべく、又隣邦人の領土内に此の如き広汎なる経済上及行政上の特権を有する国は他に比類を見ざるべし。若し此の如き事態にして双方が自由に希望又は受諾し、且経済的及政治的領域に於ける緊密なる協力に関する熟策の表現及具体化なりとせば、不断の紛争を醸すことなく之を持続し得べきも、斯る条件を欠くに於ては軋轢及び衝突を惹起するのみ。

二、満州に於ける日支両国間の根本的利害関係の衝突
 支那人は満州を以て支那の構成部分と見做し同地方を支那の他の部分より分離せしめんとする一切の企てに対して憤激す。従来東三省は常に支那及諸列国が共に支那の一部と認むる所にして、同地方に於ける支那政府の法律上の権限に付異議の称えられたることなし。右は多数の日支間諸条約及協定並に他の諸国際条約に依り明なる所にして又日本を含む諸国の外務省より正式に公表せられたる多数のステートメントに繰返へされ居る所なり。
 支那人は満洲を以て其の「国防の第一線」と考へ居れり。支那の領土として満州は之と接壌する日本及露西亜の領域に対する一種の緩衝地帯と見做され、日本及露西亜の勢力が之等の地域より支那の他の地方に侵入するを防ぐ為の前哨とせられ居れり。北京を含む長城以南の支那へ満洲より侵入することの容易なるは歴史上の経験に依り支那人の熟知する所なるが、右東北よりの外国の侵略を虞るる念は鉄道の発達に依り近年一層増大し且前年の事件中一層激化せられたり。
 支那人は又経済的理由によるも満州の彼等の為に重要なるを認むるものにして、数十年來彼等は満州を「支那の穀倉」と呼び更に近年に至りては之を近隣諸省の支那農民及労働者の季節的勤労地と認むるに至れり。
 支那は全体として人口過剰なりと謂い得べきやは疑問なるも、或地方又は或省例へば山東省の如きが住民を他地方に移出する要ある程度に人口過剰なることは此の問題に関する権威者の一般に認むる所なり。(附属書第三号の特別研究参照)従って支那人は満州を以て現在及将来に於ける支那の他地方の人口問題を緩和し得る辺境地方と認め居れり。支那人は満州の経済的開発が主として日本人の力に依るとの主張を否定し、其論駁の根拠として1925年以降に於ける支那人の植民事業彼等の鉄道建設及其の他の事業を挙げ居れり。
 満州に於ける日本の利益は諸外国の夫れと其の性質及程度に於て全く異なるものあり。1904─5年奉天及遼陽南満州鉄道沿線、鴨緑江並に遼東半島等満洲の野に於て戦われたる日本の露西亜に対する大戦争の記憶は総ての日本人の脳裡に深く印せらるゝ所なり。日本人にとりては対露戦争は露西亜の侵略の脅威に対する自衛の為生死を賭したる戦として永久に記憶せらるべく此の一戦に十万の将士を失ひ且二十億円の国帑(コクド:国財)を消費したる事実は日本人をして此の犠牲を決して無益に終らしめざらんことを決心せしめたり。
 然れども満州に於ける日本の利益は其の源泉を日露戦役より十年以前に発す。1894─5年の主として朝鮮問題に関する日清戦争は大部分旅順及満洲の野に於て戦はれたるが、下関に於て調印せられたる講和条約に依り遼東半島は完全に日本に割譲せられたり。日本人にとりては露西亜、仏蘭西及独逸が此の獲得したる領土の放棄を強制したる事実は日本が戦勝の結果満州の此の部分を獲得し之に依りて日本は同地方に対する道徳的権利を得、其権利は今尚存続するものなりとの確信に何等の変更を及ぼすものに非ず。
 満洲は屡々日本の「生命線」なりと称せらる。満州は日本の領土たる朝鮮に境を接す。支那四億の民衆が一度統一せられ強力となり且日本に敵意を有し満洲及東部亜細亜に蟠居(バンキョ)するの日を想像することは多数日本人の平静を撹乱するものなり。然れども彼等が国家的生存の脅威及自衛の必要を語る時多くの場合彼等の意中に存するのは寧ろ露西亜にして支那に非ず。従って満州に於ける日本の利益中根本的なるものは同地方の戦略的重要性なり。
 日本人中には日本は「ソ」連邦よりの攻撃の場合に備ふる為め満州に於て堅き防衛線を築く要ありと考へ居るものあり。彼等は朝鮮人の不平分子が隣接せる沿海州の露西亜共産主義者と連携して将来北方よりの軍事的侵入を誘致し、又は之と協力することあるべきを常に惧れ居れり。彼等は満州を以て「ソ」連邦及支那の他の部分に対する緩衝地帯と認め居れり。殊に日本の陸軍軍人は露西亜及支那との協定に依り南満州鉄道沿線に数千の守備兵を駐屯せしむる権利を得たるは日露戦争に於ける日本の莫大なる犠牲に対する代償としては尠(スクナ)きに失し、同方面よりの攻撃の可能性に対する安全保障としては貧弱に過ぐると考へ居れり。
 愛国心、国防の絶対的必要及特殊なる条約上の権利等の総てが合体して満州に於ける「特殊地位」の要求を形成し居れり。乍併日本人の懐く特殊地位の観念は支那又は他の諸国との間の条約及協定中に法律的に規定せられ居る所に局限せられ居るものに非ず。日露戦役の遺産たる感情及歴史的連想並に最近四半世紀間に於ける在満洲日本企業の成果に対する誇は「特殊地位」の要求の現実なる─捕捉し難きも─一部分を為すものなり。従て特殊地位なる語を日本政府が外交用語として使用する時其の意味は不明瞭にして、他の諸国が国際文書により之を認むることは不可能に非ずとするも困難なること蓋し当然なり。
 日本政府は日露戦争以来随時露西亜、仏蘭西、英国及米国より満州に於ける日本の「特殊地位」、「特殊勢力及利益」又は「最高の利益」の承認を得んことを試みたるが、其の努力は単に部分的に成功したるに止り斯る要求が稍々明瞭に認められたる場合にも右承認を含む国際協定又は了解の多くは時の経過と共に正式なる廃棄又は其他の方法に依り消滅するに至れり。旧露西亜帝政政府と結ばれたる1907年、1912年及1916年の日露秘密協約、日英同盟協約、1917年の石井ランシング協定は其の例なり。
 華盛頓(ワシントン)会議に於ける1922年二月六日の九国条約の調印国は(米、白、英、支、仏、伊、日、蘭及葡〔ポルトガル〕の九ヶ国)「支那に於て一切の国民の商業及工業に対する機会均等」を維持する為支那の「主権、独立並に其の領土的及行政的保全を尊重すること」や約定することに依り、支那に於て「特別の権利又は特権を求むる為」支那に於ける情勢を利用することを差控ふることに依り、又「支那が自ら有力且安固なる政府を確立維持する為最完全にして且最障碍なき機会」を之に供与することに依り、満州を含む支那の各地方に於ける調印国の「特殊地位」又は「特別の権利及利益」の要求を広き範囲に於て非とせり。
 然れども九国条約の規定及廃棄其他の方法に依る前記諸協定の失効は日本人の態度に何等の変更を生ぜしめざりき。石井子爵が其の最近のメモアール(外交余禄)中に左記の如く述べ居るは良く同国人一般の意見を表明し居るものと謂ふべし。
「石井ランシング協定は廃棄せられたりと雖も日本人の特殊利益は何等変化を受くることなく存在す、支那に於て日本の有する特殊利益は国際協定に依りて生じたるものに非ず、又廃棄の目的と為り得るものにも非ず」
 上記満洲に関する日本の要求は支那の主権に抵触し又国民政府の翹望(ギョウボウ)と両立し得ざるものなり、蓋し同政府は支那領土を通じて今尚諸外国の有する特別の権利及特権を減殺し、且将来之等の特別の権利及特権の拡張を阻止せんことを企図するものなるを以てなり。日支両国が夫々満州に於て行ふ政策を考察せば此の衝突が益々拡大すべきこと自ら明かとなるべし。
 ・・・
 日本政府は満州に於て有する特殊なる権利を維持発展せしむる為満州に於ては概して支那の他の地方に於けるより一層強硬なる政策を行へり。或内閣は武力による威嚇を伴う干渉政策に傾けり。右は1915年支那に対する二十一箇条要求の際に於て殊に然るものありしが、二十一箇条要求並に他の干渉及武力政策の得失に関しては日本国内に著しき意見の相違ありたり。
 華盛頓会議は支那の他の地方の事態に著しき影響を及ぼしたるも満州に於ては実際殆んど変化の見るべきものなかりき。1922年ニ月六日の九国条約は支那の領土保全及門戸開放に関する規定あり又同条約の効力は条文上満洲にも及ぶべきものなるに拘らず、満州に付ては日本の既存利益の性質及範囲に鑑み単に其制限的適用ありたるのみ。前述の如く日本は1915年の条約に依り許与せられたる借款及顧問に関する特別の権利を正式に放棄したるも、九国条約は満州に於ける既存利益に基く日本の要求を実質上何等縮小することなかりき。
 ・・・
 
 
 


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