檜山がトイレから戻ってくると、
手塚が皆から囃し立てられながら作業しているところだった。

しかし檜山はそれよりも、気になっていることがあった。
淳を前に、そわそわと後ろ手に組んだ腕を震わせた。

話があるんだけど、と言って檜山はあるものを淳に差し出した。
「これ‥」

それは廊下に飾ってあった小さな額縁だった。檜山はこれを譲ってくれないかと言う。
趣味で映画俳優やハリウッド女優の写真を集めている彼は、これに入れて飾りたい女優の写真があるんだと言った。
(それは当時大ヒットした映画「タイタニック」の、ローズ役ケイト・ウインスレットの写真だった)

しかし淳は、ダメだと即答した。

お母さんが昔から大事にしていたものだから、と。

檜山はしぶしぶ、淳にその額縁を返した。
しかし心の中は、モヤモヤとした不満でいっぱいだった。
額縁一つくれねーのかよ‥。みみっちい奴。

隣では、手塚が超緊張状態で標本作りに取り掛かっていた。

失敗しちゃいけないと思えば思うほど手は震え、ピンはあらぬ方向へとその先端は向かった。
結局出来上がった標本は、先ほどの美しい蝶々はどこへやら、お粗末なものになってしまった。

手塚は恐る恐る、班長である淳を振り返った。

彼は自分を見ている。
手塚はへへへと笑って見せると、淳もニコリとしてそれに応えた。

手塚は困惑していた。どうしようどうしようと、その心の中は焦燥感でいっぱいだった。
じきに淳の父親が、お菓子を用意したから皆おいでと言った。

わいわいとリビングに向かう子供らの中で、手塚だけはその場に残った。

淳は気にしながらも、そのまま檜山と父親と共に歩き出した。

父親は淳にうまくいっているかと声を掛けた。
しかし和やかな空気は、檜山の一言で一変する。
「あの‥おじさん!廊下にあった小さい額縁、あれオレにくれませんか?!」

その時淳の表情は凍りついたのだが、誰もそれには気が付かなかった。

「俺が集めてるハリウッド女優さんの写真を飾るのに、ピッタリなんです!
もし無理なら、母に言ってお金を持って来ます!」

檜山の子供らしくも、ボンボンの傲慢さも出た発言に、淳の父親は豪快に笑った。
抜け目のない奴だな~と言いながら、彼の頬をぎゅうっと掴んだ。

淳にはない、この奔放さを彼はどこか愉快に感じたのだ。
「いいよ、持って行きなさい」

「嫌です!」

淳は強く言い切った。
母親が昔から大切にしていた額縁だ。譲るわけにはいかなかった。

父親は、大丈夫だと言った。ママも昔捨てようとしたんだけど、そのまま置いておいただけのものだと。
淳はそれでも嫌だと言う。
父はそんなに大事なものなのかと問う。
そうじゃないけど‥と言葉を濁す淳に、父は一体何が問題なんだと問いかける。

檜山は押し問答を繰り広げる親子を前に、気まずい思いをしながら小さくなった。
「それでも‥嫌なもんは、嫌です」

頑固にもそう主張する息子に、父親は怒りを覚えた。
「淳、何を言っているのか分かってるのか。」

小さな肩をぎゅっと掴み、その目を見下ろしながら強い口調で諭した。
「こうやって我を張る年齢はとっくに過ぎただろう」

「お前が欲しいものならこの家に全部あるだろう?
なのにあんな取るに足らないものにいらぬ我を張って、一体何になる?」

「淳、よく考えろ」

「考えるんだ」
やがて、淳はその口を開いた。
「ごめんなさい‥」

もう言いません、と言って淳は謝った。
その態度に、父親は満足気に笑顔を見せる。

父親は心の中で、河村教授に話しかけるように呟いた。
少しでも疑わしいことがあれば、あれからこうして芽から切ってきました。

彼は、息子が感情を自制出来ることを誇りに思った。そしてそれこそが、正常なことだと信じていた。
檜山が父親に大きな声で礼を言った。
ふと淳を見ると、彼は虚ろな表情で黙り込んでいた。

父は淳の頭を抱えると、ぐしゃぐしゃと撫でながら怒ってごめんなと声を掛けた。
友達だろ?と言いながら。

檜山は額縁が自分のものとなり、ヘラヘラと笑いながら鼻歌を口ずさんでいた。


彼は、ふと胸騒ぎがした。
再び窺った淳の表情に、何か不穏なものを感じたからだった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<淳>その生い立ち(5)へ続きます。
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手塚が皆から囃し立てられながら作業しているところだった。

しかし檜山はそれよりも、気になっていることがあった。
淳を前に、そわそわと後ろ手に組んだ腕を震わせた。

話があるんだけど、と言って檜山はあるものを淳に差し出した。
「これ‥」

それは廊下に飾ってあった小さな額縁だった。檜山はこれを譲ってくれないかと言う。
趣味で映画俳優やハリウッド女優の写真を集めている彼は、これに入れて飾りたい女優の写真があるんだと言った。
(それは当時大ヒットした映画「タイタニック」の、ローズ役ケイト・ウインスレットの写真だった)

しかし淳は、ダメだと即答した。

お母さんが昔から大事にしていたものだから、と。

檜山はしぶしぶ、淳にその額縁を返した。
しかし心の中は、モヤモヤとした不満でいっぱいだった。
額縁一つくれねーのかよ‥。みみっちい奴。

隣では、手塚が超緊張状態で標本作りに取り掛かっていた。

失敗しちゃいけないと思えば思うほど手は震え、ピンはあらぬ方向へとその先端は向かった。
結局出来上がった標本は、先ほどの美しい蝶々はどこへやら、お粗末なものになってしまった。

手塚は恐る恐る、班長である淳を振り返った。

彼は自分を見ている。
手塚はへへへと笑って見せると、淳もニコリとしてそれに応えた。

手塚は困惑していた。どうしようどうしようと、その心の中は焦燥感でいっぱいだった。
じきに淳の父親が、お菓子を用意したから皆おいでと言った。

わいわいとリビングに向かう子供らの中で、手塚だけはその場に残った。

淳は気にしながらも、そのまま檜山と父親と共に歩き出した。

父親は淳にうまくいっているかと声を掛けた。
しかし和やかな空気は、檜山の一言で一変する。
「あの‥おじさん!廊下にあった小さい額縁、あれオレにくれませんか?!」

その時淳の表情は凍りついたのだが、誰もそれには気が付かなかった。

「俺が集めてるハリウッド女優さんの写真を飾るのに、ピッタリなんです!
もし無理なら、母に言ってお金を持って来ます!」

檜山の子供らしくも、ボンボンの傲慢さも出た発言に、淳の父親は豪快に笑った。
抜け目のない奴だな~と言いながら、彼の頬をぎゅうっと掴んだ。

淳にはない、この奔放さを彼はどこか愉快に感じたのだ。
「いいよ、持って行きなさい」

「嫌です!」

淳は強く言い切った。
母親が昔から大切にしていた額縁だ。譲るわけにはいかなかった。

父親は、大丈夫だと言った。ママも昔捨てようとしたんだけど、そのまま置いておいただけのものだと。
淳はそれでも嫌だと言う。
父はそんなに大事なものなのかと問う。
そうじゃないけど‥と言葉を濁す淳に、父は一体何が問題なんだと問いかける。

檜山は押し問答を繰り広げる親子を前に、気まずい思いをしながら小さくなった。
「それでも‥嫌なもんは、嫌です」

頑固にもそう主張する息子に、父親は怒りを覚えた。
「淳、何を言っているのか分かってるのか。」

小さな肩をぎゅっと掴み、その目を見下ろしながら強い口調で諭した。
「こうやって我を張る年齢はとっくに過ぎただろう」

「お前が欲しいものならこの家に全部あるだろう?
なのにあんな取るに足らないものにいらぬ我を張って、一体何になる?」

「淳、よく考えろ」

「考えるんだ」
やがて、淳はその口を開いた。
「ごめんなさい‥」

もう言いません、と言って淳は謝った。
その態度に、父親は満足気に笑顔を見せる。

父親は心の中で、河村教授に話しかけるように呟いた。
少しでも疑わしいことがあれば、あれからこうして芽から切ってきました。

彼は、息子が感情を自制出来ることを誇りに思った。そしてそれこそが、正常なことだと信じていた。
檜山が父親に大きな声で礼を言った。
ふと淳を見ると、彼は虚ろな表情で黙り込んでいた。

父は淳の頭を抱えると、ぐしゃぐしゃと撫でながら怒ってごめんなと声を掛けた。
友達だろ?と言いながら。

檜山は額縁が自分のものとなり、ヘラヘラと笑いながら鼻歌を口ずさんでいた。


彼は、ふと胸騒ぎがした。
再び窺った淳の表情に、何か不穏なものを感じたからだった。

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