遠藤修は苛立っていた。

世の中の道理というものと、自分の感覚がまるで食い違っていることに。
単純に言うと、彼は同性愛者であり、彼の恋人とは男性だった。
その事実は、彼の純粋な気持ちとは裏腹に、辺りに波紋を呼び起こす。
「修っ‥嘘よね?ねぇ、修!アンタ、病気になって死んじゃうわよっ‥」

何度母親から罵られ、泣かれ、蔑まれて来たことだろう。
何も悪いことなんてしていないのに、世間はいつもそっぽを向く。
恋人の実家は資産家だったが、彼は家を追い出され、
車も、カードも、何もかも持たずに飛び出して来た。

遠藤はそんな彼に、自分が勤める大学の近くに下宿を借りた。
少ない収入からの貯金を切り崩し、敷金も出してやって。

彼の恋人は無一文だった。
就職活動をしなければならなかったが、面接に着ていくスーツすら無い。

遠藤の通帳の残高はもう侘しいばかりで、新しいスーツを買ってやる余裕は無かった。
八方塞がり。
真綿で首を締められるかのように、じわじわと世界が狭まって行く。
彼は飲み会の席でも荒れていた。
懐の寂しさが、精神の余裕を無くし心はささくれ立つ。

スーツのことを考え出すと、普段は気にしないコートハンガーにかかった他人の服にさえ目が行った。

酔っ払った彼は、コートハンガーからずり落ちた一つのコートを手に取った。
これは確か、青田淳が着ていたものだ。
タグに書かれたブランド名は誰もが知っているような有名ブランドの高級服で、
それをさらっと着こなしている彼に、遠藤は腹立だしささえ覚えた。
彼の恋人も昔はこんな高級服を着て、高級車に乗って‥。
遠藤は溜息を吐くと、服をコートハンガーに掛けようと持ち上げる。

するとポケットから、財布がぽろりと転げ落ちた。
遠藤はポケットに戻そうとそれを拾ったが、ふいに中身が見えた。
クレジットカードしか入っていない。

こんなにカードがあんのか‥どれか一つ無くなっても、分かんないんじゃないのか?

遠藤のささくれ立った心に、悪魔がそっと忍び込む。

飲み会は騒がしく、誰も遠藤の方など見てはいない。
震える手でカードを一枚抜き出し、ポケットに入れた。

現金なら、この場で盗ったらすぐにバレる。
しかしカードなら‥。一回だけ使ってから鞄なりポケットなりまたこっそり入れれば大丈夫‥。

彼は恋人にスーツを贈った。

恋人は驚いていたが、気にするなと強い口調で言うと黙った。
そして彼の恋人は面接に出向いて行く。
しかしその結果は全て不採用で、
結局浪人生としてこの下宿で日がな一日勉強に励むこととなったのだ‥。

心に入り込んだ悪魔は、遠藤の精神を蝕み続けた。
しかも最悪なことに、青田淳には全てバレてしまった。

後悔し謝罪をする遠藤を見下ろす彼の瞳に、侮蔑の色が浮かぶ。

いつもの彼とは違うその冷淡な表情。
底冷えするようなその瞳から見下されると、心が凍りついて行くようだった‥。

心の中の悪魔が、彼を呼び寄せたのだろうか。
二人はそれ以来、誰にも言えない秘密を共有することになったのだ。

冬の寒さ真っ只中の一月某日。
期末試験も終わり、事務室は学生たちから提出されたレポートの管理に追われている頃だった。

冬季休み中のキャンパスはしんとしていた。
遠藤はその中を、浮かない顔で一人歩いている。
すると。
「!」

事務室の前に、あの男の姿があった。
青田淳。

淳は遠藤の姿を見つけると、ニッコリと笑顔を浮かべ、深く会釈した。
まるで何か嬉しいことでもあったかのように。

遠藤は口をぽかんと開けたまま、絶句してその場に立ち尽くした。
嫌な予感が全身を駆け巡る。
「‥‥‥‥」

ただ俯くしか出来ない遠藤に向かって、淳は挨拶を口にした。
「おはようございます、遠藤さん」

そして淳は遠藤と共に事務室に入り、暫くそこにあった本棚を眺め続けた。

なかなか話を切り出さない淳を前にして、遠藤はそわそわとその身を震わせる。
そして暫くの後、淳は遠藤と目を合わせることなく、おもむろに口を開いたのだった。
「平井和美、休学するって聞きました?
休学ブームじゃないですけど、皆必ず一回は休学しますよね」

それがどうしたというのか。言いたいことがあるならハッキリ言えと、遠藤は言った。
しかし目は合わせられなかった。

淳は笑い、では単刀直入に言いますねと用意して来た台詞を口にする。
「俺のレポート、捨てて欲しいんです」

「?!」

最初、聞き間違えかと思った。依頼にしては、あまりにも突拍子もない。
理由を聞いても、淳は曖昧なことを言うだけで、遠藤を納得させる理由など何一つ口にしなかった。
遠藤は動揺し、思わず淳に詰め寄る。
「お前‥どうしたんだ?人生に刺激でも欲しくなったか?!
トップの座も奨学金も貰えなくなるんだぞ!今お前が言ってることは、常識的にありえない‥!」

「常識?」

「!」

思わずギクッ、と遠藤は竦んだ。
今日初めて向けられた彼の瞳には、あの時と同じ冷淡な光が宿っていたからだ。
震える遠藤に向かって、淳は冷静な口調で話を続ける。
「遠藤さんの口からその言葉が出るということは、常識とは主観的なものなんですね。
そう思いませんか?」

遠藤は俯いた。
心の中が、チクチクとささくれ立つ。
「そ‥そう‥だな‥」

淳からの依頼は、すでに提出されたレポートを遠藤の過失で無くなったことにしてくれということだった。
勿論教授には故意に無くす旨など伝えられるはずもない。
遠藤は到底納得出来るはずもなく、大声で反論する。
「俺に全ての罪を着せるつもりか?!俺がすんなり従うとでも思ってるのか?!」
「ええ」

淳の返事はYESだった。
当然やってくれるはずだと。
遠藤はわけが分からなかった。
「お‥お前一体どうしちゃったんだよ?!おかしいじゃないか!
お前すごく真面目なヤツだっただろ?!こんな妙なこと頼むようなヤツじゃ‥」

遠藤が言い終わらない内に、淳は口を開いた。
彼の方を振り返りもせずに。
「遠藤さん、俺のことをどう思おうが勝手ですが、
過ちを犯したなら、償いをするのが筋だと思いませんか?」

淳は続けて言った。
レポートさえ捨ててくれたら、きれいさっぱりなかったことに出来るのだと。
彼の犯した過ちを‥
「ぜーんぶね‥」


そうして扉は閉じられた。
選択肢は残されていない。

全体首席のレポートが紛失する大事件は、この直後に起こる。
その責任を一切負わされた遠藤修は半年間の間、皆から白い目で見られるようになるのだが、
それはまた次の話だ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<淳と遠藤>過ち でした!
淳の計画の一端を担った遠藤さん‥。
精神的にも経済的にも余裕を持てない、彼の気持ちを思うと切ないですね(TT)
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世の中の道理というものと、自分の感覚がまるで食い違っていることに。
単純に言うと、彼は同性愛者であり、彼の恋人とは男性だった。
その事実は、彼の純粋な気持ちとは裏腹に、辺りに波紋を呼び起こす。
「修っ‥嘘よね?ねぇ、修!アンタ、病気になって死んじゃうわよっ‥」

何度母親から罵られ、泣かれ、蔑まれて来たことだろう。
何も悪いことなんてしていないのに、世間はいつもそっぽを向く。
恋人の実家は資産家だったが、彼は家を追い出され、
車も、カードも、何もかも持たずに飛び出して来た。

遠藤はそんな彼に、自分が勤める大学の近くに下宿を借りた。
少ない収入からの貯金を切り崩し、敷金も出してやって。

彼の恋人は無一文だった。
就職活動をしなければならなかったが、面接に着ていくスーツすら無い。

遠藤の通帳の残高はもう侘しいばかりで、新しいスーツを買ってやる余裕は無かった。
八方塞がり。
真綿で首を締められるかのように、じわじわと世界が狭まって行く。
彼は飲み会の席でも荒れていた。
懐の寂しさが、精神の余裕を無くし心はささくれ立つ。

スーツのことを考え出すと、普段は気にしないコートハンガーにかかった他人の服にさえ目が行った。

酔っ払った彼は、コートハンガーからずり落ちた一つのコートを手に取った。
これは確か、青田淳が着ていたものだ。
タグに書かれたブランド名は誰もが知っているような有名ブランドの高級服で、
それをさらっと着こなしている彼に、遠藤は腹立だしささえ覚えた。
彼の恋人も昔はこんな高級服を着て、高級車に乗って‥。
遠藤は溜息を吐くと、服をコートハンガーに掛けようと持ち上げる。

するとポケットから、財布がぽろりと転げ落ちた。
遠藤はポケットに戻そうとそれを拾ったが、ふいに中身が見えた。
クレジットカードしか入っていない。

こんなにカードがあんのか‥どれか一つ無くなっても、分かんないんじゃないのか?

遠藤のささくれ立った心に、悪魔がそっと忍び込む。

飲み会は騒がしく、誰も遠藤の方など見てはいない。
震える手でカードを一枚抜き出し、ポケットに入れた。

現金なら、この場で盗ったらすぐにバレる。
しかしカードなら‥。一回だけ使ってから鞄なりポケットなりまたこっそり入れれば大丈夫‥。

彼は恋人にスーツを贈った。

恋人は驚いていたが、気にするなと強い口調で言うと黙った。
そして彼の恋人は面接に出向いて行く。
しかしその結果は全て不採用で、
結局浪人生としてこの下宿で日がな一日勉強に励むこととなったのだ‥。

心に入り込んだ悪魔は、遠藤の精神を蝕み続けた。
しかも最悪なことに、青田淳には全てバレてしまった。

後悔し謝罪をする遠藤を見下ろす彼の瞳に、侮蔑の色が浮かぶ。

いつもの彼とは違うその冷淡な表情。
底冷えするようなその瞳から見下されると、心が凍りついて行くようだった‥。

心の中の悪魔が、彼を呼び寄せたのだろうか。
二人はそれ以来、誰にも言えない秘密を共有することになったのだ。

冬の寒さ真っ只中の一月某日。
期末試験も終わり、事務室は学生たちから提出されたレポートの管理に追われている頃だった。

冬季休み中のキャンパスはしんとしていた。
遠藤はその中を、浮かない顔で一人歩いている。

すると。
「!」

事務室の前に、あの男の姿があった。
青田淳。

淳は遠藤の姿を見つけると、ニッコリと笑顔を浮かべ、深く会釈した。
まるで何か嬉しいことでもあったかのように。

遠藤は口をぽかんと開けたまま、絶句してその場に立ち尽くした。
嫌な予感が全身を駆け巡る。
「‥‥‥‥」

ただ俯くしか出来ない遠藤に向かって、淳は挨拶を口にした。
「おはようございます、遠藤さん」

そして淳は遠藤と共に事務室に入り、暫くそこにあった本棚を眺め続けた。

なかなか話を切り出さない淳を前にして、遠藤はそわそわとその身を震わせる。
そして暫くの後、淳は遠藤と目を合わせることなく、おもむろに口を開いたのだった。
「平井和美、休学するって聞きました?
休学ブームじゃないですけど、皆必ず一回は休学しますよね」

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しかし目は合わせられなかった。

淳は笑い、では単刀直入に言いますねと用意して来た台詞を口にする。
「俺のレポート、捨てて欲しいんです」

「?!」

最初、聞き間違えかと思った。依頼にしては、あまりにも突拍子もない。
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遠藤は動揺し、思わず淳に詰め寄る。
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「常識?」

「!」

思わずギクッ、と遠藤は竦んだ。
今日初めて向けられた彼の瞳には、あの時と同じ冷淡な光が宿っていたからだ。
震える遠藤に向かって、淳は冷静な口調で話を続ける。
「遠藤さんの口からその言葉が出るということは、常識とは主観的なものなんですね。
そう思いませんか?」

遠藤は俯いた。
心の中が、チクチクとささくれ立つ。
「そ‥そう‥だな‥」

淳からの依頼は、すでに提出されたレポートを遠藤の過失で無くなったことにしてくれということだった。
勿論教授には故意に無くす旨など伝えられるはずもない。
遠藤は到底納得出来るはずもなく、大声で反論する。
「俺に全ての罪を着せるつもりか?!俺がすんなり従うとでも思ってるのか?!」
「ええ」

淳の返事はYESだった。
当然やってくれるはずだと。
遠藤はわけが分からなかった。
「お‥お前一体どうしちゃったんだよ?!おかしいじゃないか!
お前すごく真面目なヤツだっただろ?!こんな妙なこと頼むようなヤツじゃ‥」

遠藤が言い終わらない内に、淳は口を開いた。
彼の方を振り返りもせずに。
「遠藤さん、俺のことをどう思おうが勝手ですが、
過ちを犯したなら、償いをするのが筋だと思いませんか?」

淳は続けて言った。
レポートさえ捨ててくれたら、きれいさっぱりなかったことに出来るのだと。
彼の犯した過ちを‥
「ぜーんぶね‥」


そうして扉は閉じられた。
選択肢は残されていない。

全体首席のレポートが紛失する大事件は、この直後に起こる。
その責任を一切負わされた遠藤修は半年間の間、皆から白い目で見られるようになるのだが、
それはまた次の話だ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<淳と遠藤>過ち でした!
淳の計画の一端を担った遠藤さん‥。
精神的にも経済的にも余裕を持てない、彼の気持ちを思うと切ないですね(TT)
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