蓮との口論の末に肩を怒らせて出てきた雪も、ボランティアの施設に着く頃にはいくらか気分もマシになっていた。
気持ちを切り替えて倉野愛が待っている教室へ行き、机の上に手作りの教材を広げ、授業を始めた。
白い紙の上に1から3までの数字。そしてその数に合わせて、その下に飴玉が置いてある。
アメの数と数字を照らし合わせる、という勉強だ。
雪は笑顔を浮かべながら、めげずに何度も愛の意識を自分の方へと向けさせる。
「じゃ~ん!」
まだ一時間目だというのに、愛はもうウンザリといった体だ。
それでも辛抱強く雪は続けた。
「アメが一つ、この絵のところにあるね。それじゃあこの数字の名前は何かな~?」
明るい雪に対して、愛は暗くつまらなそうだ。
「分かんない~!」と声を荒げながら俯き、髪の毛をグシャグシャにする。
雪は愛の小さな肩に手を置きながら、その気持ちに寄り添った。
同じことを繰り返さなければならないのだが、そのせいで関係は煮詰まり、お互いウンザリしてきている‥。
「あああー!分かんない!きらい!」
「難しいよね」と雪が声を掛けると、いきなり愛は叫びだした。宥めようとする雪に向かって、「きらい」と「分かんない」を繰り返す。
「せんせえ~!このお姉ちゃん知らない!このお姉ちゃんだれえ~?!」
また愛の記憶がふりだしに戻ってしまった。
取り乱す愛の元へ先生は駆け付け、彼女の両手を握って落ち着かせる。
「うん?愛ちゃんどうしたの?このお姉ちゃんは雪お姉ちゃんだよ。ゆきおねえちゃん」
ボランティアの指導者である女性の先生が、愛に向かってゆっくりと言葉を紡ぐ。
それでも尚「きらい!分かんない!」と繰り返す愛に、雪はどうすることも出来ず途方に暮れた。
そんな雪に向かって、先生が優しく声を掛けた。「かなり煮詰まってる?」と。
雪は「少し‥」と答え、机に突っ伏した愛の頭を柔らかく撫でた。
「いくら教えても1から3までも覚えられないのに、どうやったら4から6まで覚えられるようになるのか‥」
今の状態では、6まで記憶するなど遠い話に思えた。幾分落ち込んだ雪に、先生は頷きながらも優しく言葉を掛ける。
「それでも繰り返し繰り返し教えていたら、いつか1と2くらいは覚えられるはずよ。
もう少し愛ちゃんを信じて頑張ってみてほしいな」
先生はそう言って微笑むと、二人の元を去って行った。
取り残された雪と愛。途方に暮れた表情で、雪は愛の頭をそっと撫でた。
ぼんやりと他の子どもと学生を見ていると、終始和やかな雰囲気でうまくいっているように見えた。
笑い合う彼女らの声が遠くに聞こえる。
雪は愛の頭を撫でながら思った。どうして私達はこんなにも上手くいかないんだろう‥。
そしてその原因である、愛の障がいについて思い返した。
通常の人より早いペースで脳細胞が死滅するって言ったっけ?
毎回数字はおろか私のことさえ覚えられない‥
雪は先ほど先生が言った言葉に、指示された学習方法に疑問を持っていた。
教えた先から忘れていってしまうのに、なぜこの子にとって苦痛な授業を続けなければならないんだろう?
いっそこの子が好きなことをする方が良いんじゃないか‥? 今の状態はお互いしんどいだけなのに‥。
雪は精神的に疲れを感じ、ぼんやりと一人その場で悶々としていた。
作業を終えた先輩が教室に入ってきて雪に近付いて来るのさえ、彼女は気づかなかった。
雪ちゃん、と声を掛けられた雪は驚いて顔を上げた。
「上手くいってる?」との彼の言葉に、俯きながら答える。
「いいえ‥」
きょとんとした顔の先輩に、雪は今までのことをかいつまんで説明した。
愛の記憶が続かないので、もう何週間も同じことをしているのに全く授業内容が進まないこと‥。
ハッと気がついて時計を見ると、すでに休憩時間は終わっていた。
再び授業を始めようとする雪に、先輩が気遣って声を掛けた。
「雪ちゃん疲れただろう?ちょっとの間俺が代わるから、そこで休んでなよ」
淳はそう言って椅子を引くと、雪と反対側の愛の隣に座った。
手遊びをする愛に向かって、静かにゆっくりと声を掛ける。
「こんにちは。僕は淳お兄ちゃんっていうんだ」
淳は優しい口調で愛に話しかけ、甘い眼差しを彼女に向けた。
「会えて嬉しいな。愛ちゃんっていうの?可愛い名前だね」
突然のかっこいいお兄さん登場で、愛は暫しキョロキョロしながら戸惑っていたが、
やがて淳の言葉に頷き、落ち着いた。
淳は愛の様子を見ながら、早速授業を始めた。机の上に置かれた数字の1を手に取ると、注目を引く言い方で愛に話しかける。
「あれ?雪お姉ちゃんが作ってきてくれたこれは何かな?これが愛ちゃんが習う数字だよ。
この長い棒みたいなこれの名前は何だっけ?」
分かんない、と愛が呟く。
そんな愛に対して、淳はすぐにはその名前を教えなかった。
「んー‥お兄ちゃんと勉強する?やめとく?愛ちゃんが知りたいなら教えるよ」
淳の言葉に愛は暫し考えたが、やがてコックリと頷いた。
淳は笑顔を浮かべると、数字の1を左手で持ちながら右手で一つアメ玉を掴んだ。
「この数字は1だよ。だからアメが一つ」
いちぃ、と愛が呟く。淳は頷きながら、今度は数字の2とアメ玉をもう一つ手に取った。
「あれ?アメ玉がもう一つこっちに来たよ。これでアメ玉は全部で二つ。
一つより二つの方が嬉しいよね?だから嬉しい愛ちゃんはこうやって笑うよ。にぃ」
にぃ、と愛がアメ玉に手を伸ばしながら呟いた。
すると淳は、先ほど持っていた数字の1をもう一度取り出す。
「あれ?ところでこれはなんだっけ?」
愛は記憶を辿るように視線を漂わすと、ボソッと「‥いち」と答えた。
淳が笑顔になって愛の頭をいい子いい子する。
「そうだよ!愛ちゃんは賢いね!」
雪は数字を答えた愛に驚いていた。自分が何度教えても、1さえも記憶出来なかったのに‥。
更に淳は学習を続けた。今度は1と2を両方持っている。
「あれ?今度は1と2が一緒にいるよ?これだとどうなるかな?」
淳の質問を受けた愛だが、彼女は低く声を発したかと思うと、「分かんない!」と言って数字を放り投げた。
「だれ?だれぇ~?!この人知らない!分かんないよぉ~!」
またいつものパターンだ。記憶がふりだしに戻ってしまっている。
暴れ出した愛を雪がなだめていると、淳は席を立ち上がって放り投げられた数字を拾った。
「あれ?愛ちゃんが2を投げちゃった。これだね」
淳はそう言って、一度数字の2を机の上に置いた。愛がそれを見るのを確認すると、再び手に取って数字の2をかざして見せた。
「さて、愛ちゃんは何を投げたでしょう?アメが二つの方が嬉しいとき、どうやって笑うんだったっけ?」
愛は淳を見上げながら暫し考え、そしてゆっくりと答えを口に出した。
「にぃ‥」
淳は愛の方を見ながら、パッとした笑顔を向けた。
「正解!」
雪は彼と愛のやり取りを見ながら、先輩の教え方に舌を巻いた。
雪がそうしている間にも、先輩の授業は尚も続く。
「そして淳兄ちゃんは愛ちゃんにアメを持ってくるお兄ちゃんだよ。一つも怖くなんかないからね。
嬉しい?嬉しいときは”にぃ”」
「にぃ‥」
「愛ちゃんとっても上手に出来たね。これからお兄ちゃんと外に出て冷たいものでも食べに行こうか?」
その言葉に愛が頷き、見る見る二人の距離は縮まっていく。
嫌な顔一つせずニコニコと愛に向き合う淳を見て、大人だなぁと雪は思う。
しかし幾分胸中は複雑だ。自分は何週間も苦労したのに容易にやってのける彼に対しても、
自分の教え子なのに自分より彼になついている愛に対しても‥。
愛を連れて外に出ようと立ち上がった彼に、一緒に行こうと促され慌てて雪も席を立った。
雪と淳は愛の手を引いて、眩しい日差しの下へと歩いて行く。
「お~っと家族水入らずでお出かけですかぁ~?」
からかう柳に「もう!」と雪が言い返す時も、先輩は愛に対して言葉を掛け続ける。
「淳お兄ちゃんは良いお兄ちゃん?悪いお兄ちゃん?」
「‥良いお兄ちゃん」
「ここに良いお姉ちゃんもいるから、全部で2だね!2は?」
「にぃ~」 「そう!にぃ~」
口を横に開いて笑う淳と愛。そして三人は晩夏の日の下を歩いた。
やがて授業は終わりの時刻を迎え、雪と淳が愛に向かってさよならと手を振る。
愛は最後まで雪と淳の方は見なかったが、それでも嫌だと暴れたりはしなかった。
久々に和やかな雰囲気の中で終わるボランティアの帰り道。
雪たちは駐車場の方へと歩いて行った。
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<難航するボランティア>でした。
わ、私も先輩に教えられたい‥!!(゜o゜ )
「こんにちは。会えて嬉しいな。可愛い名前だね」
イケメンがこれを言った時の破壊力ったら!!(゜o゜ )!(゜o゜ )
これを健太や横山がやっていたら「えっ?」てなるかもですが‥。(^^;)嗚呼悲しきイケメン無罪法‥。
次回は<羨望する彼ら>です。
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