「俺今日泊まっていっていい?」
聞き間違えでなければ、先輩は確かに今そう言った。
雪は目を見開いたまま、先輩はそんな雪の顔を見ながら、二人は暫し沈黙した。
雪の脳内シナプスが、彼の言葉とその意味を把握するまで数秒。
回路が繋がった雪は、それはもうあからさまに動揺した。
「えっ?!えっ?!」
ガクブルする雪に向かって、先輩は冷静に「いや変な意味じゃなくて」と言った。
雪は相変わらず動揺していたが、今置かれている状況を踏まえて暫し考えた。
不穏な隣室、物騒な事件が起こったばかりの近所、そして返答を待っている彼‥。
未だに深くは考えられなかったが、雪は流されるまま気が付いたら頷いていた。
ドアを開けて中に入ると、怒涛の勢いで彼を案内する。
「こちら真っ直ぐに進んで下さい!台所は見ずに!」
ドタドタと居間まで彼を誘導すると、雑然とした辺りを見せない角度に座布団を敷いた。
「どうぞここに座ってくつろいで下さいね~!どうぞどうぞこちらへ!」
しかし案内した先、雪の勉強机の辺りも相変わらずゴチャゴチャしていた。
本は積み重なりプリントは散らばり、おまけに片付け忘れたコーヒーカップまで放置されている。
「あらら~?れ、蓮の仕業ですよ~。
アイツはすぐ部屋を汚して片付けないで出てくんで困ってるんです~ホホホ‥」
雪は笑顔を作りながら、汚れた室内を片すのに必死であった。
床に散らばった洗濯物を集めたり、落ちているゴミを拾ったり‥。しかし淳は全くそんなことは気にしていないようだった。
「ここでいつも勉強してるんだね」
そう言って辺りを見回す淳の背後で、雪は依然として部屋のカオスっぷりの弁解をしていた。
「ったく自分の服だけ出せばいいのに、何で私の服まで出して‥。普段はこんなこと絶対にありませんからね!絶対に!」
淳はやはり気にすることなく、興味深そうに机の上をじっと見ている。
「本がいっぱいあるね」
「ったく蓮の奴め!本読んだ後は整理しろってあれほど言ったのに!」
そう言って本を片す雪に、先輩は「え?これ俺らの学科の専攻図書‥」と言いかけたのだが、
「あ!コーヒー飲みます?コーヒー淹れますよ!」
と雪は強引かつ即効の切り返しで誤魔化した。
そしてもうこれ以上汚れた室内を見せないように、先輩にその辺に落ちていた女性誌を手渡した。
これでも読んでいて下さい、と言って。
彼は素直にそれを受け取りページを開いた。雪はそれを確認すると、コーヒーを淹れるため台所へ向かった。
電気ケトルのスイッチを入れた後、雪は暫し呆然とした。
今の状況がじわじわと認識出来てくると次から次へと変な汗が噴き出し、雪は心の中で絶叫した。
き‥急すぎる‥!! こんなことになるなんて考えもしなかった‥!
雪は口元に手を当てながら、自分がなぜ先輩の提案に頷いてしまったのかと内省した。
しかし今日は一人でこの家に居るには怖すぎるし、もし犯人が戻ってきたらと思うと眠れそうにもなかったのだ。
心なしかオドロオドロしいオーラが玄関の先から発されているような気さえする。
だからしょうがなかったのだと雪は自分の判断を信じようとした。チラと彼の方を窺ってみる。
先輩も他意は無いんだろうし‥
彼は素直に雪から渡された雑誌を読んでいた。普段目にすることのないその内容に、幾らか興味深そうである。
すると雪の脳裏に、ニヤニヤと笑った聡美と太一の姿が浮かんで来た。
先輩とどこまでいったのォ~? いったのォ~?
ククク‥と笑う彼らは面白そうに雪を見ている。
雪は想像上の二人を手で追い払うと、煙となって彼らは消えた。
しかし彼らの言葉は消えなかった。徐々にその意味が重圧となって、雪の身にのしかかる。
けど本当に変な雰囲気になったらどうしよう‥。キスもまだなんだけど‥
雪は今の状況が暗示するその意味を意識した。そして生真面目なその性格から、またしても客観的に様々なケースを考える。
だけどいつまでも手を握るだけでいるわけにも‥となると、受け入れるってこと‥?
いやでもみんな最初は拒否しろって言うし‥。
雪は自分の脳内辞書にある、この場面に合致するありったけの知識を取り出して審議した。
けれどどの意見も今の気持ちにそぐわなかった。
みんな? ‥私は?
いつも自分の気持ちを押さえて、最善の選択をするよう冷静に考えてきた。
しかしこの場面では、様々な客観や人の意見よりも大事にしなきゃいけない、最も重視しなければならないものがある。
それは、正直な自分の気持ちだ。
雑念を全て捨て去った後、雪の心には一つの思いだけが残った。
ううん、先輩は信頼できる人じゃないか
脳裏に浮かぶのは、穏やかに微笑む先輩の笑顔だ。
雪の出した結論はシンプルだった。
それは何か起こった場合のことを考えてあれこれ悩むのではなく、そもそもそんなことを考える必要がないというものだった。
考え過ぎて重たかった頭が、自分の心に正直になったら驚くほど軽くなった。
雪は彼を横目で見ながら、今の自分の気持ちをまるで初めて知ったもののように感じていた。
いつから‥。
あんなに警戒していた人だったのに‥。いつからこんなに信頼するようになったんだろう‥
不思議、と雪は思う。
自分でも知らない内に、彼に対する警戒心や悪感情は消えていた。
わだかまりは消え去ったわけではないけれど、それでも悩んだ時に一番に会いに行き、
自分の心の内を晒して相談する間柄になっていた。
お湯が湧いて、マグカップに注いだコーヒーからは温かな湯気が立ち上っている。
人生って本当何が起こるか分かんないな‥
雪はそんな不思議な思いに身を委ねながら、お茶菓子を出そうと流しの下の戸棚を開いた。
すると目に入ってきたのは、食べかけをクリップで留めてある一袋のえびせんであった。
雪の頭にハテナマークが浮かぶ。
あれ?何で家にこれしかお菓子がないの? 普通お茶うけには和菓子とか‥
そう考えてみたものの、一人暮らしの家にそんなものがあるわけなく‥。
しかしふと思いついたものがあった。雪の頭に閃きが浮かぶ。
あ、そうだ!冷蔵庫にスイカが‥!
そう思って開いた冷蔵庫には、無残にも食べつくされたスイカの皮だけが寂しく皿に載っていた‥。
これは正真正銘(?)蓮の仕業である。雪はギリギリと歯噛みしながら泣く泣くえびせんを皿に出した‥。
コーヒーとえびせん‥。
不本意なおもてなしを、雪が気乗りしない様子で先輩に勧める。
「スイカが‥あったんですけど‥」
しかし彼は気にせず、「え?大丈夫だよ」と言ってカップに手を伸ばした。
「ありがとう。いただくね」
そう言って先輩はコーヒーを飲んだ。
その横顔は穏やかで、どこか嬉しそうにも見える。
雪は微笑みながらも、やはり落ち着かずソワソワと彼の横に座っていた。
そして彼の後方の床の上に髪の毛が数本落ちているのが見えたので、掃除をしようと雪はジリジリと移動した。
そんな雪を不思議そうに見つめる先輩、その視線に気づいてビクッと身体を硬直させる雪。
雪はわざとらしい笑顔を浮かべている。
どうにも不自然なその表情を見た先輩は、彼女の真意を汲んで意味深な眼差しを向けた。
その顔を見た雪は、思わず息を呑む。
そのまま雪はいたたまれなくて下を向いた。
そんな彼女を先輩は冷静に見つめている‥。
二人は同じ屋根の下、同じ夜を共に過ごしている。
窓の外から遠い喧噪が聞こえる。
けれどそれよりも雪の心の中のざわめきの方が、
ザワザワと騒がしく心を震わせる‥。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<同じ屋根の下(1)>でした。
いつもうあはんに広い室内をピッカピカに掃除してもらっている先輩にとっては、世にも不思議な空間だったと思います。。
でも先輩、嫌な顔一つせず様々なものに興味深そうに、楽しんでいるように見えますよね~。そこがいいなぁと思います。
まぁ亮の場合を想象しても良いなぁと思うんですけどね‥(^^;)
(「何だこりゃこれが女の住む家か?!」と言いながら蹴躓きながら室内に入っていくのを想像出来る‥)
次回<同じ屋根の下(2)ーハプニングー>へ続きます。
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聞き間違えでなければ、先輩は確かに今そう言った。
雪は目を見開いたまま、先輩はそんな雪の顔を見ながら、二人は暫し沈黙した。
雪の脳内シナプスが、彼の言葉とその意味を把握するまで数秒。
回路が繋がった雪は、それはもうあからさまに動揺した。
「えっ?!えっ?!」
ガクブルする雪に向かって、先輩は冷静に「いや変な意味じゃなくて」と言った。
雪は相変わらず動揺していたが、今置かれている状況を踏まえて暫し考えた。
不穏な隣室、物騒な事件が起こったばかりの近所、そして返答を待っている彼‥。
未だに深くは考えられなかったが、雪は流されるまま気が付いたら頷いていた。
ドアを開けて中に入ると、怒涛の勢いで彼を案内する。
「こちら真っ直ぐに進んで下さい!台所は見ずに!」
ドタドタと居間まで彼を誘導すると、雑然とした辺りを見せない角度に座布団を敷いた。
「どうぞここに座ってくつろいで下さいね~!どうぞどうぞこちらへ!」
しかし案内した先、雪の勉強机の辺りも相変わらずゴチャゴチャしていた。
本は積み重なりプリントは散らばり、おまけに片付け忘れたコーヒーカップまで放置されている。
「あらら~?れ、蓮の仕業ですよ~。
アイツはすぐ部屋を汚して片付けないで出てくんで困ってるんです~ホホホ‥」
雪は笑顔を作りながら、汚れた室内を片すのに必死であった。
床に散らばった洗濯物を集めたり、落ちているゴミを拾ったり‥。しかし淳は全くそんなことは気にしていないようだった。
「ここでいつも勉強してるんだね」
そう言って辺りを見回す淳の背後で、雪は依然として部屋のカオスっぷりの弁解をしていた。
「ったく自分の服だけ出せばいいのに、何で私の服まで出して‥。普段はこんなこと絶対にありませんからね!絶対に!」
淳はやはり気にすることなく、興味深そうに机の上をじっと見ている。
「本がいっぱいあるね」
「ったく蓮の奴め!本読んだ後は整理しろってあれほど言ったのに!」
そう言って本を片す雪に、先輩は「え?これ俺らの学科の専攻図書‥」と言いかけたのだが、
「あ!コーヒー飲みます?コーヒー淹れますよ!」
と雪は強引かつ即効の切り返しで誤魔化した。
そしてもうこれ以上汚れた室内を見せないように、先輩にその辺に落ちていた女性誌を手渡した。
これでも読んでいて下さい、と言って。
彼は素直にそれを受け取りページを開いた。雪はそれを確認すると、コーヒーを淹れるため台所へ向かった。
電気ケトルのスイッチを入れた後、雪は暫し呆然とした。
今の状況がじわじわと認識出来てくると次から次へと変な汗が噴き出し、雪は心の中で絶叫した。
き‥急すぎる‥!! こんなことになるなんて考えもしなかった‥!
雪は口元に手を当てながら、自分がなぜ先輩の提案に頷いてしまったのかと内省した。
しかし今日は一人でこの家に居るには怖すぎるし、もし犯人が戻ってきたらと思うと眠れそうにもなかったのだ。
心なしかオドロオドロしいオーラが玄関の先から発されているような気さえする。
だからしょうがなかったのだと雪は自分の判断を信じようとした。チラと彼の方を窺ってみる。
先輩も他意は無いんだろうし‥
彼は素直に雪から渡された雑誌を読んでいた。普段目にすることのないその内容に、幾らか興味深そうである。
すると雪の脳裏に、ニヤニヤと笑った聡美と太一の姿が浮かんで来た。
先輩とどこまでいったのォ~? いったのォ~?
ククク‥と笑う彼らは面白そうに雪を見ている。
雪は想像上の二人を手で追い払うと、煙となって彼らは消えた。
しかし彼らの言葉は消えなかった。徐々にその意味が重圧となって、雪の身にのしかかる。
けど本当に変な雰囲気になったらどうしよう‥。キスもまだなんだけど‥
雪は今の状況が暗示するその意味を意識した。そして生真面目なその性格から、またしても客観的に様々なケースを考える。
だけどいつまでも手を握るだけでいるわけにも‥となると、受け入れるってこと‥?
いやでもみんな最初は拒否しろって言うし‥。
雪は自分の脳内辞書にある、この場面に合致するありったけの知識を取り出して審議した。
けれどどの意見も今の気持ちにそぐわなかった。
みんな? ‥私は?
いつも自分の気持ちを押さえて、最善の選択をするよう冷静に考えてきた。
しかしこの場面では、様々な客観や人の意見よりも大事にしなきゃいけない、最も重視しなければならないものがある。
それは、正直な自分の気持ちだ。
雑念を全て捨て去った後、雪の心には一つの思いだけが残った。
ううん、先輩は信頼できる人じゃないか
脳裏に浮かぶのは、穏やかに微笑む先輩の笑顔だ。
雪の出した結論はシンプルだった。
それは何か起こった場合のことを考えてあれこれ悩むのではなく、そもそもそんなことを考える必要がないというものだった。
考え過ぎて重たかった頭が、自分の心に正直になったら驚くほど軽くなった。
雪は彼を横目で見ながら、今の自分の気持ちをまるで初めて知ったもののように感じていた。
いつから‥。
あんなに警戒していた人だったのに‥。いつからこんなに信頼するようになったんだろう‥
不思議、と雪は思う。
自分でも知らない内に、彼に対する警戒心や悪感情は消えていた。
わだかまりは消え去ったわけではないけれど、それでも悩んだ時に一番に会いに行き、
自分の心の内を晒して相談する間柄になっていた。
お湯が湧いて、マグカップに注いだコーヒーからは温かな湯気が立ち上っている。
人生って本当何が起こるか分かんないな‥
雪はそんな不思議な思いに身を委ねながら、お茶菓子を出そうと流しの下の戸棚を開いた。
すると目に入ってきたのは、食べかけをクリップで留めてある一袋のえびせんであった。
雪の頭にハテナマークが浮かぶ。
あれ?何で家にこれしかお菓子がないの? 普通お茶うけには和菓子とか‥
そう考えてみたものの、一人暮らしの家にそんなものがあるわけなく‥。
しかしふと思いついたものがあった。雪の頭に閃きが浮かぶ。
あ、そうだ!冷蔵庫にスイカが‥!
そう思って開いた冷蔵庫には、無残にも食べつくされたスイカの皮だけが寂しく皿に載っていた‥。
これは正真正銘(?)蓮の仕業である。雪はギリギリと歯噛みしながら泣く泣くえびせんを皿に出した‥。
コーヒーとえびせん‥。
不本意なおもてなしを、雪が気乗りしない様子で先輩に勧める。
「スイカが‥あったんですけど‥」
しかし彼は気にせず、「え?大丈夫だよ」と言ってカップに手を伸ばした。
「ありがとう。いただくね」
そう言って先輩はコーヒーを飲んだ。
その横顔は穏やかで、どこか嬉しそうにも見える。
雪は微笑みながらも、やはり落ち着かずソワソワと彼の横に座っていた。
そして彼の後方の床の上に髪の毛が数本落ちているのが見えたので、掃除をしようと雪はジリジリと移動した。
そんな雪を不思議そうに見つめる先輩、その視線に気づいてビクッと身体を硬直させる雪。
雪はわざとらしい笑顔を浮かべている。
どうにも不自然なその表情を見た先輩は、彼女の真意を汲んで意味深な眼差しを向けた。
その顔を見た雪は、思わず息を呑む。
そのまま雪はいたたまれなくて下を向いた。
そんな彼女を先輩は冷静に見つめている‥。
二人は同じ屋根の下、同じ夜を共に過ごしている。
窓の外から遠い喧噪が聞こえる。
けれどそれよりも雪の心の中のざわめきの方が、
ザワザワと騒がしく心を震わせる‥。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<同じ屋根の下(1)>でした。
いつもうあはんに広い室内をピッカピカに掃除してもらっている先輩にとっては、世にも不思議な空間だったと思います。。
でも先輩、嫌な顔一つせず様々なものに興味深そうに、楽しんでいるように見えますよね~。そこがいいなぁと思います。
まぁ亮の場合を想象しても良いなぁと思うんですけどね‥(^^;)
(「何だこりゃこれが女の住む家か?!」と言いながら蹴躓きながら室内に入っていくのを想像出来る‥)
次回<同じ屋根の下(2)ーハプニングー>へ続きます。
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