夢七雑録

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22.谷古田八幡宮参詣の記

2009-04-04 21:33:14 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文政二年九月二十五日(1819年11月12日)、谷古田八幡宮(峯ケ岡八幡神社。写真。川口市峯)を嘉陵は参詣している。谷古田への経路については明記されていないが、嘉陵の略図からすると、千住から竹の塚、保木間、八束(谷塚)、柳島を経由したか、奥州街道の草加宿を経由したかの何れかであろう。谷古田では、山の麓の農家に黄色や白色の菊が今を盛りに咲いていたという。社殿は南向き瓦葺で朱塗。西側に不動堂があり、社の前には鐘楼があって、鐘の銘は享保六年とあった。山は木が茂っていて、見晴らしは良くなかった。東側に別当寺の真光寺(新光寺)があったが、僧が留守であったため、この八幡宮について聞くことも出来なかったと、嘉陵は書いている。社を南に下ると、御手洗池があり弁才天の祠があった。四辻の向いにある地主稲荷の山には、稲荷三社が南向きに鎮座していた。山の上からは、南東はるか遠くに、上野寛永寺の根本中堂(江戸随一の建造物。幕末に焼失)の甍のようなものが見えたが、木が茂って眺望は良くなかったという。山続きに漸東寺(全棟寺?川口市東本郷)や氷川明神(氷川神社。川口市東本郷)があったが、踏み跡も無いため行くのは諦めている。結局、嘉陵は八幡宮の縁起を聞けなかったわけだが、実は、谷古田八幡宮(峯ケ岡八幡神社)は、天慶年間(938~946)、源経基の創建と伝えられる古社であった。源経基は清和天皇の孫(一説に陽成天皇の孫)にあたり、いわゆる清和源氏の祖であるが、天慶年間には武蔵介に就き、平将門の乱とも関わっている。

 八幡山の西の畑に多くの彼岸桜があった。聞くと、花が咲く頃に枝を切って、江戸で売るのだという。この辺り、安行の地は、江戸時代に植木の栽培が盛んだった場所であり、彼岸桜の枝も出荷していたのであろう。この日は見所もなく、地理を知るだけの事で終わってしまったが、谷古田八幡山から氷川明神の山の辺りは城跡ではないかと、嘉陵は考えていたようである。ただ、その事を尋ねるべき人も無く、日も傾いてきたので、残り惜しいと思いながらも、空しく帰ったと嘉陵は書いている。このあと、地輪薬師(慈林寺)に詣で鳩ヶ谷に出て川口の渡しを渡り、熟知の日光御成街道を帰っている。歩行距離は40kmを越えていただろう。後に嘉陵が人に聞いたところでは、谷古田は太田下野守の居所で、決伝寺(傑伝寺)はその居城跡にあたり、今に遺構が残るといい、水谷伊勢守家臣の富永内蔵介の一寸弓など武器を蔵しているという事であった。現在、傑伝寺付近は本郷城の跡とされ、太田道灌の築城とも太田氏の一族の者が築いたともいわれている。後北条氏の家臣であった太田輝資は、後北条氏滅亡後、家康の誘いを断り、この地に住んだという。なお、谷古田八幡の近辺は、嘉陵が考えていたような城跡ではなく、古墳であったようだ。

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