夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

23.1 中山道大宮紀行(1)

2009-04-06 21:33:50 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文政二年十月四日(1819年11月21日)。嘉陵は、中山道の上尾の辺りで、秋冬の晴れた日に浅間山が見えると聞き、何時かは行ってみたいと思っていたのだが、仕事の都合で延び延びになっていた。この日、急に思い立って、午前4時半、提灯に火を入れて家を出た。中山道の板橋を過ぎる頃は、まだ家々は寝静まっていて、人の動き始めた気配がなかった。志村の坂を下り戸田の渡し(戸田橋の下流)に出ると、水戸家の者が渡し守を起こし舟を出させるというので、同乗させてもらう。川を渡ったあと、元蕨(戸田市)から蕨(蕨市)へ出る。

 旧中山道を現在の道と対応させると、戸田橋の少し先で現中山道と重なり、蕨市に入ってからは、現中山道の右側を並行する道となる。この区間は歴史民俗資料館を中心に旧街道らしい雰囲気の道に整備されている。旧中山道は、その先、錦町三の交差点で現中山道を越えて進み、東京外環の下を通って六辻で再び現中山道を越え、浦和坂(焼米坂)を上がる。この坂を上り詰めたところが浦和宿(さいたま市浦和区)である。

 嘉陵が浦和宿に着いた時、ようやく、あちこちの家に灯が点り、門を開け放って、人々が荷造りや馬の世話をする様子が見られた。この宿場を過ぎる頃、夜はすっかり明け、大宮に着く頃には、朝日が昇ってきていた。街道の傍らには「武蔵国一ノ宮」と刻んだ石が建っていた。大門の入口には石の鳥居があり、松や杉の並木は空が見えぬほどに生い茂り、朝の風が霜の上を流れている。神々しい光景であった。幼い頃、父から見せてもらった「中山道名所記」に氷川の社(氷川神社。さいたま市大宮区。写真)の図があり、一度はお参りしなければと思ったものだった。ふと、そんな事を思い出したが、もう50年も前のことである。参道を2kmほど進み、二ノ鳥居、三の鳥居をくぐると、銅葺屋根の本社があった。御手洗池の橋を渡ると男体女体の社や大社があり、弁財天の社もあった。社を残り無く拝み巡るうち、今日が詣で初めで、詣で納めでもあると思い、涙が溢れ出る思いであった、と嘉陵は書いている。

 徳川清水家広敷用人であった嘉陵は、職掌柄、宮の御方(伏見宮貞建親王の子で徳川清水家初代重好の妻となった田鶴宮か)の平癒を祈願したのだが、実は同時に自分の母についても祈願をしている。また、二人の子息に先立たれていたため、先々の事も心配になり、子孫の繁栄や善縁を祈ってもいる。このあと、神主の所に行って神符を頼み、しばらく客間の縁に腰掛けて休み、真字の神符を受け取って出発している。午前8時を過ぎていた。

コメント