すでに午後2時。急いで帰途に着く。上尾を過ぎ、大宮に着いたのが午後4時近く。足も疲れてきたのと、ちょうど戻りの馬があったので、それに乗る。途中、馬が止まってしまったため、餅を買って与えるということもあったが、ともかくも浦和宿に着く。浦和には、道の西側に覚心院(廓信院か)と玉蔵院(写真。さいたま市浦和区高砂3)があり、また、浦和坂上の東側に勢至菩薩の森があった。この森は、玉蔵院の持ちということであったが、本社と拝殿は朱に塗られ、瑞籬をめぐらす造りであったので、昔は神社だったのではないかと嘉陵は指摘している。嘉陵は馬上から見ただけであったので、気付かなかったのだろうが、この森は調神社(さいたま市浦和区岸3)の森であったと思われる。調神社の別当寺は、玉蔵院が住職を兼ねていた月山寺で、月山寺の本尊は勢至菩薩であった。
日が暮れる前にようやく蕨に到着。途中、八官野(八貫野か。さいたま市西区)に行く道が分かれていたと記す。八官野は、上尾や桶川の西、荒川の東畔にあり、紀伊家が御鷹場で鹿狩りを行う時は、八官野から鹿を追い出すということであった。蕨では、中村屋作兵衛の所で食事をする。ここでは、近くに蕨の御所跡という渋川氏の宅跡があり、菩提寺は宝樹院であること、子孫が持っていた系図を松平伊賀守に渡してしまったことなど、作兵衛から話を聞く。蕨の御所跡とは蕨城址(蕨市中央4)の事であろう。渋川氏は清和源氏足利氏の一族であるが、嘉陵は次のような系図を添付している。<義顕―義春―義季―直頼―義行―満頼―義俊―義鏡・・・・>。嘉陵は、この件について詳しくは知らなかったようだが、渋川義行以降、渋川氏は九州探題に任ぜられ、義鏡の時になって関東探題に任ぜられて、蕨城に居住したされている。
食事が終ると急いで出発。走りに走って、戸田に着いたのは日没前であった。振り返ると、秩父の武甲山の先に、浅間山が見える。妙義や榛名も良く見えた。今日は晴に晴れていたからこそ、数十里先の山々も見えたのだと、心の中にめでつつ、笑いつつ、戸田の堤を行く。黄昏の頃、戸田の渡しを渡り、志村の原を過ぎ、午後6時には板橋に着くが、老いたる足は疲れ果てて、なかなか先に進まない。そして、午後8時を少しまわった頃、やっとの思いで家にたどり着く。この日、嘉陵が歩いた距離は、馬に乗った区間を除いても70kmを越えていた。疲労困憊であったには違いないが、それでも、嘉陵にとって満ち足りた小旅行であったろう。時に嘉陵、60歳であった。
日が暮れる前にようやく蕨に到着。途中、八官野(八貫野か。さいたま市西区)に行く道が分かれていたと記す。八官野は、上尾や桶川の西、荒川の東畔にあり、紀伊家が御鷹場で鹿狩りを行う時は、八官野から鹿を追い出すということであった。蕨では、中村屋作兵衛の所で食事をする。ここでは、近くに蕨の御所跡という渋川氏の宅跡があり、菩提寺は宝樹院であること、子孫が持っていた系図を松平伊賀守に渡してしまったことなど、作兵衛から話を聞く。蕨の御所跡とは蕨城址(蕨市中央4)の事であろう。渋川氏は清和源氏足利氏の一族であるが、嘉陵は次のような系図を添付している。<義顕―義春―義季―直頼―義行―満頼―義俊―義鏡・・・・>。嘉陵は、この件について詳しくは知らなかったようだが、渋川義行以降、渋川氏は九州探題に任ぜられ、義鏡の時になって関東探題に任ぜられて、蕨城に居住したされている。
食事が終ると急いで出発。走りに走って、戸田に着いたのは日没前であった。振り返ると、秩父の武甲山の先に、浅間山が見える。妙義や榛名も良く見えた。今日は晴に晴れていたからこそ、数十里先の山々も見えたのだと、心の中にめでつつ、笑いつつ、戸田の堤を行く。黄昏の頃、戸田の渡しを渡り、志村の原を過ぎ、午後6時には板橋に着くが、老いたる足は疲れ果てて、なかなか先に進まない。そして、午後8時を少しまわった頃、やっとの思いで家にたどり着く。この日、嘉陵が歩いた距離は、馬に乗った区間を除いても70kmを越えていた。疲労困憊であったには違いないが、それでも、嘉陵にとって満ち足りた小旅行であったろう。時に嘉陵、60歳であった。