文政三年三月四日(1820年4月16日)、右大将の君(清水徳川家第五代)の麻疹もようよう回復し、花も咲き始めたというので、気分転換に郊外でもと思っていたところ、この日、晴天であったので、嘉陵は当ても無く家を出ている。麻布まで来て、まだ花見に行っていない場所に行こうかと、仙台坂を上り天真寺(港区南麻布3)を過ぎ、南部の屋敷(有栖川宮記念公園)の前を下って、広尾の祥雲寺(渋谷区広尾5)に出る。ここを過ぎて、下渋谷の橋(渋谷橋付近)を渡り、町並みの続く道(渋谷広尾町。恵比寿南1)を行くと世田谷と目黒不動との分かれ道に出た。急に雨が降ってきたので、嘉陵は桜の木がある茶店で休む。亭主から、近頃、富士を二ヶ所築いたという話を聞き、道を聞いて出かけてみることにした。
教えられた通り、角を西に曲がって世田谷道をしばらく行くと、南の方に富士の築山が見えてくる。山の高さは、四丈(12m)ほど。九十九折の道を上ると、西峯の富士の頂上で、雪をいただいた富士、大山、秩父、武甲が見渡せた。この日は、四、五人の者が土を運んで道をならしているだけで、他には誰も居なかった。この富士は、富士講の先達が願主になって、文化九年(1812)に築かれたもので、後に東の峯が築かれたため、元富士と呼ばれるようになった。広重の名所江戸百景「目黒元不二」には、松の大木が聳え、麓には桜も見えるが、嘉陵が行った当時は、松が一本あるだけで、他には何も無かったという。目黒の元富士はすでに消滅しているが、その場所は、代官山交番近くのキングホームスの付近(目黒区上目黒1)とされ、説明板が設けられている。
山を下り、細道を東に行くと、元富士に対して新富士と称された東の峯の麓に着く。九十九折の道を上ると山頂で、高さは西の峯と同じ。眺望はやや劣るとはいえ、麓の田圃を見下ろし、道元坂から行人坂の一帯、祐天寺や長元院の山も見渡せた。二つの富士の展望について、嘉陵は、飛鳥山の眺望、志村の熊野権現(熊野神社)の景色と甲乙つけがたいと記している。広重の名所江戸百景「目黒新富士」には、麓の三田用水に沿って桜が植えられている様子が見えるが、嘉陵が行った当時は、西の峯に比べて未整備であったようだ。東の峯は、近藤十蔵(近藤重蔵)が抱え屋敷(別邸)内に、土地の人を集めて築いたものである。近藤十蔵は、嘉陵も良く知っていた人物だったようで、世間に疎んじられるところがあって、書物奉行から大阪の武具奉行(御弓奉行)に転出した事。その際、ここに富士を築いて標柱を建て、「近藤正斎先達白日昇天之所」と書いて出立の日付を記し、標柱の上に鶴一隻を置いた事。出立の日には武士の見送りは無く、浄衣を着た富士講の人が数十人、品川まで見送っただけだった事を記している。近藤重蔵は、新富士に華表(墓所の門)を建てて昇天の場所を示し、数百年後に戻ってきて時代の変遷を見ようとしたのだろうと、嘉陵は書いている。目黒の富士を見終わったあと、現在の八幡通りの道筋をたどり、金王(金王八幡神社)下の板橋に出て、渋谷川沿いに進み、もと来た道を通って、日暮れ前には家に帰り着いている。
近藤重蔵守重(1771-1829)は、与力の子として生まれるが成績優秀で、後に蝦夷地調査隊に加わり択捉島に渡るなど、蝦夷地、千島の開拓の基礎を築く。その功績により、文化五年に書物奉行に昇進する。しかし、その性格が災いして、文政二年に大坂御弓奉行に転出。さらに文政四年には小普請差控を命ぜられる。晩年は、長男富蔵の殺傷事件に連座して、大溝藩預かりとなっている。近藤重蔵が築いた目黒の新富士は、すでに消滅しているが、恵比寿駅西口から恵比寿銀座を抜け、古い道しるべがある観音坂を上って、別所坂で下る場所(目黒区中目黒2)の近くにあったとされ、説明板が設置されている。
教えられた通り、角を西に曲がって世田谷道をしばらく行くと、南の方に富士の築山が見えてくる。山の高さは、四丈(12m)ほど。九十九折の道を上ると、西峯の富士の頂上で、雪をいただいた富士、大山、秩父、武甲が見渡せた。この日は、四、五人の者が土を運んで道をならしているだけで、他には誰も居なかった。この富士は、富士講の先達が願主になって、文化九年(1812)に築かれたもので、後に東の峯が築かれたため、元富士と呼ばれるようになった。広重の名所江戸百景「目黒元不二」には、松の大木が聳え、麓には桜も見えるが、嘉陵が行った当時は、松が一本あるだけで、他には何も無かったという。目黒の元富士はすでに消滅しているが、その場所は、代官山交番近くのキングホームスの付近(目黒区上目黒1)とされ、説明板が設けられている。
山を下り、細道を東に行くと、元富士に対して新富士と称された東の峯の麓に着く。九十九折の道を上ると山頂で、高さは西の峯と同じ。眺望はやや劣るとはいえ、麓の田圃を見下ろし、道元坂から行人坂の一帯、祐天寺や長元院の山も見渡せた。二つの富士の展望について、嘉陵は、飛鳥山の眺望、志村の熊野権現(熊野神社)の景色と甲乙つけがたいと記している。広重の名所江戸百景「目黒新富士」には、麓の三田用水に沿って桜が植えられている様子が見えるが、嘉陵が行った当時は、西の峯に比べて未整備であったようだ。東の峯は、近藤十蔵(近藤重蔵)が抱え屋敷(別邸)内に、土地の人を集めて築いたものである。近藤十蔵は、嘉陵も良く知っていた人物だったようで、世間に疎んじられるところがあって、書物奉行から大阪の武具奉行(御弓奉行)に転出した事。その際、ここに富士を築いて標柱を建て、「近藤正斎先達白日昇天之所」と書いて出立の日付を記し、標柱の上に鶴一隻を置いた事。出立の日には武士の見送りは無く、浄衣を着た富士講の人が数十人、品川まで見送っただけだった事を記している。近藤重蔵は、新富士に華表(墓所の門)を建てて昇天の場所を示し、数百年後に戻ってきて時代の変遷を見ようとしたのだろうと、嘉陵は書いている。目黒の富士を見終わったあと、現在の八幡通りの道筋をたどり、金王(金王八幡神社)下の板橋に出て、渋谷川沿いに進み、もと来た道を通って、日暮れ前には家に帰り着いている。
近藤重蔵守重(1771-1829)は、与力の子として生まれるが成績優秀で、後に蝦夷地調査隊に加わり択捉島に渡るなど、蝦夷地、千島の開拓の基礎を築く。その功績により、文化五年に書物奉行に昇進する。しかし、その性格が災いして、文政二年に大坂御弓奉行に転出。さらに文政四年には小普請差控を命ぜられる。晩年は、長男富蔵の殺傷事件に連座して、大溝藩預かりとなっている。近藤重蔵が築いた目黒の新富士は、すでに消滅しているが、恵比寿駅西口から恵比寿銀座を抜け、古い道しるべがある観音坂を上って、別所坂で下る場所(目黒区中目黒2)の近くにあったとされ、説明板が設置されている。