夢七雑録

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27.1 六地蔵もうでの記(1)

2009-04-24 23:12:54 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文政四年八月十一日(1821年9月7日)。この日のことを、嘉陵は次のように書いている。本日は一周忌のため、女官が使いとして上野に御花を捧げに行き、また、元のお付の者も数多くお参りに行っている。利顕、自分、そして直温は、奥の御仏間にて心ばかりの御花を捧げた。近頃は、あれこれ考えることもあり、辛くやりきれぬ思いもある。今日のように殊更に残暑の耐えがたい時は、いかに過ごそうかと、老いの身を扱いかねてもいるが、そんな事を知る人もいない。過日、いま評判になっている何某と、ここの屋敷を預かる近藤某、それに御庭のことを仕事にしている坂間某たちが、我が家の周りを見回り、何か企てていたようだったが、家の南側の空き地を全て菜園にするということで、見積もりをしていたらしい。本日、菜園にする場所の木や草を取り除こうという事になったが、余りに急なことで大騒ぎになり、植えておいた草や木を引き抜いて他所に持って行ったり、切り倒して薪にするなど、騒然としている。萩や薄など、わざわざ植えておいたものを、取り除かせたのだが、ちょうど、萩の花は咲き始め、薄も少し穂が出たばかり、藤袴もほころびかかり、紫苑も匂うばかりである。やむを得ず根こそぎにして移植してはみたが、残暑が殊に強く多くは萎びてしまっている。この庭には桜や山吹もあったのだが、この頃の日照りで、どれも枯れている。こんなことになるとは知らずに、枯れてしまったのかと思うと哀れでもある。数年来、木や草を植え置いて、春や秋に飽きもせずに歌を詠んできたのだが、それも無意味だった気もして、昔の人の言葉も思い出され、むなしくもなる。

 この日が誰の一周忌であるかは明記されていないが、「徳川実紀」の文政三年八月二十二日の記事に、伏見宮貞建親王の姫宮で重好卿(徳川清水家初代重好)の簾中(妻)となった田鶴宮(貞子女王)が亡くなったとあるので、田鶴宮の一周忌であったと考えられる。徳川清水家の御広敷用人であった嘉陵は、殊のほか思いが深かったに違いない。それだけでは無い。嘉陵が折角植えて置いた草木も、菜園のために植え替えざるを得なくなり、それも枯れ始めている有様である。嘉稜は、このまま家に居ても、ますます憂鬱になるばかりと思い、州崎の海辺でも見に行こうかと家を出ている。

 嘉陵は海辺に行く前に、深川の永代寺を参詣するが、地蔵尊を拝み終えたところで、海を見ても心は晴れないと思い直し、六地蔵を巡拝することに目的を変えている。江戸六地蔵とは、地蔵坊正元の発願で、江戸の出入り口六箇所に設けた地蔵菩薩のことであり、次の六ヶ所を指す。この六ヶ所を巡拝するのが、江戸六地蔵参りであるが、順番通りに回る必要はなく、嘉陵も、永代寺を皮切りに、参拝しやすい順番で回っている。

 ①品川寺:東海道に対して設置。品川区南品川3。
 ②東禅寺:奥州街道に対して設置。台東区東浅草2。
 ③太宗寺:甲州街道に対して設置。新宿区新宿2。
 ④真性寺:中山道に対して設置。豊島区巣鴨3。
 ⑤霊巌寺:水戸街道に対して設置。江東区白河1。
 ⑥永代寺:佐倉道に対して設置。江東区富岡1。地蔵は現在無し。

 嘉陵が最初に参詣した永代寺は、明治になって廃寺となり、地蔵尊も消滅している。現在は吉祥院が名前を引き継いでおり、深川不動の門前に永代寺として存続している。さて、永代寺を出た嘉陵は、次に霊巌寺(江東区白河1)に行き地蔵尊(写真)を参拝している。

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