氷川の社から西に出れば中山道に出られるが、嘉陵は一寸した勘違いで、もと来た参道を戻って中山道に出ている。ここから中山道(旧中山道)を北上し、大宮宿を通って吉野原に向う。途中に、黒塚の伝説で知られる東光寺(さいたま市大宮区宮町3)があるが、先を急ぐため見ずに通り過ぎている。その先、天満天神の小祠に由来する天神橋を渡る。この小祠(天満宮。さいたま市北区宮原町4)は道の左側に現在も残っているが、天神橋は既に無く、バス停に名を残すのみである。その少し先が加茂宮である。ここには「木曾街道上尾宿加茂之社」に描かれた加茂の明神(加茂神社。さいたま市北区宮原町4)が、道の右側に現在も鎮座している。嘉陵は先を急いでいたから、参拝は省略したかも知れない。この辺りを大宮の原といい、富士や秩父、八王子の山々が見渡せ、武甲山も近くに見えたが、浅間山だけは、見ることが出来なかった、と嘉陵は書いている。
午前10時を過ぎて上尾宿(上尾市)に到着。しかし、行けども、行けども山は見えない。富士浅間を祭った小高い場所に上ってみるが、木立が多く見晴らしは利かない。歩き疲れたので道の傍らの店で休息。店主から桶川宿入口の辺から眺められると聞き、それを励みに先を急ぐ。さらに街道を進み、ようやく桶川(桶川市)に着く。ここで、嘉陵は宿場入口の不動尊を参拝している。桶川の絵図を見ると、宿場入口近くの東側に南蔵院があるが、嘉陵が参拝した不動尊は、この寺の不動尊であったと思われる。現在の桶川は多少なりとも宿場の面影があり、古い建造物も幾つか残っているが、南蔵院は明治になって廃寺となったため現存していない。ただ、不動堂だけは近くの浄念寺(桶川市南1)に移され現在に至っている。参拝のあと、教えられた通り、不動堂の近くの畑に出てみるが、日光山や赤城山が眺められたものの、浅間山は見えない。そこに居た男に聞くと、桶川宿の西裏の畑から見えるという。桶川宿から800m程歩いて、北方を見渡すと、それらしい山並みが、うっすらと見える。遠くで畑仕事をしている男の所まで行って、聞いてみると、確かに浅間だと言う。さらに、こちらが妙義、そちらが榛名と言う。全体がぼんやりとしているが、それでも、年来の思いを遂げる事が出来た満足感から、幾首もの歌を詠み、その風景を写生している(図)。
ところで、嘉陵は、大宮から上尾の間に、街道を横切って流れる用水があったと記し、人から聞いた話として、用水は公費で修理をしていること、水源は岩槻の十数km上流にあり、利根川の水を中条の大沼に引き入れ、その水をこの辺の田圃に注いでいること、千住辺りの用水もこの水であるという事を記している。この用水は、見沼代用水からの分水か排水路であったと思われるが、その場所は書かれていない。また、上尾の辺では、紫根を作っていると記し、奥州南部(秋田県鹿角)産の紫根よりは質が落ちると書いている。紫根とは、ムラサキの根を乾燥させたもので、染料や薬用に用いられるものである。上尾や桶川は紅花の栽培地として知られていたが、紫根も作っていたという事になる。このほか、浦和から上尾にかけて、土地が高く乾燥している場所では、地面を掘って芋を保存する芋櫃があったとも記している。
午前10時を過ぎて上尾宿(上尾市)に到着。しかし、行けども、行けども山は見えない。富士浅間を祭った小高い場所に上ってみるが、木立が多く見晴らしは利かない。歩き疲れたので道の傍らの店で休息。店主から桶川宿入口の辺から眺められると聞き、それを励みに先を急ぐ。さらに街道を進み、ようやく桶川(桶川市)に着く。ここで、嘉陵は宿場入口の不動尊を参拝している。桶川の絵図を見ると、宿場入口近くの東側に南蔵院があるが、嘉陵が参拝した不動尊は、この寺の不動尊であったと思われる。現在の桶川は多少なりとも宿場の面影があり、古い建造物も幾つか残っているが、南蔵院は明治になって廃寺となったため現存していない。ただ、不動堂だけは近くの浄念寺(桶川市南1)に移され現在に至っている。参拝のあと、教えられた通り、不動堂の近くの畑に出てみるが、日光山や赤城山が眺められたものの、浅間山は見えない。そこに居た男に聞くと、桶川宿の西裏の畑から見えるという。桶川宿から800m程歩いて、北方を見渡すと、それらしい山並みが、うっすらと見える。遠くで畑仕事をしている男の所まで行って、聞いてみると、確かに浅間だと言う。さらに、こちらが妙義、そちらが榛名と言う。全体がぼんやりとしているが、それでも、年来の思いを遂げる事が出来た満足感から、幾首もの歌を詠み、その風景を写生している(図)。
ところで、嘉陵は、大宮から上尾の間に、街道を横切って流れる用水があったと記し、人から聞いた話として、用水は公費で修理をしていること、水源は岩槻の十数km上流にあり、利根川の水を中条の大沼に引き入れ、その水をこの辺の田圃に注いでいること、千住辺りの用水もこの水であるという事を記している。この用水は、見沼代用水からの分水か排水路であったと思われるが、その場所は書かれていない。また、上尾の辺では、紫根を作っていると記し、奥州南部(秋田県鹿角)産の紫根よりは質が落ちると書いている。紫根とは、ムラサキの根を乾燥させたもので、染料や薬用に用いられるものである。上尾や桶川は紅花の栽培地として知られていたが、紫根も作っていたという事になる。このほか、浦和から上尾にかけて、土地が高く乾燥している場所では、地面を掘って芋を保存する芋櫃があったとも記している。