文政二年八月(1819年9-10月)、渋谷八幡宮近くの伊勢野にある法如庵は、本郷園満寺の隠居所で、孔雀明王を祀り見晴らしが良いというので、嘉陵は伊勢野に出かけている。その経路だが、笄橋を渡って羽沢に向っている。笄橋は江戸名所図会にも取り上げられた由緒ある橋で、牛坂の下(港区西麻布4)にあった橋だが、現在は川が暗渠化されて橋も消滅している。笄橋を渡り、川に沿って南に行き、分かれ道を右に上がる。今に残る堀田坂(港区西麻布4)である。坂は右に曲がってから直線的に進むが、この辺りが羽沢で、突き当たりを左折し、次の角を右に入るのが、嘉陵の通った道である。現在の道では、東京女学館の横を入り六叉路に出て、白根記念郷土博物館の前を通り、吸江寺の前を過ぎて坂を下る。坂の途中に氷川神社の参道があるが、嘉陵もこの参道を通って氷川大明神(氷川神社。渋谷区東2。写真)に参詣したのだろう。この神社を嘉陵が参詣するのは始めてであった。参道を入って石段を上ると、茅葺の拝殿や本社があり、江戸百弁天の一つ弁財天の祠や、守武万代石と彫った石があったが、境内は眺望がきかず、松の枝を風が吹く音が聞こえるだけであったという。参拝を終えたあと、嘉陵は正面の石段を下って大門に出るが、道の脇で草刈をしている男がいたので、聞くと、例年九月二十九日に角力の神事があり、その準備をしているということであった。金王相撲という、古くから行われていた神事で、現在も神社の下には土俵が築かれている。大門の東側には薬師堂があり、その手前に別当寺(宝泉寺)の坊があったが、この日は人ひとりいなかったという。
このあと嘉陵は、渋谷八幡(金王八幡神社。渋谷区渋谷3)に詣でている。嘉陵は、この社について、康平六年(1063)、村岡五郎良文(平高望の子。平安中期の関東の武将)子孫の河崎重家が、この地に住んでいた頃からあり、往古は谷盛七郷、渋谷、代々木、赤坂、飯倉、麻布、一ツ木、今井の鎮守であったと記している。また、開山(八幡宮の別当寺で親王院のちに東福寺となった寺の開山)は円鎮で、養和元年(1181)に116歳で寂したとし、大永四年(1524)正月、北条氏綱と上杉朝興の戦いの際に、社頭が兵火のため灰燼に帰したと記している。この八幡宮には、渋谷金王丸が植えたという桜があるというので、嘉陵もそれを探したのだが、それらしい木はなく、近年植えられた桜があるだけで、その根元には俳句の碑が建てられていた。嘉陵は、最初の桜が枯れたあと、同じ桜の実から生じた木を植えたのだが、枯れたので植え直したのだろうと書いている。その桜も、小枝や大枝を折ってしまう者が居て、無惨な姿になっていたという。
金王丸は渋谷冠者常光と号し、保元の乱で活躍した人物である。「江戸砂子」には、金王丸が植えたという桜が枯れたとき、紀州の養珠院が、この桜の実から生えた桜を代わりとして、身内で金王丸の子孫でもある渋谷善入に植えさせたと記されているが、嘉陵はこの点を取り上げて、紀州の渋谷氏は藤原姓であり、秩父一族の渋谷氏とは別であるとして、この説を否定している。現在は、金王桜の後継という桜が残されており、一重と八重の混在する長州緋桜として渋谷区天然記念物に指定されている。また、金王丸の像が祀られている、金王丸影堂が境内にある。渋谷八幡は渋谷城跡とされ、境内には、城の石とされるものが置かれている。嘉陵も、八幡宮の辺りが城跡であるということを「江戸砂子」で読んで知っていたようだが、この日は訪ねるのを止めている。
嘉陵は、八幡宮の前の茶店で休み、伊勢野(渋谷区東1付近)の謂れや道順を聞き、伊勢大神宮の祠に向かう。その場所は分かりにくく、祠は雨が漏ってきそうな建物であった。このあと、祠の後ろにある法如庵(実践女子学園付近か。渋谷区東1)に行く。庵は広くはないが手入れもされ、庭師の住居のようであったが、たいした眺望はなかったという。そのうえ、祈祷を頼んでいない者は、孔雀明王を拝むことも出来ないという事であった。これには嘉陵も、いささか気分を害されたようで、大神宮を住まいの尻にして、勝手気ままに住んでいるのは如何なものか。神は公のものではないか、と書いている。
このあと嘉陵は、渋谷八幡(金王八幡神社。渋谷区渋谷3)に詣でている。嘉陵は、この社について、康平六年(1063)、村岡五郎良文(平高望の子。平安中期の関東の武将)子孫の河崎重家が、この地に住んでいた頃からあり、往古は谷盛七郷、渋谷、代々木、赤坂、飯倉、麻布、一ツ木、今井の鎮守であったと記している。また、開山(八幡宮の別当寺で親王院のちに東福寺となった寺の開山)は円鎮で、養和元年(1181)に116歳で寂したとし、大永四年(1524)正月、北条氏綱と上杉朝興の戦いの際に、社頭が兵火のため灰燼に帰したと記している。この八幡宮には、渋谷金王丸が植えたという桜があるというので、嘉陵もそれを探したのだが、それらしい木はなく、近年植えられた桜があるだけで、その根元には俳句の碑が建てられていた。嘉陵は、最初の桜が枯れたあと、同じ桜の実から生じた木を植えたのだが、枯れたので植え直したのだろうと書いている。その桜も、小枝や大枝を折ってしまう者が居て、無惨な姿になっていたという。
金王丸は渋谷冠者常光と号し、保元の乱で活躍した人物である。「江戸砂子」には、金王丸が植えたという桜が枯れたとき、紀州の養珠院が、この桜の実から生えた桜を代わりとして、身内で金王丸の子孫でもある渋谷善入に植えさせたと記されているが、嘉陵はこの点を取り上げて、紀州の渋谷氏は藤原姓であり、秩父一族の渋谷氏とは別であるとして、この説を否定している。現在は、金王桜の後継という桜が残されており、一重と八重の混在する長州緋桜として渋谷区天然記念物に指定されている。また、金王丸の像が祀られている、金王丸影堂が境内にある。渋谷八幡は渋谷城跡とされ、境内には、城の石とされるものが置かれている。嘉陵も、八幡宮の辺りが城跡であるということを「江戸砂子」で読んで知っていたようだが、この日は訪ねるのを止めている。
嘉陵は、八幡宮の前の茶店で休み、伊勢野(渋谷区東1付近)の謂れや道順を聞き、伊勢大神宮の祠に向かう。その場所は分かりにくく、祠は雨が漏ってきそうな建物であった。このあと、祠の後ろにある法如庵(実践女子学園付近か。渋谷区東1)に行く。庵は広くはないが手入れもされ、庭師の住居のようであったが、たいした眺望はなかったという。そのうえ、祈祷を頼んでいない者は、孔雀明王を拝むことも出来ないという事であった。これには嘉陵も、いささか気分を害されたようで、大神宮を住まいの尻にして、勝手気ままに住んでいるのは如何なものか。神は公のものではないか、と書いている。