夕螺の一言日記

毎日心に浮かんだことなどを書いてみたいと思います。。。(2014年3月13日開設)

2014年 3月22日(土)「『公』と『私』」

2014年03月22日 10時24分34秒 | 「思うこと」
「公(おおやけ)」というのはどのようなものでしょ?国や自治体などはもちろんそうですが、広く考えればサラリーマンなら会社というのも公といえる。さらに広く考えれば人は社会的動物ですから公の中で生活している。そこで「公助から自助へ」というものを見るとこのこと自体が矛盾に満ちている。
「公」の対語は「私」でしょう。先のツイートに書いたような広い意味での公に対する私というものはどのようなものでしょ?公の場で日々を過ごしているのですから私というものはほとんどないことになる。しかしこの「私」というものが重要なわけです。
「公助から自助へ」。。。「公」は公に責任を持ち、「私」は自分で責任を持つ。。。。なんとなく当たり前なのですが、国も企業も国民あるいは社員という「私」には責任は持たずに「私」は国や企業が与えた条件で生きていけということになる。低くなる社会保障と低賃金や不安定雇用に。
同時に「公」という中に「私」は生きているわけですから、「私」の自由や思想なども公の中に置かれる。公の中の自由や思想。。。。これが基本となる。それに対する「私」の自由や思想は「公」に縛られる。
しかしこのような社会は誤っているのです。このような社会を目指す国家感は誤っているわけです。
(以上ツイッターから)
「公」が政治経済の中身を作り上げ、その中に自由や思想も作り上げ、それを下に「私」を規定するといった国家感はどこか民主主義を否定するものが現れます。国会が数の力で動き「民主主義はいらない」となればそれは強権国家となり「公」が「私」を支配する国となる。このような国家感を持ってはならないということです。
「私」というものが相当狭まる社会になります。その狭まる社会に「私」は自己責任を負わされる。「公助から自助へ」という経済問題も深刻さを増しますし、自由な思想も狭められた社会に限定をされます。この中で確かに「公」の安定と維持があるわけですが、しかしこの「公」の社会内部には矛盾が生じてきます。この「公」には発展する社会との乖離が生じます。社会は経済的にも政治的にも「私」の自由度を求める。経済問題はこの自由を抑えるでしょう。自由な思想も抑えられる中に定められた形から脱皮をする発想は生まれてこない。いや、この自由な発想こそが抑えられるわけです。
社会の生産性は後退をしていきます。これは「公」自体の衰退になって現れるでしょう。
コメント
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