ある商品は価値を持つ。
その価値とはその商品がどのように役立つかといったような使用価値ではなくて、洋服と靴ならその使用価値が違っても共通する価値があるから交換をされる。分業が進んでいるのですからこの洋服と靴は交換をされねばならない。しかしこの交換は使用価値だけの比較では交換はできないのですら何かしらの基本的な基準がなければ交換はできない。その基本的な基準ともいえるのが価値である。この価値はどのくらいの労働力の支出があったか(あるいは一日に洋服なら何着、靴なら何族といった労働時間)で決まる。1日に同じ労働時間で洋服なら1着、靴なら2足作れるとすれば、これを1対1で交換はしないでしょう。洋服1着と靴2足でなければ交換はできない。そうすると洋服は靴の2倍の価値があるということになる。ですから価値とは、洋服を作る労働と靴を作る労働ではその労働のやり方は違うともいえますからここで共通するのは具体的な労働の形態ではなくてどのくらいの労働力を支出したかで決まることになる。
どのくらいの労働力の支出をしたかで決まるその商品の価値は、物々交換のままでは市場は発展しない。洋服がほしいと靴屋が2足靴を持って行っても洋服屋は靴も1足あればいいとなれば、ならば洋服半分を渡すわけにはいかない。そこで貨幣が生まれるわけである。洋服1着の価値が1万円としてその価値が表現されて靴は5千円と表現される。ここで靴屋は洋服屋が2足もいらないというのだから靴2足渡すのではなくて1足分の5千円を渡せばいいわけである。
ここでは貨幣量は価値を表現するだろう。金貨そのものも金貨を作る労働力の支出の割合でもある。
しかしここでとんでもない経済理論が飛び出すことがある。
貨幣が価値を写すのならば、貨幣量を多くすれば価値が高まるのだと。。。。
洋服を2万円にして靴を1万円にすれば両商品の価値が倍になる。国内の商品量すべてが2倍になれば国が生産する商品の価値が2倍になるではないか!と。経済は成長した!!と。
もちろんこんなバカな話はないわけで、経済など成長もしないで価値自体に変化はなくて貨幣量だけが変化しただけなのである。もちろん金貨の金の含有量も2分の1になってしまった粗悪な金貨を用いねばならない。
その価値とはその商品がどのように役立つかといったような使用価値ではなくて、洋服と靴ならその使用価値が違っても共通する価値があるから交換をされる。分業が進んでいるのですからこの洋服と靴は交換をされねばならない。しかしこの交換は使用価値だけの比較では交換はできないのですら何かしらの基本的な基準がなければ交換はできない。その基本的な基準ともいえるのが価値である。この価値はどのくらいの労働力の支出があったか(あるいは一日に洋服なら何着、靴なら何族といった労働時間)で決まる。1日に同じ労働時間で洋服なら1着、靴なら2足作れるとすれば、これを1対1で交換はしないでしょう。洋服1着と靴2足でなければ交換はできない。そうすると洋服は靴の2倍の価値があるということになる。ですから価値とは、洋服を作る労働と靴を作る労働ではその労働のやり方は違うともいえますからここで共通するのは具体的な労働の形態ではなくてどのくらいの労働力を支出したかで決まることになる。
どのくらいの労働力の支出をしたかで決まるその商品の価値は、物々交換のままでは市場は発展しない。洋服がほしいと靴屋が2足靴を持って行っても洋服屋は靴も1足あればいいとなれば、ならば洋服半分を渡すわけにはいかない。そこで貨幣が生まれるわけである。洋服1着の価値が1万円としてその価値が表現されて靴は5千円と表現される。ここで靴屋は洋服屋が2足もいらないというのだから靴2足渡すのではなくて1足分の5千円を渡せばいいわけである。
ここでは貨幣量は価値を表現するだろう。金貨そのものも金貨を作る労働力の支出の割合でもある。
しかしここでとんでもない経済理論が飛び出すことがある。
貨幣が価値を写すのならば、貨幣量を多くすれば価値が高まるのだと。。。。
洋服を2万円にして靴を1万円にすれば両商品の価値が倍になる。国内の商品量すべてが2倍になれば国が生産する商品の価値が2倍になるではないか!と。経済は成長した!!と。
もちろんこんなバカな話はないわけで、経済など成長もしないで価値自体に変化はなくて貨幣量だけが変化しただけなのである。もちろん金貨の金の含有量も2分の1になってしまった粗悪な金貨を用いねばならない。