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「君が代」不起立処分大阪府・市人事委員会不服申立ならびに裁判提訴当該15名によるブログです。

司法の役割は教育の自由侵害を止めることー近藤順一さん「君が代」裁判

2012-10-10 08:50:49 | 

 

※司法の役割は教育の自由侵害を止めることー近藤順一さん「君が代」裁判における冒頭本人陳述をご本人の承諾のもとに掲載します。「教育の自由」が、怒涛のごとき荒波に侵害されようとしている大阪における私たちの闘いに多くの示唆を与えてくださっています。

 

 

二審、高裁審理に当たって

2012年10月9日 第1審原告 近藤順一

高裁審理に当たって、2つのことを述べます。

 

 まず、司法の役割として、教育の自由侵害を止める問題です。

本件事案の不起立・不斉唱は、教育課程の特別活動・学校行事<儀式的行事>の実施中に発生したものであります。「10・23通達」・八王子市通達・職務命令により、国旗(日の丸)に正対起立し国歌(君が代)を斉唱することが処分を構えて強制されました。それに対して、私の不起立・不斉唱行為は、旭川学テ最高裁大法廷判決のいう生徒の学習権保障のために、制限された教授の自由に基づく職務権限内の校務でした。その根拠は憲法23条、26条にあります。

国旗(日の丸)、国歌(君が代)は大いに議論すべき問題です。生徒にも自由な論議を通して公正な判断力を養い、自らどう対処するかを考えさせる必要があります。圧倒的多数が外国人生徒である夜間中学では特に慎重に対応しなければならなかったのです。自由な論議をする場として卒業式はふさわしくありません。私は毎年の卒業式要綱案を審議する職員会議で、式次第から「国歌斉唱」を削除することを提案してきました。職務命令が発せられた下で私の不起立・不斉唱は、極めて原則的、抑制的、初歩的なものです。強制された教員が多様性を否定し一律起立・斉唱を受忍すれば正しい教育はできません。私は大声を出したわけではありません。何か書いたものを示したわけでもありません。「立たないこと、歌わないこと」を指導したわけではありません。最高裁裁判官が言う「示威的な拒否行動」や第1審被告が言う「確信的な拒否」ではありません。ただ、自分の行動で多様性を示し生徒が考えるきっかけを示しただけです。それは、思想良心の形成過程にある生徒はもちろん、すでに成人である生徒にも重要だと考えました。

これまでも4つの累積加重処分事案を併合して一括審理、判決をお願いしてきました。それは一貫した教育実践が「服務事故」とされた教育侵害、教員弾圧を明らかにするためです。一審判決は「国の教育統制機能」を示していますが、教授の自由が侵害されたことは無視しています。最高裁がいまだに独自に語っていない教育の自由について当裁判所が憲法判断を下し、今なお学校現場で進行している強制・処分そして不当な「服務事故再発防止研修」を止める役割を果たすことを希望します。

 

二つ目は、正確な事実審理を行うことについてです。

都側の控訴理由書には、地裁審理では取りあげなかった事実が並べられています。例えば、卒業式における副校長による「現認」の言動と私の対応が示されています。この場面こそ具体的な教育活動への介入・支配が進行したことを示しています。副校長は、卒業式が進行している最中、わざわざ私のそばに来て「起立・斉唱」を強制しました。これは副校長が独自に判断したことでしょうか。校長の職務命令があったのでしょうか、通達との関係はどうだったのでしょうか。さらに、副校長の隣には、名前も身分も明らかにされない人物が付いていました。教職員の間では、“副校長の「現認」を「現認」する八王子市教委の担当官”だという噂が流れていました。これもぜひ明確にしなければならなりません。卒業式は、第1審被告・都教委が言うように「大きく紊乱されていた」のでしょうか。ぜひとも、副校長と私の証人尋問を実現してほしいと思います。

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同僚への手紙

2012-10-10 08:11:05 | 当該から

 ※私たち当該7名は、それぞれの学校現場の同僚たちに思いを伝えたいと思っています。

今回は当該梅原聡さんが書かれた「同僚への手紙」(2012.7.16付)を掲載します。

多くの方々に私たちの思いを知っていただければ幸いです。 

 

A高校教職員のみなさま

拝啓 うっとうしい梅雨空の続く毎日ですが、いかがお過ごしでしょうか。突然お手紙をさしあげ、驚かせましたことをお許し下さい。

 ご存じの方も多いと思いますが、私は、今年3月の8期生の卒業式で、国歌斉唱時に起立せず、これによって、昨年成立したいわゆる君が代条例に基づく職務命令に違反したということで、戒告処分を受けました。

 私の行動を見た府会議員が式中にお詫び?発言をし、不愉快なブログを書いたりしたために、結果的には生徒や保護者の皆さん・教職員のみなさんに気分の悪い思いをさせたり、ご心配をおかけしたりしました。このことについては、申し訳なく思っています。しかし、卒業式を振り返って、あのとき立っていれば良かったとは思えません。処分は覚悟していたので戒告の辞令(こんなものも辞令と言うんですね)は黙って受け取ってきましたが、「悪うございました」という気持ちにはもちろんなれません。これからどうしていくべきなのか、いろいろ考えましたが、今春の卒業式・入学式で不起立に対する処分を受けた何人かの人と相談して、府の人事委員会に処分に対する不服申し立てを行いました。今後は、その審理を通じて処分の前提となる君が代条例の問題点を明らかにしていきたいと考えています。これまでは同僚の皆さんに、私の考えをほとんどお伝えできていませんでした。遅くなりましたが、少しでも理解していただければと思い、このお手紙を書かせていただいています。

  条例では、国旗掲揚や国歌斉唱は、子供たちが「伝統と文化を尊重し国と郷土を愛する意識を高揚させるとともに、他国を尊重し国際的社会の平和と発展に寄与する態度を養う」ために行うとされています。日の丸や君が代に対しては、その歴史的な背景からいろいろな考え方があり、立ちたくない、歌いたくないという人もいることは周知のことです。A高校の卒業式にも朝鮮半島にルーツを持つ人をはじめいろいろな気持ちで国旗・国歌に向き合った人たちがおられたと思います。国旗や国歌に対して起立斉唱するというのは絶対にせねばならないことでしょうか。また、国家的な行事でもない卒業式に、国旗や国歌が必要なのでしょうか。式の場に国旗・国歌を押しつけることで国や郷土を愛する心が育つとはとても思えません。ましてや、国際社会の平和に寄与する態度を育てるためとは…、首をひねりたくなります。

 率直に言うと、私自身は日の丸や君が代に強いこだわりはありません。ただ、日本は日の丸や君が代を拒む人たちの考え方も許す国だったはずだと思っています。憲法に保障された思想や良心の自由は、少数の声でもそれを尊重するということではなかったのか。何もかも多数の意見に従えというのなら憲法なんて必要ありません。今こそ、戦後ずっと神棚に祭り上げられてきた憲法の意味を、手許に引き寄せて考えてみるべきときではないかと思っています。 

 私が教師になってから30年がたちます。教師になった当時は卒業式に日の丸も君が代もなかったように記憶しています。それでも、卒業式は何の問題もなく粛々と行われていました。文部省の指導などで日の丸・君が代が式に持ち込まれ始めましたが、君が代は開式前のテープ演奏であったり、日の丸は屋上での掲揚だったりしました。国も国旗や国歌は強制するものではないと明言しておりましたし、その後、指導が強まって式次第の中に国歌斉唱が入るようになっても、国歌斉唱時には着席する教員や生徒が少なからずいました。しかし、卒業式がそのような行動のためにだいなしになったなどと感じられたことは一度もありません。起立斉唱をするしないは自由である旨のアナウンスのあった学校もあるそうです。

 私が愕然としたのは娘の小学校の卒業式でした。壇上には正面の壁いっぱいに巨大な日の丸。卒業証書を受け取る子供たちの姿は夕日に向かって飛ぶ小鳥のようにかすんでいました。祝辞を述べる来賓も、登壇する際には日の丸に向かって最敬礼をします。主役であるはずの子供たちには尻を向けて…。この光景は戦前のフィルム映像となのかと。

 そして、今、君が代を歌わない教師なんて言語道断だ、すぐに辞めさせろと言われます。どんな内容であれ、まず、公務員・教員は命令に従わせる。そのうち、歌わない生徒は非国民だと言われるようになるのではないしょうか。今の雰囲気が戦前と似ていると言われる年配の方もあります。そんな世の中になっていくことが、私には本当に恐ろしくて仕方がありません。そんな中で一部のグループが勢いにまかせて作った条例に従うことは危険だ、そんな意識が、私を起立させなかったのです。

 世の中、特に学校には、いろいろな考え方が存在することが、精神的な豊かさを生み出します。日の丸・君が代に賛成できない者を排除してしまうような不寛容さは、その他のことにも必ず波及し、学校を非常に息苦しいものにしてしまいます。今、国旗・国歌に限らず、少数の意見は切り捨てられ、何でもかんでも競争だ、ついていけない者・勝ち残れない者は努力が足りないのだという論調が目につき、その波は学校にも容赦なく押し寄せてきています。日本は、そして、学校はこれからどうなっていくのだろうと思うと暗澹たる気持ちになります。

 私は、今まさに日本が戦争に向かって突き進んでいるなどと思っているわけではありません。卒業式に国旗や国歌があることはけっして当たり前ではないのに、今それを全員に強制しようとしている。今の日本は特異な国になっていこうとしています。しかも、それが、この大阪から変わっていこうとしていると強く感じるのです。それが悔しくて仕方がありません。私はただ、フツーに平和で、フツーに自由な、私の好きな日本であってほしいだけなのです。私の危機意識が思い過ごしならばいいのですが…。 

 いろいろな考えがまとまりもなく浮かび、そのままダラダラ書いてしまいました。最後まで読んでくださった皆さん、ありがとうございます。読んでいただいて感想やご意見、アドバイスなどをお聞かせいただければうれしく思います。 

 これから夏本番を迎えます。お体に気をつけてお過ごし下さい。節電が叫ばれ何となくパッとしない感がありますが、精いっぱい夏を愉しんで、文化祭や2学期の活動に取り組んでいきたいと思います。(U)

                                                               敬具 

 2012年7月16日            

コメント (2)
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