グループZAZA

「君が代」不起立処分大阪府・市人事委員会不服申立ならびに裁判提訴当該15名によるブログです。

闘う大阪の仲間に、東北からエールを送ります。

2012-10-13 20:17:59 | 

※2012年3月27日、卒業式「君が代」不起立2次処分15名への伝達の日、

 遠く東北からのエールに私たちは励まされました。宮城の土屋さんのエールを掲載します。

 

闘う大阪の仲間に、東北からエールを送ります。

愛していないのに、
愛しているかのようにふるまうことは、
とても恥ずかしいことです。
なぜなら、それは嘘をつくことだから。
自分に言い訳しなくてはならないから。
納得していないことを、
納得しているかのようにふるまうことも、
とても苦しいこと。
なぜなら、それは自分を裏切ることだから。
言い訳しなくてはならないから。

おかしいことに「おかしいよ」と
言葉にすること、行動にすること。
その教育的な意義は、今(こと大阪においては)
とても大きなものになってしまいました。
本来は、普遍的なものだったのに。
誰もが「おかしいよ」と表さなくなったら、
自らの感情・感覚・感性そして良心を、
支配者の気まぐれに委ねてしまったら。
一人ひとりの人間が、
自らの幸せを追求することよりも、
支配者に奉仕することを是としてしまうことでしょう。

いかなる軋轢・誹謗・中傷・誤解・仲違いがあっても、
子どもたちがそれぞれの持ち味を生かしつつ
それぞれに育つ環境を捨てないでください。

支配者は、
子どもの名前も顔も得意なことも嫌いな食べ物も
知らない。
けれども、学校で働く私たちは、
子どものニックネームも好きな相手も将来の夢も
知っている。
私たちは、子どもたちの未来を築く。
私たちは、子どもたちの未来を守る。

私は、
闘う大阪の仲間を、心から応援します。
迷ったり、戸惑ったり、疲れたり、諦めたり、
そんな落ち着かない日々かもしれませんが、
大丈夫!
ヒューマニズムは滅びません。
全国の仲間が皆さんを支持しています。
共に歩みます。
いいことばかりじゃない日常かもしれませんが、
正しいことほど強いものはありません。
胸張っていきましょう。
子どもたちはしたたかに見ていますからね。
皆さんの姿から、しっかと学んでいますからね。

共に閉塞した状況を解放し、
青空の下、和やかに歩んでいきましょう。

一宮城県公立小学校教員 土屋聡

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おおさか社会フォーラムワークショップ「君が代」不起立~卒業式を考える~(報告)

2012-10-13 08:34:55 | 当該から

※グル―プZAZAは、2012年9月16日おおさか社会フォーラムにて、ワークショップ「君が代」不起立~卒業式を考える~」を行いました。

 この企画は、そもそも「卒業式」って、誰のためのどんな行事なのか、私たち当該も含めて改めて考えてみたかったことが出発点でした。参加していただいた方々、協力していただいた方、どうもありがとうございました。

事前にとった「卒業式アンケート」の集計結果と分析、また、卒業式をめぐって行政からはどのような通知(指示)がなされているか「教育委員会通知」を展示しましたが、見ていただける時間が十分に確保できず申し訳ありませんでした。

そして、「卒業式って?!トーク」では、参加者のみなさんと、今から8年後の「2020年の卒業式」を巡って話し合い、「卒業式なるもの」について考える交流する場を持ちました。20代から80代まで実に幅広い世代の方にご参加いただきました。下記にその一部を報告します。

 「卒業式って?!トーク」報告

(1)参加者のみなさんに、次の2点をそれぞれカードにご記入いただきました。

「こんな卒業式がいい! こうなればいいなぁ…!!」

「でも、このまま黙っていれば、多分、こうなるのかぁ…!!」

 

(2)以下が、参加者が記入してくださった内容です。

Aさん(60代)

生徒・保護者・教職員の実行委員会で形式・内容を決めていく。みんなが本当に祝い、決意していける卒業式を議論しながらつくりあげていく。

単なる国家―学校による卒業認定の場であり、国家意識注入の場。

 Bさん(60代)

子ども(生徒)達が、先生方と一緒に、その学校で学んだことを元に一番大切だと思うこと、心に残ったことを明らかにして、保護者や在校生に伝える日にしたい。準備は子ども(生徒)と先生方が考え、手作りのものがいい。歌も、セレモニーも。

今から8年後、このまま、橋下・維新の会、それを利用する勢力がその力を維持している限り、戦前型にどんどん退化し、(卒業式が)子どもも保護者も、全く心のこもらない儀礼になっていくのでは…と、恐れています。

 Cさん(80代)

パーティ形式で式らいし感じがない。ただ、最後には卒業生一同で歌を歌う。「地方の民謡」とか

儀式だから国旗が校舎前のポールに掲げられている。舞台の正面は子どももつくる。「君が代」は全員が儀礼として起立、歌うのは自由。

Dさん(50代)

実行委員が準備する(中学校の)卒業式。3年間をふりかえる簡単なビデオ。ふり返っての感想とこれから。卒業生の代表何人か?公募。教員(校長)、保護者も参加。みんなで歌える歌(の学校でつくった歌)

国歌斉唱。市長挨拶(代読)。校長式辞。卒業証書授与。学校協議会会長挨拶。在校生送辞。卒業生答辞。歌(国のために尽くそうという歌)

 Eさん(30代)

思い出を語り合う場。将来の希望をのべあう場。

国旗に対する礼をさせられる。君が代の斉唱をさせられる。

さん(50代)

フロア形式。「君が代」なし。生徒会中心で卒業式が行われる。

「君が代」斉唱が行われ、フロアー形式はなくなっている。しかし、生徒の歌は現在と同じように感動的に歌われている。卒業式の感動的なあり方は簡単にはなくならない。

Gさん(80代)

生徒のなかで発言したい人が、卒業に当たり、自分の思い、将来への決意など自由に述べるのがよい。卒業証書はHRで担任が渡すのがよい。

教育勅語の卒業式版が述べられるのでは…??「一旦、緩急あれば義勇公に奉じ…」なんて言い出されては…ゾッとするね。

 Hさん

生徒たちの思いを最大限くみあげた=自主的な卒業式…歌は、送答辞も生徒自身で決める。

天皇への最敬礼を強いるような感じ、かな。(ぞっとする)

Iさん(70代)

結婚式方式のように子どもたちが企画立案実行し、保護者、来賓、教職員が招かれ参列する。

 ますます大人たちが介入し、歌・旗に加え、ご真影が舞台中央に置かれ、戦前モデルになっている。

 Jさん(20代)

みんなの思いがつまった卒業式。

形式的な卒業式

 Kさん(70代)

①子どもが自分たちの学校生活を構成詩で発表したり、自分の将来の希望を語る場でありたい。②卒業証書は学校長でなく、担任から渡してもらう。③「日の丸君が代」はない卒業式。

①改正教育基本法の12の徳目…親孝行をします、社会のルールを守ります、など暗唱させられるだろう。  ②卒業証書の真ん中に菊花紋(天皇と国のしるし)が入っているようなものが出てくるだろう。

 Lさん(50代)

子どもたちが自分の夢を語り、3年間自分たちが学んだことを発表・展示する形の卒業式。そして、子どもたちが授業で学んだ合唱曲を中心に歌う。

君が代斉唱、生伴奏で生徒も教師も保護者も歌う形を、表面上でも整えられてくる。

Mさん(60代)

卒業生を囲んで家族・友だち・近所のおばちゃん、おじちゃんも自由に参加して、お茶会をやる。

 Nさん(50代)

2020年、日本の教育・学校にも多様性が認められるようになる中で、卒業式も、形式的ではなく多様な国籍・宗教・信条が尊重されるような生徒の思いが表明できる。

(現実って…あきらめているわけではないのですが)、教員も子どもたちも卒業式には何も期待せず、無難に早く終わることだけを考えている。その中で心ある保護者や子どもが異議を申し立てている…。

 Oさん(60代)

「式」らしくなく、これからの社会に飛び発つことを素朴に祝い合う…子どもたちが中心で教員と共に創る。なんや、少し前までしていたことやんか!!

学校が「会社」的になり、資格(?)認定証を渡す。但し、歌・旗や形式は今まで以上に厳しくなり、軍隊のよう…こうさせない!!

 Pさん(50代)

「卒業おめでとう!」って心から祝うことのできる場。そのためには学校そのもの、もっと言えば教育そのものが変わらなくては、と思う。

国民化教育の最たるものとして「式」が用意されていると思う。卒業生は、黙って卒業証書を受け取る儀式。背景には摺り込みのための小道具(日の丸・君が代他)が用意されている。

 

(3)交流のなかでいろいろと意見が出てきました。(記録者責任)

 ・君が代強制を「不起立」で闘っている教員は8年後も「いる」のだろうか?!

 ・それは、運動しだいでは?運動が広がれば、現場でそういう先生がいれば、8年後であっても「不起立」の先生が「いなくなる」ということはないのでは。

 ・私は教員ですが、来年の卒業式は、担任として(君が代斉唱)不起立しかないと思っている。

 ・私は中学音楽科の教員だが、君が代の伴奏を強いられ断ると、卒業の歌の伴奏もさせてもらえない。

 ・現役の先生だけの抵抗運動ではなく、教員を定年退職で辞めた人が毎日でも抗議の声をあげる運動をしてはどうか。

 ・日の丸・君が代の問題ばかりでなく、原発の問題を通しておかしなことがいっぱい起こっており、またそれに対して声をあげる人も出てきている。声をあげつながることが重要だ。

 ・私はいま君が代不起立を裁判で闘っているが、最近、イギリスの新聞から取材が来た。闘うことは大事だと思う。

 ・市民の立場だが、闘っている先生はイデオロギーや思想からやっているのではないのか?

 ・イデオロギーや思想からではなく、私は、教員として在日の生徒とのかかわりのなかで、学校で日の丸や君が代を強制してはいけないと思った。

 ・小学校の教員だが、今年の卒業式で障がいのある子どもの親から卒業式は休ませるつもりというようなことを言われた。迷惑をかけてはと思われているようであったので、そうではないと説得しわかってもらった。そんなことが起こっている。

 ・これまで、卒業式では君が代以外の生徒が決めた卒業の歌をみんなで歌うことができたが、今年はそれもなくなってしまった。

 

(4)報告を読んでくださったみなさんへ、

ありがとうございました。

ぜひ、みなさんの卒業式に対する思いもお聞かせください。 

 

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未来をつくるのはだれか?

2012-10-13 07:39:26 | 当該から
※当該Yは、卒業式で「君が代不起立」をし戒告処分を受け、そのうえ、「職」をも奪われました。
2012年4月10日の離任式で当該Yが教職員に配布したビラを紹介します。

 

未来をつくるのはだれか?

                                                  2012.4.10 Y


 入学式や始業式が過ぎ、新しく子ども達との出会いがまた始まり、活気と忙しさの毎日を過ごされている教職員のみなさん!僕も3月末の定年退職後、再任用でまた4月から働く願いを持っていました。だが、それは夢まぼろしと消え、卒業式の『君が代』のわずか50秒、座ったことを理由として、合格していた再任用を取り消されてしまいました。このことは、僕個人のクビがつながらなかったことをこえて、これからの大阪の教育に大きくかかわることだと考え、筆をとりました。

白濱先生らの反省と決意から、戦後の教育がはじまった!

 4月5日放送のMBSテレビのドラマ『ブラックボード―時代とたたかった教師達』を見られたでしょうか? 主人公の白濱先生は、戦争中、子ども達を前にして「この聖戦に勝つしか、日本は未來はない」と語り、自分も招集を受けフィリピンの戦場で片腕を失いましたが、敗戦後、帰国しました。だが、教え子は戦死し、あるいは失明し、あるいは今も心で戦争している兵士のままでした。そして、とまどい悩みながら再び教壇に立とうとする白濱先生に、教え子の一人は「子ども達を戦場に送りこんだ先生に、教える資格がない。」と言います。それに対して、白濱先生は「先生はまちがっていた。聖戦など、どこにもない。人を殺し、腕をもがれ、命乞いした、このぶざまな姿を黒板の前にさらすことでしか、あやまることも答えることもできない。」と言って、黒板に未来と書き、「みんな生きろ。そして、未来をつくれ。」と言います。

「教え子を戦場に送り出した」白濱先生らのこの反省から戦後の教育は出発しました。そして、戦後の先輩教師は「教え子を戦場に送るな」というかたい決意で、子ども達の「未来をつくる」ために闘いました。だが、その闘いは、子ども達を侵略戦争の戦場に送り出した大本の天皇制や、また、その道具立てであった『日の丸』『君が代』にまでは至りませんでした。しかし、その責任を戦後の先輩教師に負わせても何も解決しません。いまだ『日の丸』『君が代』があり、学校現場に持ちこまれていることは、僕たち現在の教師の責任だと考えてきました。そして、僕は、侵略戦争の血にまみれた『日の丸』『君が代』が卒業式にもちこまれることには反対ですの意思をこめて、『君が代』と同時に静かに座りました。

『誓約書』という『踏み絵』をふまないから、再任用取り消しか?

 3月27日、『戒告処分』を通告されました。しかし、『研修』と「今後、卒業式、入学式の国歌斉唱の職務命令に従う」(『誓約書』)という文書の署名・捺印をせずに、その場を出ました。『誓約書』に署名すれば、卒業式の『君が代』で座ったことが間違いだったと認めることになります。非は、卒業式に『日の丸』『君が代』をもちこみ、それを強制する校長―教育委員会にあると考えているのに、『誓約書』は、僕に「考えを変えろ、転向せよ」と言っていると思い、署名・捺印をしませんでした。

3月29日、再任用に合格していたにもかかわらず、『再任用取り消し』通知を受けました。「勤務実績は良好でない」からだそうです。『君が代』で座った、この一点で、このことを唯一の理由として、大阪府教育委員会は、「勤務実績が良好」から「良好でない」へと判断を急転直下させました。

 そして、僕と同じく、『戒告処分』を受けたが、その後『誓約書』を出された高校の先生(1名の方をのぞいて)は、再任用が取り消されませんでした。ということは、『誓約書』を出すか、出さないか、この『踏み絵』で再任用の可否を決めたようです。新聞報道によれば、『誓約書』は「任意」のようです。「法律に従うのが教育公務員」だとする彼らが、法律にもとづかない「任意」の『誓約書』で再任用の可否を決めたことになります。これは、大きな問題です。

 3月30日、大阪府人事委員会に「戒告処分」と「再任用取り消し」に対する不服申立書とその理由書を提出してきました。この申し立てが受理されることを願っています。

命令や処分で教育が成りたつか?

 白濱先生は、子ども達に「未来をつくれ」と言いました。未来をつくるのは、子ども達であり、教師であり、また労働者市民の力です。そして、子ども達の未来をつくる教育は、一人一人の自立した教師の考えや活動と、それをつなぎ合わせた協同の力で成りたつものだと思います。教師が「何が正しくて、何がまちがっているのか」を考えず、命令や処分をふりかざす校長や教育委員会のロボットのごとく動かざるをえなくなってしまったら、いったい、教育と子ども達の未来はどうなってしまうのでしょう?

そう考えて、僕はこれからやるべきことをやります。みなさんのご理解とご支援をお願いします。

 

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「不起立」の連続性から「不起立」を超える運動へ

2012-10-13 01:10:30 | 当該から

※2012年5月8日当該Tが集会で配布したビラを掲載します。

多くの市民に、なかなか理解され難い君が代「不起立」についての思いを述べる一方で、学校は労働現場の過酷さ、労働運動の実態を知り、もっと取り上げるべきだと述べています。教育運動と労働運動がリンクしてこそ、多くの市民は、学校における国旗国歌の問題に関心を持ち、その時こそ、共に「不起立」を超える運動を志向できるのではないでしょうか。

 

「不起立」の連続性から「不起立」を超える運動へ 2012.5.8   T

「不起立」の思い(ツイッターザザ2012.4.26より)

・学校を命令で動く場所にしてはならない。

・少数者の立場は絶えず擁護しなければならない。

・たとえ相手が大きな権力を持つ者であっても意見表明はできる。

・憲法を蔑ろにしてはならない。

・政治的圧力に負けるわけにはいかない。

・なかまと連帯できれば闘える!

・闘いは受け継がれる!

 

1.憲法を生きよう

君が代強制の問題は「ルール」の問題ではなく憲法の問題だ。19条「思想・良心の自由」、20条「信教の自由」は言うまでもなく、21条「表現の自由」、23条「学問の自由」、26条「教育の自由」、ひいては25条「生存権」99条「公務員の憲法尊重擁護の義務」にも及ぶ。主権者である私たちは、教員としてあるいは市民としてそれらの権利を行使し国家に保障の義務を求めていく必要があるのでは。それは憲法が生活において仕事において血肉化する一つの作業かもしれない。

2.司法は教育をまだ知らない

昨年2011.5.30から本年2012.1.16まで、日の丸君が代強制にまつわる判決が相次いで出された。日の丸君が代強制実施に伴う職務命令や処分は憲法19条には反しないという判断だ。処分の行き過ぎについては一定の歯止めとなろうが、本質的な問題はいまだ解決されていない。なぜか。良心の自由の解釈をはじめとする法的解釈の問題や限界もあろうが、素朴な疑問として、司法はいまだ教育を知らないのではと思う。これは行政も同じである。学校でどのような営みが行われているか。教育とは生身の人間が生身の人間とぶつかり合う、泥臭い作業と言ってよい。教員として、保護者として、あるい市民として今後も声をあげていく必要があるのでは。最高裁はいわば「世間」。少数者であろうといや少数者であるだけに、たとえ判決の屍をさらに重ねていくことになろうとも司法に問うていくことの意義はあるかもしれない。

3.「不起立」の連続性

2012年度府立高校入学式不起立処分2名。「不起立」は、1985年いわゆる文部省(当時)徹底通知以来、学校で行われた日の丸君が代強制を巡る数々の議論、数々の出会いのなかにある。学校に国旗国歌が強制されることの意味を、その問題性を教員はずっと考え続けてきた。歴史観、世界観はそのなかで培われてきた。教育の営み、教員という仕事についても、然りである。学校に日の丸君が代が持ち込まれるようになり多くの教員は静かなささやかな抵抗として「不起立」を選んだ。それしかできないもどかしさを抱えながら。いま、君が代斉唱わずか1分足らず黙って「すわること」にも条例と職務命令により弾圧が加えられるようになった。このあまりにもおかしな状況において「不起立」はさらに継続される。

2003.10.23東京都教委による君が代強制通達のなか、根津公子さんらは停職処分を受けながら免職の危機を抱えながらそれでも「不起立」を選んだ。根津さんだけではなく多くの教員が処分されながらも「不起立」を行った。そして2011年度東京都立学校入学式では、橋下市長と同じ年の田中聡史さんがただ一人「不起立」を行使し処分された。田中さんの弁、「不起立がゼロにならなくてよかった」と。

翻って大阪では、昨年いわゆる君が代起立斉唱強制条例が制定され、大阪府立学校の教職員には全員「職務命令」が出されるという異常事態のなか、それでも29名の府立学校教員が、市町村を合わせると35名の教員が「不起立」で臨んだ。2012年度入学式における「不起立」はそのような連続性のなかにある。そして2名の不起立の背後には強制に対する多くの異議申立の声が渦巻いている。これは2012年度卒業式「不起立」に受け継がれていくことだろう。

4.「不起立」を超える運動を市民と共に

いま、「学校」と「世間」の距離はより広がっているように思う。公務員バッシングや教員バッシングにのるつもりはないが、相互間の対話や信頼性はかつてに比べれば間違いなく乏しくなって来ている。「不起立」の問題は歴史認識、世界観、教育観の問題であるといってもなかなか理解されにくくなっている。

一方で、労働現場の苛酷さを「学校」はどれほど理解しているだろうか。東京新聞5/3社説にこうあった、「若者の半数が不安定雇用―。こんなショッキングな数字が政府の『雇用戦略対話』で明らかになった。2010年春に大学や専門学校を卒業した学生85万人の『その後』を推計した結果だ。3年以内に早期退職した者、無職やアルバイト、さらに中途退学者を加えると、46万人にのぼった。安定的な職に至らなかった者は52%に達するのだ。高卒だと68%、中卒だと実に89%である。学校はまるで“失業予備軍”を世の中に送り出しているようだ」。

いま、学校がどのような役割を果たすべきか、ここからも明らかであろう。苛酷な労働現場やその実態を共に変革する志なくして「不起立」は到底理解され得ない。教育問題と労働問題は軌を一にしている。そしてそのときはやり武器になるのは憲法だ。憲法の原点に立ち返り、教育の場でこそ憲法を日常的な営みにしていくことが求められているのではないだろうか。そのとき「不起立」はそれを超えた運動になっていくだろう。

 

 

 

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