※私たちは、思考停止状態の教育は危険だと考えています。しかし、世間の多くの人々はどのように考えているのでしょうか。ひょっとしたら、思考停止状態にはある種の快感があるのかもしれません。
けれども、それは多数者に身を置き、いつのまにか、少数者を排除することにつながりかねないのではないでしょうか。
1988年8月15日 朝日新聞夕刊文化欄掲載の大西赤人の文章を紹介します。
今なお、あり続ける日本社会の少数者排除の空気を見事に表現しています。
私たち「君が代」不起立者も、少数者かもしれません。しかし、だからこそしぶとく主張し続けようと思います。「消毒殺菌」されることがないように!(T)
『判断停止の快感』(大西赤人)
書店に入り、平積みにされている本や雑誌を買うとき、一番上の一冊は、多くの人が手にとったため表紙が折れたり少し破れたりしていることがあるので、二冊目を引き出す―これは平凡な行為だろう。しかし、何十冊も詰まれた週刊誌を上から下まで丹念にチェックして、自分の買う「きれい」な一冊を選び出す―こうなると少々不気味にさえ思われるが、そんな若者も現代では珍しくないらしい。
そこには、キズや汚れに対する過敏なほどの嫌悪・「きれい」な物への強い執着が感じられる。最近のテレビ・コマーシャルを見ていると、“殺菌” “除菌” “消臭” などと冠した商品が増えているようで、これもまた、「きれい」な物を求める人心の反映に違いない。
「きれい」という言葉には、概ね二通りの意味がある。「きれい」を漢字で書けば“綺麗” または“奇麗” だが、“綺” は綾織物を指し、原義としては、綾織物のように美しいということらしい。字面からの推測に過ぎないけれども、元来の「きれい」は、仮に英語に置き換えれば「ビューティフル」―見る者の眼に色彩が飛び込むような華やかで鮮やかな様子―を主に表現していたのではないだろうか。
ところが近年の傾向を見ると、もう一つの意味―清潔で汚れがなくサッパリとした有り様―即ち「クリーン」を指し示すことのほうが格段に多い。例えば「きれいな政治」「きれいな日本語」「きれいな街」―いずれも、色とりどりの派手やかさではなく、感覚的・観念的な清潔さを打ち出している。
では、この「クリーン」―「清潔」とは一体何なのか? 衛生的な有り様、バイ菌や害虫が居ない有り様、健康・健全な有り様。しかし、先に挙げたような例の場合、「衛生的な政治」とか「バイ菌の居ない日本語」では違和感がある。「清潔」の意味するところをもっと一般化するならば、それは夾雑物・不純物の無い状態のことだろう。そして、この夾雑物・不純物とは、別の言い方をすれば「きたない」物である。汚職、汚い言葉、汚いゴミ…押しなべて、その主体を毀損する存在として位置づけられる。
現代は、“清潔願望”の時代と聞く。「清潔」が大変重要な価値観となりはじめている。「きたない・不潔」は最大級の侮蔑であり、人々は無色、無臭、ツルツル、サッパリ等々の「清潔」の代名詞に魅きつけられる。しかし、この「きれい(清潔)、きたない(不潔)」は、既に述べたごとく必ずしも衛生面に基づく判断ではない。顕微鏡で検査したらバイ菌が無数に居ようとも、外見が「清潔」でありさえすれば、多くの人々は満足する。
仮に、ヨレヨレの紙袋に入っているが実は完全無添加の菓子と、美しく包装されているが実は有害物質含有の菓子とが並んでいれば、過半の人間は前者を「きたない」と判定し、「きれい」な後者に手を伸ばすことだろう。冒頭に記した週刊誌をチェックする若者や、消臭スプレーを部屋に振り撒く(まく)奥さんにしても、結局は表面的な「きれい」さの幻想を追い求めているに過ぎない。
要するに、この「清潔」は、これまでに人類が様々な病害を抑えるために獲得しようと努めた実利的な「清潔」とは、相当に異なる性格のようだ。人類が地球の支配者然として文明を築く中で、そのセックスが生殖の本義よりも快楽の側面を増大させたのに似て、現代の“清潔願望”は言ってみれば「快楽としての清潔」と化しているのかもしれない。
人間にとって、「清潔」は本能的な快楽なのである。夾雑物・不純物の無い―異分子を排除した統一感・一体感。それは全き百(あるいはゼロ)なのだから、個別の判断を必要としない。あれは何、これは何、と神経を煩わすことなく、その場の状況をひたすら無批判に丸ごと受け容れ、浸っていればよろしい。
また、統一され一体化した多数の人間が、緊密に同じ行動を取ると、厄介な均衡の美まで生まれる。たとえば、軍隊の示威パレードは、古今東西、まずどこの国を取っても、多数の兵士が完全に同じ装備・姿勢・歩調・速度に準じて進むことだろうし、そこから幾らかの距離間隔を置いたところで、オリンピックや国体や高校野球の入場行進が行われ、またその延長線上で、丸坊主・制服姿の中学生たちが「前へならえ」の整列を実施する……。
言うまでもなく、そういう風景を見て、「機械のようだ」とか「個性が圧殺されている」と眉を顰める(ひそめる)人々も少なからず居る。しかし、それは〝理〟の勝った反応―眼前の光景を一旦は受け止め、爽快な感覚を催しながら、その背後に想いを馳せ、改めて批判に取りかかった言葉―ではないだろうか? 少なくとも僕自信を省みると、そんな嫌いがある。
「清潔」の追求は「汚い物」即ち異分子を忌み嫌う以上、苦もなく差別と結びつく価値観である。そこで、〝清潔願望〟―「きれい」の過大評価を、民主主義に立つ平等意識によって攻撃し、異分子を包み込む必要性を説くことは容易だ。けれども、それでは、「でも、『きたない』よりは『きれい』なほうが気持ちがいいから」という総ての理屈を超えた快楽への凭れかかりを食い止めることは困難であろう。
そうなると、ここはやはり、「きたない」と周りから判定された側が頑張って、消毒殺菌されてしまうことなく自己主張しなければならない。所詮、観念上の「きれい」と「きたない」に絶対基準などないのだから、結局は、あらゆる人々が自分は絶対に「きれい」と信じて生きているだけの話で、その私的物差しを他者に当てはめるなど本来お笑い草なのだ。
もちろん、統一・一体化を目指す消毒殺菌に抵抗することは難しいに違いないが、自然界にも「耐性菌」という物が居る。「清潔」の追求が進む中で、案外しぶとく自らを保持していくことも、充分可能なはずだ。そしてそれは、僕自らに対する督励でもある。
著者紹介
大西赤人(作家)
1955年横浜市生まれ。中学2年より創作を始める。
血友病体質による身体障害を理由に、高校進学を拒否されるが、16歳で短編集「善人は若死にする」を出版。最近はミステリー、映画評論も執筆。著書は他に「引き継がれた殺人」など。