※当該Tが、2012年3月職場で配布した文章を掲載します。
入学式・卒業式における国歌斉唱時、私はいつも立つことができない。そのことはきっと若い同僚の方々には理解しがたいことだと思う。昨年、いわゆる君が代起立斉唱義務条例が施行された。当時、橋下知事は、「これは思想の問題ではなくルールの問題だ。ルールに従えないなら辞めてもらう」と、君が代不起立の問題をルールの問題にしてしまった。国歌斉唱は単なるルールの問題なのだろうか。私はますます疑問に思う。なぜ、卒業式や入学式で国家の旗をあげ、国家の歌を斉唱する必要があるのだろうか。そして、なぜ、そこまでして学校で子どもたちに「国家」への帰属を求めるのだろうか。私は、一市民・一教員として学校への「国家」のシンボルの強制には一貫して反対して来た。昨年6月3日の夜は、府議会傍聴に行き、条例可決成立の瞬間に立ち会った。何とも言えぬ虚脱感と共に、それでも私は立てないと深く思ったことを覚えている。
人には、誰でも、これだけは絶対に譲れないという何かがある。ある人にとってはそれは親しい肉親であったり、ある人にとっては感情であったり、趣味の世界であったり、また、信仰であったり、当然、それは個々人によってそれぞれ違う。私はそれを「背骨」 と呼んでいる。どうやら、私にとって、いつのまにか「学校における君が代強制反対」が、私の「背骨」となってしまったようだ。
「条例が制定された以上はしかたがない」「そんなに意地を張らずに立てばいい」「わずか40秒足らずのことだ。座ろうが立とうがそれで何かが変わるわけではないさ」「立っても歌わなければいい」「クビ!になるかもしれないのに、なんでそこまでして座るのかわからない」・・・いろんな声が聞こえてくる。けれど、私は立たない、いや立てない、私は立ってはいけないと思っていると言った方が正確かもしれない。
少し長くなりそうだが、私の「背骨」がどうやってできて来たのかを聞いて欲しい。条例であっても職務命令が出ても処分されても、私はやっぱり「立つ」ことができない。わかってもらえないかもしれないが、少なくとも、私にはそれを伝える努力をする必要がある。私が長年携わってきた「国語」という科目は、つまるところコミュニケーション能力なのだから。私事の領域もお話しすることになるが、お読みいただければ幸いである。
そもそも、私が教員になったのには、戦時を軍国少女として過ごし、遂に「国語の先生の夢」を諦めざるを得なかった母の影響がある。戦争さえなければ女子師範へ進学したかったと言うのは母の口癖だった。母は1930年熊本県菊池郡酒造野(すぞの)という村で九人兄弟の末子として生まれた。父を早くに亡くし、数えの6歳で姉たちとともに母に連れられ満州は大連の兄を頼って海を渡ったという。そしてその地で敗戦を迎えるまで最も多感な10年を過ごす。私は子どもの頃、大連の話をよく母から聞かされた。アカシア並木、小村寿太郎公園、三越百貨店、星が浦海水浴場、…。母にとって満州は紛れもない故郷であった。母の話はおもしろく楽しく私にっっても大連は親しいものとなっていった。引き揚げの苦労話を聞かされたのはずっと後のことだった。
話は変わるが、私が高校に進学したのは、ベトナム戦争のまっただ中の頃で、当時私の通っていた高校でも反戦運動に身を投じる先輩や同級生がいた。一般的に言って高校生の政治意識は今よりずっと高かった。村上龍に『69』という、自身の高校生生活を題材にした小説があるが、彼はちょうど同世代だ。1969年は世界的に見ても若者たちが世の中や大人に対して反乱を起こした時代であった。
私が高校1年のとき、卒業式封鎖事件が起こった。愛校心に燃える健気な(?)高校生であった私は卒業式を台無しにしようとしているヘルメットに覆面姿の学生が許せず、なんてことをするの、と喰ってかかった。すると、「俺たちは教育を受けていない、こんなのは教育じゃない」そんな意味のことを彼は言った。不思議なことに、2年生、3年生と進むにつれ、私もそう思うようになっていった。こんなのは教育じゃない、と。
翻って母の話。「しかたがなかったんだよ、あの頃は、みんなそうだったんだから。戦地に行っている兄さんに、どうかお国のために死んでくださいって、本気で手紙を書いたこともあった。母や姉たちからこれは止めておけばと言われもその意味さえ理解できないほどだった。死ぬことは名誉なこと、ちっとも怖くはなかった。教育は本当に恐ろしいね。『太平記』の道行文をそらんじながら天皇に忠誠を尽くす楠正成公を心から偉いと思ったもんだよ。そんなふうに教育されてきたんだからね。だからしかたがなかったんだよ。」
1970年代、日本の戦争加害責任が広く問われるようになった頃、母たちの日本人としての戦争責任を私が咎めると母は必ずそう答えた。母の人生は戦争でその夢を奪われた、いわば戦争の被害者と言えるが、それと同時に、母の故郷が今では偽満州国と呼ばれることを考えれば、母も日本の国家の一員としてその責任を負うべきだ。大学生の私はそう考えていた。私が小学生の頃、戦争は原爆や空襲いわば被害の像としてあったが、高校・大学の頃、戦争は加害の像として大きく立ちはだかった。加害の歴史は戦争の被害以上に私には恐ろしかった。私は時代の中で騙されるのはいやだと思った。「しかたがなかった」とは言いたくない、時代の渦があるならばそれを見極めたいとも思った。
母の影響下、教師という道を選ぼうとしつつ、教師になることは恐ろしいことでもあった。戦時、教師は明らかに戦争に加担する立場を担ったのだから。また自分の高校時代の経験から言えば、教師という仕事は全く魅力がなかった。生意気にもあんな教育の担い手にはなりたくないと思っていた。しかし、他に就くべき仕事もなく、1974年私は教師となった。
赴任したのは新設3年目のM高校、試行錯誤の繰り返しのなかで、母の時代の教育を繰り返したくないと言う思いはむろんだが、自分が受けた教育とも違うものを目指そうとしていた。そこで核となったのは人権教育だったように思う。「私は差別なんてしない。」そこからスタートした私だったが、この社会には紛れもなく差別や偏見があることを生徒たちから教えられた。それは同時に自分のなかの偏見や差別意識を自覚することにもつながっていった。人権教育は教えるというより、生徒と共に学ぶ、それまで私が経験したことのないものだった。そして人間の解放をあらゆる場面で求める人権教育は教師の持つ権力性も明らかにした。教師という仕事を通して何かをやらなければならないという以上に、これだけはやってはいけないということを意識させられた。学校とは、ある一面では、その時その時の「国家」に応じて「国民」を「つくる」機関であるが、その先兵として子どもたちに直に接している教師という仕事の危険性はそれだけ大きいということになる。
いろんな生徒との出会いがあった。その中でこれまでの教員生活のなかで深く私の脳裏に刻み込まれているのは、ある「在日」生徒のことだ。もう30年以上も前のことになる。彼女の就職を巡って差別事件が起こった。その詳細をここでは述べないが、大阪を離れ埼玉の親戚宅に身を寄せた彼女を訪ねたとき、私は言うべき言葉を持たなかった。私自身が教師という仕事の重さに押し潰されそうであったのだ。あれほどの情けない思いをしたのは生まれて初めてのことだった。そして、彼女以外でもM高校で出会った何人もの「在日」の生徒の存在や言葉は私に否応なく先の戦争を映し出した。戦争は終わっていないと思った。
そして、卒業式や入学式における日の丸・君が代の取扱は例年のように職員会議の議題となり、議論の末掲揚や斉唱は見送られた。ところが、1989年1月の始業式、学校に初めて日の丸が掲揚された。天皇死去にともない弔旗の掲揚が強制されたのだ。校門に翻る日の丸は今でも目に焼き付いている。悲しく情けなかった。日の丸は新たな「国民」作りのシンボルであった。到底受け入れることはできない。この第一歩を許せば私は加害者になってしまう。日の丸と君が代は母を軍国少女に仕立て上げていったシンボルだ。始業式の日、私は数名の教師と共に抗議として始業式への参列を拒んだ。
それから年々、学校への日の丸強制は強くなっていった。次に赴任したH高校では職員会議の議論もさることながら、毎年のように、卒業生たち自身が日の丸君が代問題に取り組んだ。「うちらのめでたい卒業式に日の丸や君が代はいらない」と全校生徒から署名を集め校長先生のところに持って行った卒業生もいた。
1999年広島県で一人の校長が自殺した。日の丸君が代問題の犠牲者だ。政府はそれを契機に国旗国歌法をすぐさま制定した。その当時政府高官はこぞって、この法律によって学校への国旗国歌を強制するものではないと繰り返した。しかし、あれ以来、紛うことなく学校への強制は、おそらく予定通りのことであったのだろうが、進んでいった。
2000年、私はS高校に異動した。S高校は近隣の高校のなかで唯一国旗国歌法以前から卒業式や入学式で日の丸を掲揚していた学校だった。赴任後、私は反対し続けた。
2003年S高校100周年記念行事で君が代斉唱が行われることになった。当時2年担任で人権教育の係もしていた私は、生徒たちに憲法19条思想良心の自由を確認するプリントを配布した。このことは校長の逆鱗に触れ、私は呼び出され、うちの学校で勤めてもらうわけにはいかないと恫喝された。私は人権教育係として当然のことを行ったまでと反論したが、あまりの校長の剣幕に恐怖も感じた。学生運動の経験もなく、そのときには組合すら入っていなかった私は、日の丸君が代問題でこれからも発言していくには身が危ないとある組合に入った。
そして翌年のことである。私が担任する生徒の一人が校長に君が代斉唱時は座ってよいかと質問をした。ところが、この折のことで、私は評価・育成システムで学校でただ一人能力評価Cを下されたのだ。日の丸君が代問題によって低い評価を受けたことをそのままにしておくわけにはいかなかった。2006年、私は大阪弁護士会に人権救済の申し立てを行った。そして2年の調査を経て2008年秋大阪弁護士会は、評価は憲法違反であり、取り消すよう府教委とS高校校長宛に勧告を出した。新聞でも報道された。素直に嬉しかった。しかし勧告に法的拘束力はない。また賃金上の実損もその当時はなかったので裁判にも訴えることはできなかった。教育委員会も校長も勧告を受け入れることはなかった。納得できず私は支援者と共に内外でその不当性を訴えた。すると、偶然のことではなかろう、私は2009年突然転勤を命じられた。
2009年4月私は本校に赴任した。そのときの挨拶など覚えておられないだろうが、私はこう話したのだ、「S高校で一つの課題をいただいた。今度はそれを本校の同僚のみなさんと考えていきたい」と。私は自分に身に降りかかった、この理不尽で不公正はことがどうしても許せなかった。これをこのままにして教師を続けることはできない。その後もあらゆる場で訴えたが、肝心の本校の同僚に話す機会はなかなか見つけることはできないままでいた。目の前の、今、しなければならない仕事に追われている現状で、この課題をどのように示せばよいのだろうかと考えあぐねているうちに今日まで来てしまったわけだ。いずれ私が受けた人権侵害については何らかの形で報告させてもらおうと思っている。
さて、話を「今」に戻そう。このような状況のもと、今年度の卒業式3月5日、私は年休を取り熊本にいた。母に付き添って叔母の四十九日の法要に参列するためだった。昨年以来、テレビや新聞のニュースを見て私が処分されるかもしれないと心配する母は、クビにされる前に辞めてはどうだと真顔で話す。そして何もあんたが座ることはない、あんたはお金の値打ちがわかっていないとも。満州から引き揚げてきた母の苦労はその断片的な話からも想像できる。貧乏暮らしのなか必死で生きてきたのだ。しかし、その都度私はそれでも立つことはできないと言い続けてきた。叔母の法要が3月5日(実は最終的には4日の日曜日に繰り上がったのだが)と決まって、母は喜々として言った、「どうしてもあんたに付き添ってもらわねば困る」と。すっかり体が弱って来た母にこれ以上の親不孝はできないと、私は熊本に同行した。
すでにニュースで報じられているように、今年度の卒業式で21校29人の教員が君が代斉唱時不起立であった。すでに17名はルールの問題として処分されている。ルールを守ることは当然だ。しかし、これは個々人の「背骨」の問題なのだ。そうでなくて、処分されてまでどうして不起立を貫く必要があろうか。
私の「背骨」は、主義やイデオロギーやある種の観念でできているわけでない。母の話、高校時代の体験、そして何より私が出会った数々の教え子たち、教師として国語を教え、人権学習を共有するなかで、自然とできて来たものなのだ。きっとみなさんにもそして生徒にも、これだけは譲れないという「背骨」があると思う。取り立てて政治活動やら学生運動もしてこなかった私が、そして組合だって数年間しか入っていない私が、どうして「君が代不起立」を背骨とするに至ったかは、結局のところ、多くの生徒との出会いとしか言いようがない。世界観、歴史観、戦争観、国家観、等々…それは日々の生活のなかで次第に培われ「背骨」としてその人を立たせていくものなのだろう。
私は、国家は暴走するものだと思っている。明治以降、学校教育が「国民」教育を担って来たにせよ、私にはそれに対し異議申立をする自由がある。別の方法で、という声もある。しかし、私にとって、「不起立」は、学校へ「国家」による「国民」教育を持ち込むことへの抵抗の証しなのだ。「不起立」以外にもっといい方法はあるかもしれない。入学を祝う気持ちはもちろんある。新入生との出会いは誰にも負けないぐらい嬉しい。当然、お祝いの、そして一緒に勉強していきたいと声をかけるつもりだ。しかし、入学式には参列し、国歌斉唱の折には不起立で臨みたい。そのことで怒る新入生や保護者には、私の思いを話すつもりだ。それでも許さないと言われれば謝りもしよう。しかし、泥縄に決めたような条例でルールだからと言われても従うことはできない。それが私の「背骨」なのだから。どうかご理解いただきたい。母にも心配をかけることになるが、きっと母はわかってくれると信じている。現場にも迷惑をかけたくない。しかし、このような状況だ。何が起こるかわからない。私自身も怖くないと言ったら嘘になる。それでも私には不起立しかなのだ。
さて、長い話を読んでくださったみなさん、本当にありがとう。
2012年度第9期生入学式に参列し、不起立をするしか、私にはこの仕事を続けていくことはできないのです。それがこれまで、私が出会った生徒たちを裏切らない道なのですから。