※高作正博さんからフェイスブックを通してメッセージをいただきました。
また、ドゥウォーキンの文献も紹介していただきました。
市民的不服従の権利
重いテーマですが、今最も問われている問題なのだろうと思います。
特に日本社会では、他者の不法を許さない、という異常な圧力が存在します。
そんな中で不服従を貫くのは、国家権力からだけでなく、社会からも非常に厳しい強風にさらされることになります。
それに立ち向かう論理を用意することは必要なことですね。
特に、選挙が近づいてくるとどうしても浮き足立ってしまいます。
そんなときだからこそ、本質的な問題を考えておく必要があるものと思います。
さて、まずは、ドゥウォーキンの議論です。文献は以下の通り。
Ronald Dworkin,Taking Rights Seriously(Harvard University Press,1977),ch.8.
ロナルド・ドゥウォーキン、木下毅・小林公・野坂泰司訳『権利論[増補版]』(木鐸社、2004)275頁以下。
彼が市民的不服従を正当とする理由は次の通りです。
1、こうした行動が、あるべき最良の司法判断を生み出すために役立つ。
(事件が起こることで、法律の合理性、その適用の合理性を、裁判所を通じて判断できるようになる。)
2、先例が存在する場合でも、判例変更の可能性を考慮すれば、第1の理由はなお認められる。
3、法準則の正当性は次の2つに区別されるが、あらゆる違法行為を訴追すべしとする見解は、この重要な区別を無視している点で妥当ではない。
その区別とは、以下の点である。
①当該法準則が個人の「道徳的権利」の保護を法益とする場合
②個人の道徳的権利の保護によっては正当化されず、それが促進する「経済・社会政策の効用」によって説明される場合
この議論のポイントは、次の点にあるものと考えられます。
A 人は法に従うのであって、誰かの意見・解釈に従うのではない。
(ここには、マスコミ、批判する人たち、他の事件での検察官や裁判官も含みます。)
B 法の内容が不明確であればあるほど、不服従の行為は、法秩序全体に貢献するものである。
(法の内容を明確にするために大きく寄与したことになる。)
C 日本では違法行為は悪いことと考えてしまいがちであるが、倫理的な善悪と法的な適法・違法とは一致しない。
D 人は、法に従わないことはできるが、自己の信念に従わないことはできない。
(法の次元では、違法も正当防衛などで適法になるのに対し、信条の次元では、従わないことは道徳的に許容されない。)
E 他者の権利や利益を害することは正当化されないが、「経済・社会政策の効用」からのみ正当化される法・ルールの場合には、不服従を許容しない程度は高くない。
(単なる儀式の挙行、防衛政策、慣行、経済的効率などから設けられている法への不服従は正当化される。)
高作正博さんからのメッセージです。
みんなで理論武装をしていきましょう!
悪いことをしているわけではない。
むしろ、良き司法のために貢献しているのだ、という自信を持ちましょう!