徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

平安時代の熊本(1)

2023-06-08 19:35:14 | 歴史
 熊本の歴史について加藤氏時代以前となると、なかなかわれわれの耳目に触れることが少ない。
 そこで平安時代の熊本について、昭和7年に出版された「熊本市史」の中から数回に分けて転載してみたい。
 出版から既に90年以上が経ち、歴史的評価も微妙に変化していることも含め興味深い。

▼第1回
 大化の改新(645年 - 650年)以来、国郡の制度が布かれて、国には国司の任命があり、奈良朝時代には既に道君首名(みちのきみのおびとな)などの名長官があって、千載の遺芳をこの国土に伝えているが、平安朝時代における数多の国司の中でも特に有名で、あまねく後人に仰がれているものが少なくない。中にも紀夏井(きのなつい)と藤原保昌(ふじわらのやすまさ)と清原元輔(きよはらのもとすけ)などは最も人口に膾炙し、特に後の二国司はいろいろ熊本市においても遺蹟をとどめているので多く記憶せられている。その中、紀夏井は清和天皇の貞観七年に肥後守となり、翌八年に弟の罪過によって土佐国に流されたが非常に人格が高潔で徳行に篤く、しかも手腕も才芸もあり、当代まれに見る良二千石であったらしい。その流されて国境を出て行く時には、肥後の人民が道を遮り嘆き悲しむことあたかも父母をうしなうがごとくであったという。次に藤原保昌は懸社北岡神社 ー旧称祇園宮 ーをはじめ、肥後国内諸所の社寺を創建したという伝説があるが、必ずしも創建でなくても造営または再興のものもあるであろうし、とにかく敬虔の念に厚かった人であったに違いない。その肥後守受領は従来久しく疑問とせられていたが、この頃一條天皇の寛弘二年八月であるということが明らかになった。最後に清原元輔はかの「後撰集」の選者、いわゆる「梨壷の五人」の随一としてその名を謡われているが、また、かの平安朝文壇の鬼才清少納言の父としても有名な人である。その肥後守としてこの地に下向したのは、華山天皇の寛和二年 ー 元輔七十九歳の頃 ー であったらしく、当時、その愛嬢清少納言は、後に一條天皇の中宮とならせられる定子の君に宮仕えする以前であったにかかわらずどうしていたものか ― 京師に留守居でもしていたものか ― 元輔はその妻なる周防命婦と二人、老躯を提げて肥後に下向して来たようである。彼のこの地における地方長官としての事業は何らの伝わるものがない。けれども歌人としての彼は、この地に多少の業績を遺し、特に肥後が有する唯一の平安朝時代の歌人檜垣との交遊によって頗る興趣ゆたかな二三の物語を今日に伝えている。(続く)


清原神社(北岡神社の飛地境内)


清原神社の祠に納められている座像四体