徒然なか話

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平安時代の熊本(2)

2023-06-10 19:02:25 | 歴史
 昨年熊本市で行われた「第4回アジア・太平洋水サミット」では、オンラインで参加された天皇陛下が、後撰和歌集における檜垣媼の歌「年ふれば我が黒髪も白河のみづはくむまで老いにけるかな」を引用して熊本の人と水の関係を象徴的に説明される記念講演がありました。
 第2回は、平安時代の閨秀歌人としてその名が伝わる檜垣の話です。

 檜垣は才色兼備の婦人であったようである。若い頃から、当時西国の首都であった筑前大宰府あたりに行っており、後さらに京都へ上って紳搢の間にも立ち交っていたらしく、「檜垣の御」などとも呼ばれて相当の敬意を払われ、近親などには当代知名の紳士淑女もあったようである。その清原元輔と相知ったのはいつ頃のことか不明であるけれども、おそらく檜垣が大宰府あたりにいた頃からのことであろうと思われる。こうして晩年、肥後に帰って白川のほとりに住んでいた彼女は、その旧知の歌人元輔の来任によって互いに旧交を温めることとなり、国司の官邸にも家庭的に出入することを許されて、ともに閑雅な趣味的生活を楽しんだようである。
 元輔の肥後における任期は当時の制度に従えば満四箇年であった。こうして彼が任期満ちてまさに都へ帰ろうとすると、檜垣は甚だ惜別の情にたえない。「もう一度どうです。京都へ一緒に上ろうじゃないですか」などと元輔に言われても、盛りもいたく過ぎ果てた婦女の身では、今さらそういう自信も希望もない。ただ在りし日の夢を偲び、今日の別れを永遠の思い出にするばかりである。

 白川の底の水ひて塵立たむ時にぞ君を思ひ忘れむ

この和歌の詞書(ことばがき)― 小序 ― は次のようである。
 清原の元輔の守、任はてて京へのぼりしに、門出のところに呼びて、はじめ筑前(一本筑後)の守なりしに程もなくこの国に来て再びあひ見つるに、今はわれも人も老いたり。また筑紫のかたに来べきにあらず。いざかし京へなど戯るに、妻の周防の命婦、物などかづけて今かく言ふと、思ひも出でじものをといひたるに。
 白川の――
いかにも文がうまく歌も才気煥発の趣きがある。こういうところが彼女の得意な一面であったらしい。しかし彼女の他の一面には、頻りに青春の盛り過ぎたことを嘆じ、一身の衰境に入ったのをはかなむ感情がその作物の上に現れている。彼女をめぐる小さい世界 ― 例えば近親旧知の身の上 ― などにも人生の寂しい姿がしばしば描かれている。思うに機知に富み理性に勝った彼女には、こうした自他の運命がまざまざと心境の上に映ずるのをどうともなし得なかったであろう。この点において、一巻の「檜垣家集」は単にそれが平安朝時代における文学的の作品として、多大の興味を有するにとどまらず、また当時の才人 ― 女性詩人 ― を中心として展開せられた一篇の人生詩 ― または時代詩 ― とも見ることができよう。(続く)


檜垣が結んだ草庵が寺歴の始まりと伝えられる蓮台寺(熊本市西区蓮台寺2)


蓮台寺の檜垣の塔


蓮台寺の桧垣の像