徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

「一日亭」の数奇な運命

2017-06-23 18:19:10 | イベント
 肥後銀行本店ギャラリーで行われている展覧会「御用絵師、肥後の山水を描く。」を観に行った。
 熊本藩の御用絵師は、矢野派と肥後狩野派だが、展示されているのは風景画を得意とした矢野派の絵師たちにより描かれたもの。
 多くの作品の中に、かつて熊本城二の丸(現在の国立熊本病院附属看護学校)にあった八代松井家のお茶屋「一日亭(いちにちてい)」の図屏風があった。この「一日亭」はその後、数奇な運命をたどることになる。

 明治4年に廃藩置県が施行されると、二の丸にあった「一日亭」は、坪井立町の三浦栄次という人物に払い下げられた。三浦は慶応年間に京町1丁目に「ゆくとせ」という料理屋を開業して成功していた。三浦は「一日亭」を新堀町に移築し、「一日亭」そのままの名前で営業を続けた。さすが松井家のお茶屋だっただけにその風格ある店構えに、地位ある人々の行楽の場所となった。「ゆくとせ」時代から抱えていた多くの芸者に加え、「一日亭」となってからも新たな芸者が加わり大いに人気を集めた。明治7年、熊本に初めて公許の遊郭が誕生することになった。その区域は新堀、京町1・2丁目に限るということであった。新堀、京町が指定されたのは町が劃然と一つの区画として整っていたこと。加えて、「一日亭」、「鱗開櫻」などによって既に花街の体をなしていたこともあった。明治9年の神風連の乱の際には、京町柳川の邸に襲撃を受けた熊本鎮台の聨隊長輿倉中佐が「一日亭」に逃げ込み、髭を剃り落し、使用人の法被を纏って姿をくらましたという逸話もある。全盛を誇った京町の廓、丸3年の栄華の夢も、明治10年の西南の役で焼けて灰燼に帰した。戦争が終結したその年の冬、時の熊本県令富岡敬明は、当時畑地であった二本木一帯に公娼地の許可をした。ここには、「一日亭」など京町から移って来たものや新たに開業するものなどもあった。二本木遊郭は西日本屈指の遊郭として繁栄して行った。「一日亭」は三浦栄次の娘、三浦ジンの経営手腕によって大いに繁盛したが、大正に入り女将三浦ジンの死後、次第に経営は衰微した。昭和10年に行われた「新興熊本大博覧会」のガイドブックに掲載された二本木遊郭の妓楼一覧の中に「一日亭」の名前は既にない。
※参考資料「熊本県大百科事典(昭和57年発行)」「紅燈夜話(大正14年発行)」



一日亭春秋真景図屏風(秋景)江戸時代後期 松井文庫所蔵