雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキのデグナーの思い出

2007-01-15 06:22:28 | M/Cレース
「エルンスト、デグナー」ドイツが産んだ名ライダーである。
スズキの契約ライダーとして、またスズカの「デグナーカーブ」でも有名である。

1966年10月、富士スピードウエイで開催された日本GPにデグナーを登場させるべく契約をしたのだが、練習中に転倒怪我で、カワサキのデグナーは実現しなかった。

外人ライダーとの契約は、デグナーがはじめてであった。
山田さん(後、川重副社長)が直接交渉し私は契約書などお手伝いをしたのだが、さっぱり具体的なことが解らず、MFJの運営委員会で面識のあったホンダの前川さんに,鈴鹿までお伺いして教えて頂いた。

9月10日のことである。
当時、日本の契約書の末尾によく書かれていた「疑義のある場合は、甲乙円満に話し合い」は駄目ですよ。若し書くなら「疑義のある場合は、甲の判断による」など具体的に丁寧に教えて頂いた。

23日には英語の契約書(案)も出来て、26日に来日したデグナーを神戸のホテルまで迎えに行った。
Good Morningと一言いっただけ、明石まで一言も喋らずに(喋れずに)戻ってきた。
契約交渉は山田さんがされた。英語が喋れたのである。大したものだと思った。


29日には、FISCOでテスト走行に入ったのだが。練習中にチェン切れで転倒し、頭を打ったので御殿場中央病院で診てもらった。
大したことはないようなので,10月1日に明石市民病院まで移動し入院させた。

ところが、3日になって容態が急変した。当時はまだ脳外科の専門医は少なく、診断ももう一つはっきりせず不安であった。
専門医の神戸医大の光野教授に診て頂くために、ツテを総動員して4日に神戸医大に移したのである。

インターンを引き連れての、光野先生の診断は非常にはっきりしていて「大丈夫です」といって頂いて、本当にほっとしたのをよく覚えている。

具合が悪くなってからの、デグナーは、まず会話がドイツ語になった。カルテをドイツ語で書くお医者さんもドイツ語が理解できなかった。
9月13日にドイツ留学から戻られたばかりの、大槻さんがGPチームの監督だったので助かった。

「日本の医学は何十年遅れている」と文句ばかり言っていたデグナーも、プロフェッサーの診断となると何一つ文句を言わなくなった。
欧米でのプロフェッサーの権威がよく解った。

10月21日にデグナーは無事退院するのだが、その間本番のレースも開催されて大変な1ヶ月半だった。
そんなことで、残念ながらカワサキでのデグナーの走りは見ることなく終わってしまった。

更に、契約金を円で支払ったのだが、当時は持ち出すことが出来ず、神戸の日銀支店に顛末書を書いて、やっと解決するというおまけまで付いた。


そんな、懐かしい思い出があるのだが、

デグナーを検索していて、スズキの中野さんの書かれた、「デグナー追憶」に出会った。
ホンモノの素晴らしいデグナーに会うことが出来ると思います。是非ご一読を。
コメント (6)
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